コウグ公爵家の使者の後悔
パノの弟スディオに睨まれて、コウグ公爵家からの使者は二歩下がる。
「あ?いや」
「わたくしを突き飛ばそうとしましたね?」
スディオの妻チリン元王女が、スディオの陰からの半身を覗かせて言ったその言葉には、使者だけではなく皆が驚いてチリンを振り返った。パノの母ナンテだけは苦笑いを浮かべているが、ミリもパノもスディオも使者も、目を見開いている。
「いえ!違います!その様な積もりではございません!」
使者は恐れに震える声で、チリンの言葉を否定した。
王位継承権を持つ元王女を突き飛ばしたりしようとすれば、どの様な罪を問われるか分からない。その上チリンは妊娠中だ。そして先程には、王妃の言葉に悪意があるので抗議するとの話が出たばかりだ。
「そうですか。良いでしょう」
「ありがとう存じます!」
今度は安堵で少し震える声で返しながら、深く深く頭を下げる使者の背中に、チリンの声が掛かる。
「使者殿の心中はわたくしには分かりませんので、それに付いては国王陛下と王妃陛下とコウグ公爵閣下に、判断と対処をお任せします」
「え?」
腰を曲げたまま首だけ曲げて、使者は顔を起こした。
「わたくしが経緯を記しますから、ミリ?ソロン王太子殿下に、届けてけて下さい」
テーブルの席に戻って座りながらのチリンの言葉に、座るのを助けていたミリがピクリと体を振るわせた。
チリンのミリへの命令に、使者を睨んでいたスディオは笑いを堪えたが、レターセットを持って来る様に頼む為に使用人に向けていたパノの顔からは笑みが漏れていた。それを見た使用人はパノに釣られて笑わない様にと耐える。
ナンテが見かねて、ミリを助けようとした。
「チリン」
「はい、お義母様」
「王家への遣いはスディオの方が良いでしょう」
「いいえ、お義母様。コーハナル侯爵家からの正式な使者は、スディオになるのではございませんか?わたくしからの非公式な抗議については、スディオとは別に届ける方がよろしいかと存じます」
「確かにそうするのが筋ではありますけれど」
「それにソロン王太子殿下は、ミリを大層気に入っていらっしゃいます」
ミリは心の中で「やめて!」と叫んだ。
スディオもパノも、心の中ではミリを気の毒に思った。
使用人からレターセットを受け取りながら、チリンは言葉を続ける。
「ソロン王太子殿下も、ミリの顔を見るのを楽しみにしておりますから、ミリに届けて貰えば非公式な報せでも、直ぐに目を通して頂けるでしょう」
「そうですね。ミリ?あなたはコードナ侯爵家の人間です」
「はい、ナンテ様」
「そのあなたにコーハナル侯爵家から王家への抗議の文を持たせるのは、申し訳ないと思います」
そう言ってナンテは少し頭を下げる。
「いえ、ナンテ様。お顔をお上げ下さい」
「ありがとう。ミリ。申し訳ないとは思うのですが、わたくしも王家の皆様の覚え目出度いあなたなら、私的な連絡を任せられると思うのです」
もう一度ミリは「やめて!」と心の中で、先程よりは大きな声で叫ぶ。
ミリに王家への遣いを頼むのは可哀想だとはナンテは思ったが、そうして貰うしかないのなら、コウグ公爵家がミリを侮らない様に箔を付けさせた方が、ミリの為には良いと判断した。
そのナンテの考えに気付いたチリンが、話を乗せる。
「そうですよね、お義母様。国王陛下にも王妃陛下にも温かいお言葉を掛けて頂いているミリが運んでくれるのでしたなら、この抗議の文の意味もソロン王太子殿下が正しく汲み取って下さるでしょう」
チリンの言葉に、理屈が通っていない、とミリは逃避気味に思った。
ミリが国王と王妃に温かい扱いを受けても、それでソロン王太子が抗議文をどう読むか、変わる筈がない。
その上、国王と王妃からの温かい言葉とは、良く来たとか会えて良かったとか、社交辞令の範囲での言葉だった。チリンが大袈裟に言ったのだとしても、国王も王妃も温かい気持ちで言った訳ではないので、事実としてなら無根だとミリは思う。
そしてチリンがソロン王太子に宛てた手紙の文面が目に入って、ミリは驚きを表に出さない様にするのに苦労したし、パノは表情を見られない様にとすかさず顔を逸らしていた。
チリンからソロン王太子への手紙には、
“親愛なるお兄様へ
非道い事を言われました。
言い付けるのはミリちゃんに任せたので、
話を聞いて上げて下さい。
それで、なんとかしておいて下さい。
あなたの永遠の妹 チリンより”
と書かれている。
ミリはこれを受け取ったソロン王太子と、どんな会話をしたら良いのか、今から途方に暮れた。
何より文面がこれだけでは、使者からチリンへの言葉と、チリンがそれをどう受け取った事にしたのかに付いて、ミリからソロン王太子に説明しなければならない。そうしたら、ナンテを始めとしたコーハナル侯爵家の人々が、最初からケンカ腰でコウグ公爵家の使者と会った事とかも、ミリからソロン王太子に説明する必要がある。
そう言う肝心なところを書かずに、子供が書いた様な手紙をわざわざ持たせるチリンの狙いが、ミリには全く分からなかった。
確かにチリン元王女の書いた抗議文をソロン王太子に渡すと言う行為は、ミリがただ口頭で報告するよりも、コウグ公爵家を牽制する効果があるだろう。けれどそれを狙うなら、ちゃんとした手紙を書いてくれても良いのに、とミリはチリンを少し恨んだ。
「ミリ」
「はい、チリン様」
「これをソロン王太子殿下にお渡して下さい」
あんな文面を書いて置きながら、緊張感を漂わせた面持ちで手紙を差し出すチリンに、イタズラが過ぎる、とミリはかなり呆れてしまった。もしかしてチリンが、ソロン王太子に対して同じ事をしろと、自分に要求しているのではないかと思い、ミリはかなりゲンナリとした。
「畏まりました」
そう言って手紙を受け取り頭を下げたミリの顔をなぜか、椅子に座ったチリンが下から覗き込もうとしていた。チリンは俯いたミリが、舌を出していないか、確認していたのだ。ミリが舌を出していなかった事は、少なからずチリンをガッカリさせた。
チリンが再び立ち上がると、ナンテが「さて」と仕切り直す。
「スディオは正式な抗議文を作成して、王家に送る準備と、この件を領地の閣下にも連絡して下さい」
「はい、畏まりました」
「パノはチリンを休ませて上げて」
「はい、畏まりました」
「チリン、気持ちも疲れたでしょう?ゆっくりと休みなさい」
「はい、お義母様。ありがとうございます」
「ミリはソロン王太子殿下へのお遣い、よろしくお願いします」
「はい、畏まりました」
「よろしい。それでは使者殿?」
「え、あ、はい」
「ソロン王太子殿下からの回答があるかも知れません。それですので、ミリが帰るまでは我が家でお待ち下さい」
「あ、いえ、その」
「それまではわたくしが、お相手させて頂きます」
「あ、いえ」
「急な事ですので大したおもてなしは出来ませんが、わたくしと一緒の夕食も是非楽しんで頂けたらと思います」
そう言ってナンテは、入室時と変わらない微笑みを使者に向けた。
使者は後悔していた。
パノの祖母ピナの陰に隠れて、滅多に口を利く事のなかったナンテの事は、御し易い相手だと見くびっていたのだ。現在のコーハナル侯爵家は、元王女チリンさえ肯かせればなんとでもなる、との話を疑いもせずに鵜呑みにもしていた。
今のこの状況は早くコウグ公爵家に報告しなければならないのに、ソロン王太子からの回答を待つ様に言われたら、ミリが戻るまでコーハナル侯爵邸を辞去する訳にもいかない。
この後もナンテを相手にする事になり、どの様な事を言われてたり言わされたりしてしまうのか、使者は不安で胸が苦しくなった。




