恥ずかしい思い
ミリは様々な事に全力で当たっていた。
ダンスのレッスンと護身術のトレーニングがある日でも、助産院での見習い仕事と医院での下働きをやれるだけやって、朝夕は曾祖父達三人の残した資料を読み解く事に集中し、夜はベッドに入ると間を置かずに眠り、夢も見なかった。
そうしなければならない理由がミリにはあった。
そうしなければミリは、レントの前で見せた醜態を思い出して、自己嫌悪に陥りそうになるからだ。
レントが帰った日は良かった。
さすがに恥ずかしくは思って、レントへの餞と一緒に、自分やレントの護衛や従者達に口止め料として菓子を渡したのだけれど、まだ照れ臭い程度にしか思っていなかった。
何よりソウサ家の墓所を出る時には、ミリの気持ちがスッキリとしていたのが大きかった。
しかし時間が経つに従って、とんでもない失態をしでかしてしまった様に思えて、今度は気持ちがそちらに傾いて行く。
だんだんソワソワとして来るけれど、でもあれが失敗だったとしても、今更取り返しが付かない。取り返しが付かない事がまた、ミリの気持ちを追い詰める。
頭の中で「何やってんだい」と曾祖母フェリの声が響いた気がした時にはミリはもう、頭を抱えて蹲ってしまった程だ。養祖母ピナの「蹲ってないで確りなさい」との叱責や、もう一人の曾祖母デドラの「そうですね」と少し苦笑を含んだ様な声まで頭の中で聞こえたらもう、ミリは恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなくなっていた。
身の置き所がないってこう言う事なのね、などと考えてみるけれど、ミリの感情はミリが惚ける事を許さない。
それなのでミリは、恥ずかしさを忘れる為に、思い出してしまわない様に、過密なスケジュールでのタスクを自分に課していたのだ。
それなのでミリは、パノの弟嫁チリンから後で話し合おうと言われていた事も、すっかりと忘れていた。
それはチリンに喚び出された時に、妊娠に付いて何かあったのか、としか考え付かなかった程の忘れっ振りだった。
チリンの姿に気付いたミリは直ぐに、まだ離れた場所から声を掛けた。
「大丈夫ですか?チリン姉様?」
チリンはいきなり何を問われているのか分からず、体調はミリに心配を掛ける様な状態ではなかった筈だけれどと、思わず自分の体を見回す。
チリンの隣に立つパノは、喚び出された理由をミリが忘れていそうだと察して、小さく息を吐いて苦笑いを浮かべた。
「ミリ。チリンさんの体調なら心配いらないわ」
「そうなのですね?良かった」
「良くはありませんよ」
何の為に喚び出されたのかミリが気付いていない事にチリンも気付いて、チリンはミリを一睨みする。
「え?どこが具合悪いのですか?」
チリンの表情を苦しみの現れかと思ったミリは、チリンに走り寄って手を取った。ダンスや護身術で鍛えているミリは、ドレスでの移動も素早い。急に手を取られたチリンが驚いて重心を少し後ろに移すと、パノはチリンの背中に手を当ててチリンを支える。
「ミリ?チリンさんを驚かせているわよ?」
「あ?ごめんなさい、チリン姉様」
ミリは手を放すとパッと一歩下がったけれど、その動きも素早くて、チリンをドキリとさせた。
「ミリちゃん?どうしたの?」
「え?何がですか?」
「いつもより動作が、その、早い様なのだけれど」
「そうね。ミリ?動きが乱暴なのはどうしてなの?」
恥ずかしい事を考えない様にとミリは、常に何かしらを考え続ける様にしていた。次々と考えを繋げる事で思考がせっかちになり、体の動きが少し荒くなっていた。
ミリは深呼吸して気持ちを落ち着けて、ゆっくりを意識して会釈を行う。
「申し訳ございません。チリン姉様に何かあったのかと、気が急いていた様です」
「何かあったって、ミリちゃん?以前の話を忘れたの?」
「以前ですか?」
ここしばらくは忙しく過ごしていたミリに取って思う以前と、ミリが訪ねてくるのを待っていたチリンの示す以前は、現在からの距離が合わない。
「レント・コーカデス殿との文通に付いて、話すと約束していたでしょう?」
レントの名を聞いた途端にミリは、曾祖母フェリの墓前で見せてしまった醜態を思い出す。
ミリの顔が羞恥に染まった。
「え?ミリちゃん?あなたどうしたの?」
「ミリ?何かあったの?」
チリンはミリの顔色を見て、パノはミリの瞳が潤むのを見て、二人とも慌てた。
ミリは咄嗟に本当の事を話す事が出来ずに、口を固く閉じて上目遣いに二人を見上げる。
「ダメよ!ミリちゃん!」
「チリンさん、待って」
「でもパノ義姉様!ダメでしょう?!」
「落ち着いてチリンさん」
「チリン姉様?あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫な訳がありません!」
「ミリ、今日の所は帰りなさい」
「パノ義姉様!」
「え?あの」
「取り敢えずチリンさん、こちらに座って。ほら、ミリは帰って」
「パノ義姉様!ダメですよ?!」
「チリンさんが言いたい事は分かっていますから、まずは一旦落ち着いて。ね?」
パノはチリンの背中に手を当てて、ソファに腰掛けさせる。
「ミリ。来て貰ったところ悪いけれど、今日は一旦帰ってちょうだい」
「パノ義姉様」
「ミリ」
「あの、はい」
ミリはドアの前まで移動して振り向くと、パノとチリンに向かって「失礼します」と頭を下げる。
少し納得していない表情を浮かばせながらも、ミリは二人の前を辞した。
「パノ義姉様、ダメですよ?ダメですよね?」
チリンも明らかに納得していない顔をしている。
その表情を見て、パノは眉尻を下げた。
「頭ごなしに反対をしたら、気持ちが盛り上がってしまうかも知れないわ」
「何を仰っているのです?盛り上がったところでミリちゃんはまだ子供ですよ?」
「そうだけれど、チリンさん。ミリがその気になって色々と根回しとかをして周りを説得し出したりしたら、とっても面倒な事になるわよ?」
「それは確かにミリちゃんは聡いですし、色々な事も知っていますけれど、まだ子供ですよ?ダメな事はダメと私達が教えてあげないと」
チリンはミリを納得させる事を考えると、ピナが亡くなっている事を改めて心細く感じた。
「取り敢えず、私がミリと話をしてみるから。チリンさんの心配も分かるけれど、レント殿とミリは手紙でしか遣り取り出来ないのだから、今日明日直ぐに状況が変わったりはしないでしょう?」
「それはそうですけれど」
「あなたは体調の事もあるから、私に任せてちょうだい。ね?」
「・・・分かりました。パノ義姉様に一任いたします」
「ありがとう」
「その代わり、ミリちゃんにはちゃんと釘を刺して、説得なさって下さいね?」
「ええ。ミリがその様な気持ちになっていたなら、必ず」
パノはチリンの手を握って肯いたけれど、チリンの心配している様にはならないと感じていた。
チリンはミリが顔を赤くした事で、レントに恋心を抱いていると思った。
コードナ侯爵家とコーカデス伯爵家のこれまでの経緯や、ラーラ誘拐へのリリの関わりが判然としていない事から、ミリの気持ちは許されないと思って、チリンは激しい反応を見せていた。
一方パノは、ミリの瞳が潤んでいたので、ミリはその恋心にもう自分で結論を出していると思った。
賢いミリが、バルやラーラの気持ちを無視する様な選択をするとは、パノには思えない。諦めた筈の気持ちに対して周囲が色々と口を出せば、反発をして想いを深くしてしまうかも知れない。
パノは自分の交際練習とその後の婚約申請までの事を思い出していた。反対とまではいかなくても否定的な意見が出された時に、過剰に反論した事で自分の気持ちが凝り固まって行った事は、後から振り返って見るまでは気付かなかった。
それなのでまずは、ミリから話を聞こうとパノは考えていた。
そしてミリはコーハナル侯爵邸を後にしながら、結局レントとの文通の話をしなかったのだけれど、このまま続けてもいいのかに付いて考えていた。
一所懸命に、フェリの墓前での事は頭に浮かべない様に頑張りながら。
ミリは自分の中に、恋心など見付けてはいなかった。




