33 機嫌不機嫌と血の上下
「これから剣の練習に行くんでしょう?見送らせて」
少し機嫌を直したバルに、ラーラがオネダリとは言えない程度のお願いをする。でも、お手軽でも効果はバツグンだった。
ただラーラには分かっていない。
バルの機嫌の良し悪しが切り替わるのには気が付くけれど、良いがもっと良いになってもラーラには区別が付かなかった。
もったいない。でもラーラも狙ってやっているのではないから仕方がない。それに狙って出来るほどのスキルがラーラにはまだなかった。レベル不足だ。身に着けるには練習が必要だが、自分の行動の効果を正しく認識出来ていない様では、この先に進むのなら道程は遠い。
「俺も着替えて来るから、ラーラも着替えて来いよ」
「待っててくれる?」
ヒット。
「ああ、もちろん」
「時間は掛からないわ。先生のこのベストダンサー養成ドレス、重たいけれど直ぐ脱げるから」
デッドボール。
「あわわてないで良ーから、ちゃんと着替えて来て」
「大丈夫。染みたりしない様に、ちゃんと体の汗も拭いてもらうから」
息の根が止められた。
バルは周囲の匂いを嗅がない様に息を止め、コクコクと肯く。
手を振りながら、邸の中に宛がわれた部屋に向かいながら、「ひとりで行っちゃわないでね?」とラーラはバルに念押しの止めを刺す。
バルはラーラの姿が見えなくなると、死後痙攣の様に振り返していた腕を下ろし、自分も着替える為にフワフワと廊下を進んだ。
それは単なる勘違いかも知れない。
見ず知らずの女性に対しても感じる、思春期男子の本能的な何かだったのかも知れない。
バルにとってラーラが単に今もっとも身近な少女だったから、ラーラに異性を感じてしまっているだけなのかも知れなかった。
ラーラとバルは異性の知人のスタンスを取っているのだから、相手に異性を感じない方がおかしい。親友なのに肩を組んだりしないのは、異性の知人として接しているからだ。
そしてバルが不機嫌になる理由の1つには、親友に対して向けるにはそぐわない想念が浮かびそうになる事があった。
ラーラにフワフワにされてはいてもまだバルは、無意識に浮かび上がろうとする具体的な想像をこれもまた無意識に抑え付け、意識せずに堪えてはいたけれど心の底ではイラッとしていた。
しかしバルは本能的な何かをラーラ以外に向ける事もなかった。
バルにとってラーラは特別だ。親友だ。親友に向けるには相応しくないとは言え、その親友に感じた感覚を他の人間に感じたり投射したりするなんて、親友を裏切る様でしたくはない。
だから喩え他の女性に本能が反応しても、そちらも無意識に抑え付けて閉じ込めていた。その分も上積みされて、ラーラに対して漏れ出ているとも知らずに。
知っていたら運動で発散などしていないで、歓楽街の常連である友人に頭を下げて師事していたかも知れない。
そそくさと着替えたバルは、イソイソと玄関ホールに赴き、ソワソワとラーラを待っていた。
そこへラーラが足早に現れる。
「お待たせ!」
まだダンス練習の火照りがあるのかあるいは急いで来た所為か、ラーラの頬は上気している。
バルの傍まで近寄ったラーラは急に歩みを止め、ほんの少し後に下がった。お互いの手が届かない、異性の知人としての距離を半歩踏み越えていたのだ。
バルの機嫌が切り替わるのをラーラは感じた。切り替えスイッチを探したいラーラは、こんなバルを面倒臭がらずにいる。
「ごめんなさい。遅かったわね。もう行くの?」
「いや。まだ時間はある。お茶を飲むくらい大丈夫だけれど」
バルは手を差し出す。
天気も良く風も気持ち良いので、ラーラをテラスにエスコートしようと思った。見頃の花の話を耳にして、ラーラに見せようと思っていたのだ。
「話し込んで遅れたら大変だから、時間までここで良いわよ」
小さく左右に首を振るラーラには、バルの機嫌がまた少し悪くなった事が気付けない。
「でもダンスの練習の後に剣の練習なんて、バルは大変よね。やっぱりどこかで座ろうか」
「俺は大丈夫だけれどラーラは?」
「私も大丈夫。バルが大丈夫なら立っていたい」
「この後お茶会で座りっ放しだもんな。ああ、お茶もいらないか」
「そうじゃなくて、バルの立っている姿を見てたいなって」
「え?俺を?」
ラーラの言葉の理由が分からない内に、バルの機嫌が切り替わる。ラーラには切り替わりが分かったが、やはり理由は分からない。
「バル、体が一回り大きくなったよね?立ち姿が凄く格好良くなったじゃない?だからバルの全身を見てられるチャンスは逃したくなくて」
ラーラには認識出来ないけれど、バルの機嫌はウナギ登りだ。
ラーラが船乗り達の筋肉を誉めてから、バルはトレーニング量を増やした。その成果が体格に現れ始めていた。
ラーラはバルのその変化を服の上から気付いている。
その後ラーラは、様々なポーズを取らせたバルの周りをグルグルと回って鑑賞した。
二人が飽きずにモデルと鑑賞を続けていた所に、コードナ家の侍女が近付く。
「あ、私の方が時間みたい。ごめんね」
「いや、仕方ない」
ラーラがバルにモデルをさせていた方なのにごめんねとの言葉が出たのは、バルも楽しんでいるのが分かっていての無意識だ。
仕方ないもバルが意識していない本音だ。
「祖母様と母上とお茶会なんて、ラーラも大変だな」
「そんな事ないよ」
「断っても良いんだぞ?なんなら俺から言おうか?」
「え?良いよ良いよ、私、楽しみにしてるんだし」
「無理していない?」
「バルには無理せずに正直な事言ってるじゃない?心配してくれて嬉しいけど大丈夫だよ?」
「そうか」
「デドラ様とリルデ様と話すのは本当に為になるし、ヒデリ様がいらっしゃった時も凄く楽しいの!」
そう言ってラーラは満面の笑みを見せた。
その笑顔が自分に向けたものではないと思った時、やっとバルは自分の気持ちを意識した。
バルの顔から血の気がひく。
自分の祖母と母と姉に対して感じたのが嫉妬だと気付き、何故嫉妬を感じるのか覚ったのだ。ラーラの笑顔が誰に向けたものかを気にする事自体も、バルの気持ちを示していた。
「バル?」
青ざめたバルを案じて掛けたラーラの声が、バルにはとても甘く響く。今は少しも舌足らずではないのに、ダンス練習直後より甘い。
バルの顔に血が上る。
「バル!大丈夫?具合悪いの?熱?」
青くなって赤くなったバルを心配したラーラが熱を測ろうと、バルの額に手を伸ばした。
バルがピクリと反応したのを感じ、知人のする事ではないと判断したラーラの手が止まる。
宙に止まったラーラの手のひらに、バルは吸い寄せられる様に体を倒し掛けた。
「バル!」
ラーラは自分の方にバルが倒れて来ると思い、両手を前に出して腰を落とし、バルを支える体勢に入る。
血相を変えたそのラーラを見て、バルは自分を取り戻して体勢を戻した。
「大丈夫?!具合悪い?!」
バルの様子に驚いて瞳を潤ませるラーラに、バルは正気を保つのが精一杯だ。バルの様子に慌てた使用人達が集まって来るのが視界に入らなければ、そのまま具合が悪くなった事にしてラーラに抱き付いたかも知れない。
バルは自分の中のそんな考えに、今度は顔色を失くす。
「バル?」
今度は顔を白くした親友を心配し、ラーラは知人の距離から踏み込んだ。バルの腕と背中を支える為にラーラが回り込んで横から手を伸ばすと、バルは一歩下がってその手を躱した。
「いや、大丈夫。体を動かせば治る」
「自分の顔色、分かってる?休憩した方が良いよ?」
「いや、大丈夫。練習に行って来るよ」
「でも」
ラーラの瞳が不安に揺れる。自分の気持ちを抑える為に、バルは歯を食いしばる。それを見たラーラの不安が更に増した。バルが堪えているのが体の辛さではない事は、もちろんラーラには伝わっていない。
そこに助けが現れた。
「バル!大丈夫?!」
バルの母リルデが足早に歩み寄る。その後に少し離れてバルの祖母デドラも続いていた。
「あ、ほら、ラーラ、母上と祖母様が迎えに来た。お茶会に行っておいで」
「そんな、バルは?」
「バル?あら?具合が悪いと聞いたけれど、そうでもなさそうね?」
「悪くないよ」
「いいえリルデ様。さっきまで顔が青かったり赤かったり、ちょっと前も白かったんです」
「顔が?そう?」
「それにふらついてました」
「今は?」
「大丈夫だって」
「でもさっきも急になったのです。また急になるかも知れません」
「ラーラ」
傍に来たデドラがラーラの腕に手を起き、ラーラを落ち着かせる為に低くゆっくりと声を掛けた。
「バルは大丈夫ですから、心配ありません」
「でもデドラ様、急になんです」
「いいえ、前からです」
そのデドラの言葉にリルデも「はは~ん」と気付く。「それで距離があるのね」と呟いた。
ラーラが踏み込んだ距離より、バルが後退った一歩の方が大きかった。
「ラーラ。バルは大丈夫です」
「でもデドラ様」
「バルは大丈夫だから、心配いりませんよ、ラーラ」
「だってリルデ様」
「大丈夫だよ、ラーラ。二人の言う通り、と言うか俺の言葉を信じてくれても良いんじゃないか?」
リルデとデドラの登場で、ラーラ一人にバルの意識が奪われがちだった状況が改善された。大分調子を取り戻したバルが、眉根を寄せた苦笑顔をラーラに向ける。
「ホント?じゃあバルの帰りを待ってても良い?」
バルの視野が狭窄する。おねだりラーラが視界を占領する。
バルの息が止まる。バルの目が潤む。
「構いません」
返事をしないバルの代わりにデドラが応えた。コクコクと肯くバルの姿にリルデの眉尻が下がる。
「ほらバルはもう行きなさい。大丈夫なのでしょう?」
「あ、うん」
デドラの言葉に肯くのもリルデに返事をするのも、バルはラーラを見詰めたままだ。
「気を付けてね?」
「あああ、うん。大丈夫だから、安心して待っていてくれ」
「うん」
ぎこちなく片手を上げるバルにデドラが声を掛けた。
「バル。練習では集中しないと怪我をします」
「怪我をしたら、ラーラに看病するとか言われるから気を付けなさい」
「リルデさん。それでは逆効果です」
「ですがお義母様、さすがにそうなったら自分が困る事は分かっていると思いますよ?ねえ、バル?」
「怪我なんてしないからラーラ、心配するな」
「うん。でも気を付けて」
ようやく出掛けられそうになって馬に跨がったバルに、ラーラが不安を抑えて笑顔を作って言った「行ってらっしゃい」が、またバルを固まらせた。
バルの馬も護衛達の乗る馬に釣られて進んで行ったが、乗り手を落とさない様には気を使っていた。
バルは護衛達を振り切りたかった。振り切って大声で叫びたかった。
取り敢えず、祖父に相談する事を心に決める。
本当はもっと近道が出来る相談相手がいるけれど、ラーラへの気持ちを自覚する切っ掛けになったヤキモチの相手に頼るのは、無意識に避けた。それに人選としては祖父は間違えではない。
バルは今まで三男で良かったなんて思った覚えがなかった。
兄姉と鬼ごっこをしても、直ぐ上の兄ガスに簡単に捕まった。そうすると姉ヒデリがガスを窘め、上の兄ラゴは鬼を代わってくれた。ガスに捕まるのが悔しかったのがいつしか、ヒデリに庇われたりラゴに譲られたりする方が悔しくなった。
勉強でも運動でも年上の兄姉には敵わなかった。ラゴが跡継ぎの勉強で、ガスがその補佐の勉強で、二人が剣術の練習時間を少なくしなければ、バルは剣術を続けたり騎士になりたいと思ったりしなかったかも知れない。
いつも末っ子は損だ、長男に生まれたかったと思っていた。せめて次男か自分に弟妹がいるか。
しかしラゴもガスも、二人のこれから決まる婚約の相手は、コードナ侯爵家の都合が第一に考慮されるだろう。ヒデリも幸せそうだがそれは結果であって、家の為の政略結婚だったのには変わりない。
自分にも貴族令嬢との縁談が来るかも知れないけれど、三男だから平民と結ばれる事も有り得無くはない。
簡単にはいかないだろうけれど、みんなを説得しよう。その前にラーラの気持ちを確かめるのが先か?
そこでバルは、ラーラに縁談が来ている事を思い出す。
のんびりしていたら駄目だ。先ずは祖父様の説得だ。コードナ侯爵家としての許可を取るんだ。
そうしてからラーラにプロポーズだ。
練習が終わったら直ぐに帰ろう。先輩達に搦まれても今日はスルーだ。
ラーラに「お帰りなさい」って言って貰うんだ。
でもその後、何を話せば良いのだろう?
祖母様や母上に傍にいてもらった方が良いかも知れない。そうでなければラーラが危ないかも。
気分の上下で更に叫びたくなったバルは、練習開始にはまだ時間があるので遠回りして、風を受けながら頭を冷やす事にした。
そしてなんとか護衛達を撒きたかった。




