チリンの出産
パノの弟スディオが妻のチリン元王女の出産に立ち会った時、スディオにはチリンの手を握り続ける使命が与えられた。ただし実態は、握るではなくて握り締められるだった。
出産の痛みを堪える為に、チリンがスディオの手を握り締める。普段の嫋やかなチリンからスディオが想像出来る力を越える、もの凄く凄まじい強さでチリンはスディオの手を握った。
「チリン様はもっと辛く苦しいのです。スディオ様もその程度は耐えて下さい」
平坦な声で助産師にそう言われてしまえば、スディオは苦鳴を漏らす事も堪えるしかない。
その上スディオは喋る事も禁じられた。チリンを心配したり励ましたりする言葉をスディオが掛けると、出産の流れを妨げるとされたからだ。
いきんではいけない時に「ガンバレ」などと声が掛かれば邪魔になる。チリンの名を呼ぶだけでさえ、声に不安な色が付けば、それを聞いたチリンが不安に感じる。
スディオの反論はミリの説得で抑えられ、邪魔をしたら追い出すとの助産師の言葉も、スディオは肯いて受け入れていた。
チリンの出産準備は、パノの母ナンテや助産師とも相談しながら、ミリが主導して調えた。
出産時も助産師が全体を見ながら指示をしていたが、ミリも先回りしながら対応をしていた。
そしてチリンの強い希望があり、もちろん助産師も傍で補助を行っていたけれど、チリンの子供を取り上げたのはミリだった。
スディオとチリンの第一子は男の子で、母子共に問題なく、出産は無事に終わった。
チリンが子を産むと直ぐに、コーハナル侯爵邸から王宮に向けて使者が出された。
それまで臨月に入って国王から毎日の様に、予定日が近くなってからは日に二回も、チリンの様子を尋ねる使者がコーハナル侯爵邸を訪れていた。それをナンテが王宮に抗議して、チリンからも抗議文を国王に直接送って、コーハナル侯爵邸は国王からの使者を出禁にしていた。その代わりに無事に出産をした時にはまず一番に、国王に報告を行う約束をしていたのだった。
チリンが無事に出産を終えた情報は、素早く王都内に広がる。
神殿の敬虔な信徒達は、悪魔ラーラの味方をしていたチリンを敵視していた。しかしそれ以外の大多数の王都民からは、王族であったチリンは慕われている。その為にチリンが無事に出産した事は、多くの王都民の表情を明るくした。チリンは王族籍を抜けている為、国主導の祝祭とはならなかったけれど、直ぐにチリンの出産を祝ってサービスをする店などが相継ぎ、王都は祭りの様な活気を呈していく。
ちなみに、ソウサ家からコーハナル侯爵家には祝いの品が届けられたが、ソウサ商会は通常通りの営業しか行っていなかった。ソウサ商会は今まで、特定の貴族家の出産を祝った事がなかったし、サニン王子が誕生した時も普段通りだった為、今回も前例を踏襲していた。
王家からはコーハナル侯爵邸に、直ぐに祝いの品が届けられた。そして王命で王都に集まっていた領主や領主代行達も、コーハナル侯爵邸にお祝いを届ける。
コーハナル侯爵家と良好な関係を続けている各侯爵家とその配下の貴族家は、予めチリンの出産に合わせて祝いの品を用意していた。それ以外でも、チリンの出産予定日の情報を掴んでいた貴族の中には、王都に来るに当たって祝いの品を用意して来た家もある。そして祝いの用意を事前にしていなかった貴族家も、他家の動向に合わせて、コーハナル侯爵邸に祝いの品を送るのだった。
貴族家からの祝いの品は、贈る相手に拠って二種類に分けられた。
チリンに贈る場合には、その息子にも贈っている。この二人にだけ贈っているのは、コーハナル侯爵家とは敵対している貴族家だ。三公爵家はこちらに当たる。祝うのはチリンが王家の血を引くからであり、その息子も王家の血を引くからだと言う意図があった。
コーハナル侯爵家との関係が良好な貴族家は、コーハナル侯爵家に対して祝いの品を贈った。各侯爵家は、コーハナル侯爵家には贈ったが、チリンと息子には贈らなかった。その代わりに、チリンやスディオと交流のあった本人が、家ではなく自分からとして祝いの品を贈って来ていた。
レントの父スルト・コーカデス伯爵も王都に到着していて、コーハナル侯爵邸に祝いの品を送ったが、それはチリンへの物だった。
今回のスルトの王都行きには、レントも同行を望んでいた。王都でレントが世話になった事に付いて、スルトからコーハナル侯爵家やコードナ侯爵家に対して礼をして貰おうと、レントは思っていた。これを機会に両家との関係を改善出来るのではないかと考えていたのだ。
しかしレントの同行自体もレントの祖父リートも祖母セリも良い顔はしなかったし、それよりもスルトが頑なに許さなかった。
スルトは馬車を使用するが、馬車が苦手なレントは同乗せずに騎馬での移動となる。警護面を考えると、スルトの馬車とレントの騎馬のそれぞれに、護衛を付ける必要がある。護衛の人数が増えれば、費用が確実に増える。移動費用に国からの補助を出して貰っている立場で、その様な事は望ましくない。スルトがコードナ家やコーハナル家に世話になった事に付いても、王命の序でに礼を述べるのは国王陛下への失礼に当たる。その様にスルトに言い切られてしまえば、レントも諦めるしかなかった。
そしてレントは自分が同行する事を諦める代わりに、スルトが王都にいる間にチリンが出産する事を見越して、お祝いを贈る為の費用をスルトに用意させていた。これに付いてはチリンが国王の娘であることを理由として、スルトにも納得をさせていた。
しかし、レントの同行で費用が嵩むと言うのは言い訳に過ぎず、スルトは馬車に一人の愛人を一緒に乗せて、王都に連れて来ていた。その愛人と会わせない為の、レントへの同行拒否だったのだ。
チリンの出産を祝って賑わう王都の街で、スルトは愛人とのデートを楽しんだ。そして出産祝いの名目で用意した資金も、少なからぬ額がデートに転用されていた。
チリンの出産を祝う賑わいの中、国王が王都に貴族を一堂に集めたのはチリンの出産を祝わす為だったのではないか、などと噂が流れ始めた頃、各貴族家の代表は王宮の謁見の間に集められた。




