チリンの陣痛
陣痛が始まると元王女チリンは、パノの弟でチリンの夫であるスディオを出産に立ち会わせる事を決めた事に付いて、直ぐに後悔をする事になった。とにかくスディオの事がチリンの気に障る。
スディオに取っても初めての子供になるので、そわそわと落ち着かないのはチリンも分かっている積もりだ。
しかしスディオに傍をうろうろと歩き回れたり、チリンが少し体を動かしただけで心配してあれこれ訊いてきたりする。
チリンはそう言うスディオがとにかく鬱陶しかった。
そしてスディオのその様子の中に、燥いでいる様な感情が見え隠れしている様に思えて、チリンは腹が立った。
燥ぐのも分かる。子供が生まれる事をスディオに喜んで貰えるのはチリンも嬉しい。
でも気に障る。鬱陶しい。腹が立つ。
「スディオ」
ソファに座って目を細めて睨む様に名を呼ぶチリンに、スディオが素早く近寄る。
「どうしたんだい?チリン?生まれそうなのか?」
スディオのその心配そうな表情も、今のチリンには苛立たしかった。
しかしパノもパノの母でスディオの母でもあるナンテも傍にいる。感情をストレートに出してスディオに打つける訳にもいかない。
気持ちを落ち着ける為にチリンが一呼吸置くと、それを苦しいのかと思ってスディオがまた心配をした。
「大丈夫かい?そろそろかい?」
眉間に皺が寄りそうになるのを何とか堪えて、チリンは小さく息を吐くと、スディオに微笑みの表情を向ける。
「まだまだだから、落ち着いて」
「ああ、大丈夫だ。いつでも準備出来ているから」
準備して下さっているのはお義母様達でしょ!と言いそうになるのをチリンはぐっと堪えた。
「・・・良いから、落ち着いて」
「私は落ち着いているよ。大丈夫だから。任せてくれ」
落ち着いていないから任せられないのよ、との言葉をチリンは飲み込む。
「・・・産むのは時間が掛かるから、スディオは仕事に行ってよ」
「いいや。私はチリンの出産に立ち会う。そう約束をしただろう?」
「その出産がまだ先なのだから」
「もう出産中だろう?陣痛が始まったのだから」
チリンは自分の感情をコントロールしようと、深く息を吸って長く息を吐いた。
しかしそれをスディオが心配そうな声でまた「大丈夫かい?」と訊いて来るので、チリンの感情がグッと強まる。
このままでは駄目だ、とチリンは思った。
自分が相手にする限り、スディオに苛立ちを覚えてしまう。心配されているのは分かっているのに、間違った感情が昂ぶって仕方がない。
幸い傍にはスディオの相手を任せられる適任者がいる。妊婦や出産に詳しく、自分の気持ちの機微も的確に掬い上げてくれて、なおかつスディオがとても可愛がっているミリちゃん、とチリンはミリに顔を向けた。
「・・・ミリちゃん」
「はい、チリン姉様」
「スディオを仕事に行かせて」
そんな無茶な、とミリは思った。振り向くとパノはミリに肩を竦めて返した。ナンテがミリに微笑みを返しながら小さく肯くのは、ミリに任せると言う意味だ。
そのミリの背後でスディオは、諭す様な口調でチリンに話し掛ける。
「チリン?私の最愛のチリンが、私達の子供を産むと言うのに、仕事なんてしていられる筈がないだろう?」
振り向いたミリには、チリンがイラッとしたのが分かった。
「スディオ兄様」
「なんだい?ミリ?言って置くけれど、私はチリンの出産に絶対に立ち会うからね?」
ミリは「分かっています」と肯いた。何しろスディオがチリンの出産に立ち会える様に、関係者を説得する材料を集めて来たのはミリ自身だ。
「ですけれど陣痛が始まったばかりですので、チリン姉様が赤ちゃんを産むのは、半日くらいは先です」
「ミリ。私だって陣痛が出産開始の合図だと言う事は、知っているんだよ」
「はい。その通りですが、それが何か?」
「出産が始まったと言う事は、いつ子供が生まれて来てもおかしくないと言う事だろう?」
「そうですが、赤ちゃんが産まれるのは半日先ですよ?」
「しかし、産まれる日時は分からないのだろう?陣痛が来ても、その当日に生まれない事もあるのは知っている。しかし、いつ生まれるか分からないと言う事は、今すぐ生まれる可能性もあると言う事じゃないか」
「今すぐには生まれませんよ」
「何故そう言い切れるんだい?子供が早く生まれる事だってあるんだよ?」
「スディオ兄様が仰ってるのは早産の事でしょう?」
「ああ、そうだよ」
「早産は予定日より早く生まれる事ですよ?」
「ああ、知っている」
「早産で生まれる時も、赤ちゃんが産まれるのは、陣痛が始まってから半日程度過ぎてからですからね?」
「そうなのか?」
「ええ」
「だが、この子は既に予定日を過ぎているじゃないか?」
「え?ええ。過ぎていると言っても二日ですし、出産予定日から半月遅れる事もありますから、普通ですよ?」
「それは普通なのかも知れないが、二日遅れているのは出産ではなくて、陣痛が遅れているだけかも知れないだろう?」
「陣痛が?それはどう言う意味ですか?」
「もう生まれる準備がとっくに出来ているのに、陣痛が遅れていたから、生まれるのを子供が待っていたかも知れないじゃないか?そうしたらこの後直ぐに、生まれるかも知れないだろう?」
「生まれませんよ」
「何故そう言えるんだい?生まれる日時は分からないと言うのに?」
ミリは深く息を吐いた。
チリンが眉根を寄せてスディオを見ているのがミリの目に入る。ナンテもさすがに微笑みに苦笑が含まれている様だ。パノは笑いを堪えている様にミリには見えた。




