小魚を茹でる
洗い終わった小魚は、次に茹でる。
小屋の中に用意された大きな鍋に火が掛けられていて、たっぷりの湯が用意され、その表面からは薄らと湯気が出ていた。
「激しく沸騰していると、泡で小魚がバラバラになるから、このくらいの湯気が立つ位で茹でるんだよ」
「なるほど」
「そうなのね」
干物の製作者ニダの説明に、鍋を覗き込む為に護衛達に持ち上げて貰っているレントとミリが、肯いた。
「じゃあ入れるよ。少し離れておくれ」
ミリとレントを抱いた護衛達が一歩下がると、ニダは小魚が入ったバットごと、静かに鍋の湯に沈めて行く。
湯の中に小魚を入れ終わるとバットを抜いて、大きな木べらを手に取った。しかし、木べらで湯を混ぜる訳でもない。
「近付いて見てごらん」
ニダが鍋から目を離さずにそう言う。ミリとレントは護衛を促して、先程の場所まで進んで貰った。
「水を火に掛けると対流が起こるだろう?それでも小魚はバラバラになる。だから対流がゆったりになるように、大きな鍋を使うんだ」
「対流は必要なの?」
「え?・・・どうだろう?」
ミリの質問にニダは、鍋からは目を離さないまま眉間に皺を寄せた。
「一本一本、均一に仕上げるには必要なんじゃないかな?なんでだい?」
「小屋の室温をお湯と同じにして鍋の火を消せば、対流は起こらないけどお湯は全体的に同じ温度になるから、煮干しの仕上がりも均一になるし、煮崩れもし難いかと思って」
その答えにニダは一瞬鍋から目を離してミリを見た。そして鍋に視線を戻してから微笑みを浮かべる。
「教えている積もりが、教わってしまったね。部屋を暖めるか・・・」
「でもミリ?それだと部屋に小魚を運び込んだら、もう小魚が茹で始まっちゃうのでは?」
首を傾げながらのレントの意見に、ミリは目を見開いてから「うんうん」と肯いた。
「そうか。部屋が暑いんだものね」
「それにお湯と同じ温度の部屋には、人は入れないのではない?」
「ホントだ。そうだよね」
ミリとレントの遣り取りに、鍋からは目を離さないままニダが口を挟む。
「いいや。よその国には蒸し風呂ってのがあって、その中の室温は沸騰しているお湯と同じだった筈」
「そうか。そうね」
「そうなのです?」
「ああ、そうだよ。でもそれで言うと、小魚は蒸しても良いのかな?」
「そうよね?こんな大鍋を用意するより、蒸す方が簡単だし、型崩れも起こり難そうだけれど、何故だろう?」
「ニダさん?そのお湯は何か特別なの?香辛料は入れてないよね?」
「特別な事はないね。海水を沸かしているだけだよ」
「あ、それかも?」
「どれ?海水がポイントって事?」
「うん。魚の旨味が蒸気だと逃げちゃうとか?肉とか蒸すと、あっさりするじゃない?」
「そうなのです?」
「うん。だから出来上がった煮干しの味が落ちるのかもね?」
「なるほど」
「なるほどね。さあ、上げ始めるよ」
そう言うとニダはミリ達を下がらせてから、網で小魚を掬っていく。
「目が白くなれば充分だから。身は少し固くなったけれど、皮は剥がれやすくなってるから、そっとね」
「皮が剥がれない様にするの?」
「ああ。見た目が悪くなって値が下がるからね」
「そうか。もしかして、蒸さないのは見た目もあるかもね?」
「え?ミリ?なんで?」
「蒸すなら小魚をザルとかに乗せるでしょ?蒸し上がってザルから移すときに、皮が剥がれるんじゃないかな?」
「皮がザルに貼り付くって事?」
「うん。蒸し料理とかって、下に葉っぱを置くじゃない?」
「そうなのです?」
「うん。あれは蒸し籠に料理が付かない様にする為だから」
「それなら小魚の下に葉を置けば良いのでは?」
「あ、そうか。そうよね?」
「そうすると蒸さないのは、ミリがさっき言っていた、旨味が逃げるのが原因なのかな?」
「う~ん、そうかも?」
ミリとレントが話している間も、ニダは手を休めずに小魚を掬い続けていた。
掬い終わってから、ニダはミリとレントを見る。
「後は、中まで熱がどう通るかとかかな?」
ニダの言葉にレントが「熱?」と小首を傾げる。一方でミリは真っ直ぐにニダを見た。
「でもニダさん?蒸し料理は熱が通ってるわよ?」
「でも、蒸し時間って結構長いよね?」
「あ、そうか」
「それに蒸し風呂に入っても、人の体の中まで熱湯と同じ温度になる訳ではないからね」
「そうね。蒸すのだと煮干しには向かない熱の入り方になるのか」
「そうじゃないかな。さて、二人の小魚はこの鍋で茹でてしまって良いかい?それとも竈でお湯を沸かせて、自分達で茹でてみるかい?」
「自分達でやらせて」
「俺もやってみたいけど、ミリ?火を扱うのは大丈夫なの?」
「うん。野営でスープ番したりしてるから、大丈夫」
ミリの自信有り気な様子に却って心配になり、レントはミリの護衛に視線を送った。ミリの護衛隊長は少し困った様な顔をしていたけれど、それでもレントに肯いたので、レントも肯き返した。
竈の上に置いた鍋に、台に乗ったレントがバットから小魚を入れるとバチャンとお湯が跳ねた。それなので、熱湯での火傷を避ける為、小魚を引き上げる役は護衛がミリから取り上げ、ミリは引き上げタイミングを指示するだけになった。
茹で上げられた小魚は、ミリが見てもレントが見ても、ニダが作った物より劣っているのが分かった。
「本当に、崩れてしまうのね」
「スミマセン。俺の入れ方が乱暴でした」
「ううん。鍋の違いも大きいですよね?ニダさん?」
「そうだね」
「小魚を入れたらお湯の温度が下がってしまってたみたいだし、それで茹で上がるまでに時間が掛かってたもの。でももう少し早く上げるべきだった?」
「いいや。上げるタイミングは合ってたよ」
「う~ん、悔しい」
「え?ミリ?」
「キロは悔しくない?」
「いや、まあ、もう少し、丁寧に入れていたらとは思うけれど」
「まあ、そう簡単に真似をされたら、こっちが困るからね」
「と言う事はニダさん?私とキロがそっちの鍋を使っても、ニダさんみたいにはならないって事?」
「いいや。二人なら十年も掛からないだろうね。五年くらいかな?」
「五年?」
「五年も作り続けないと、ニダさんみたいには出来ないの?」
「そうだね。二人とも、職人を舐めたらダメだよ?」
そう言って笑うニダに、レントは小さく何度か肯いたが、ミリは顔を伏せた。それはニダの言う五年とは、出来上がった煮干しの味見を出来てこその時間に思えたからだ。




