今を越える嫉妬
バルが寝室に入るとラーラがいなかった。
「ラーラ?」
薄暗い室内を見回すと、バルコニーへ続くドアのカーテンが少し開いている。
バルがそのドアに近寄ってバルコニーを覗くと、ラーラはフェンスに腕を置いて体を凭せ掛かり、夜空を見上げていた。
バルは室内を振り向いてショールを手に取り、少し考えてからショールを手放して、代わりにブランケットを取った。
バルコニーのドアを開けて外に出ると、また少しの思案を挟んでバルは「ラーラ」と声を掛けた。
その声にラーラが顔だけ振り向く。
「風邪を引くよ」
「いいえ、大丈夫よ」
「そんな寂しい事を言わないで」
そう言うとバルは自分でブランケットを羽織り、ラーラの背中から体を包む。
以前のラーラには、こんな接し方をバルは出来なかった。
結婚前も勿論だけれど、結婚してからもラーラに手を握って貰うか、ラーラに背中に抱き付いて貰うかしかなかった。それなのに今は、バルからラーラに抱き付けるところまで来ている。
「暖かい」
「そうだね」
ブランケットの中に満ちてくるラーラの温もりに、バルは喜びを感じる。ショールの代わりにブランケットにして正解だったし、先に声を掛けて良かったのだと思った。
ブランケットを選んだ瞬間のバルの頭に浮かんでいたのは、ラーラの背後から抱き締める事だった。声を掛けて振り替えらせるイメージは持っていなかった。しかしバルコニーに出てラーラの後ろ姿を見ると、それだとラーラを怖がらせるかも知れないと気付いて、バルは離れた位置からまずラーラに声を掛けた。
自分だと分かれば、ラーラはもう怖がらない。
その考えはバルの心に、すっかり馴染みになった昏い悦びを呼び起こす。そこでふと、ラーラの護衛だったキロを思い浮かべたり、キロから連想してラーラのお父ちゃんことガロンを思い浮かべたりしてしまうのも相変わらずなのだけれど。
バルは小さく頭を左右に振って、考えをリセットする。それはラーラには見えていないけれど、バルの体の揺れを感じて、ラーラは小首を傾げた。そして今度はバルがそれに気付く。
「どうしたの?」
「・・・いいえ」
結婚してからずっと、ラーラの心を探り続けて来たバルは、ラーラのその声から不安を感じる。何か良くない事が起こりそうな予感をバルは持った。
一瞬バルの心が後退りしそうになる。だけど今のバルは挫けない。結婚前はラーラの事で自分をヘタレだと思った事もあるバルだけれど、ラーラの夫になってからはヘタレた事などないと自分では思っていた。
「心配事?」
「そうではないけれど」
「レント殿の事?」
レントに言及すれば、コーカデス伯爵家の話になり、リリとの過去の話になるかも知れない。それを覚悟でバルはラーラに尋ねた。
今日あった最大の出来事はレントの来訪なので、バルが口にしなくてもラーラの頭にはレントの事があった筈だけれど、それはバルに取っては関係ない。自分の口からレントの名を出した事が、バルに取っては大切なのであった。後ろめたい事なんて、これっぽっちもないのだし。
ラーラは少し顔を伏せながら「そうね」と言って、自分を包むバルの腕に手を添えた。
「レント殿に、また王都に来たら我が家に寄る様にと、伝えたそうね?」
「ああ」
「どんな方だったの?」
「そうだな。手紙のままだったよ」
「ミリとの手紙?」
「ああ。丁寧な物腰で、利発そうで」
「そう」
ラーラの声が少し低くなって、バルは少し慌てる。
「生まれてから大変だったろうに、性格に影もなさそうで」
「そう」
「ミリを蔑む様な素振りも全くなかったし」
「そうなのね」
ラーラの声が徐々に低くなり、バルは続きの言葉が浮かばなくなる。
「ねえ?」
ラーラが振り向いて、バルを見上げた。
「なに?」
バルの声は喉に張り付いて、少し上擦る。
後ろめたい事も疚しい事も、これっぽっちもない。しかしバルは危機を感じていた。
「レント殿の顔はどなた似?」
「顔?」
咄嗟にリリ・コーカデスの顔が浮かぶ。
「顔かー。スルト・コーカデス伯爵や、レント殿の実母のフレン殿じゃないかなー」
「お二人に似ているの?」
「いやーどーだろー」
どちらともそれ程親しくはなかった。バルの兄達に連れられて、リリと一緒に遊びに行った丘にも、スルトも来ていたのかどうなのか、バルには覚えがない。フレンも世代が少し違うので、どこかで会った事はあるけれど、どこであったのか、バルは覚えていなかった。
「言葉を交わした事も数えるほどだったし、う~ん、二人はどんな顔だったかな?」
少なくともバルは、フレンをナンパした事はない。それだけは間違いないと心の中で考えて、バルは肯いた。しかしそんな事を考えればどうしても、毎日アプローチしていたリリの顔がまた浮かんでしまう。
「何か思い出したの?」
「いや全然全く」
バルは左右に首を振る。
ラーラは「そう」と更に低い声で言うと、バルから視線を外して正面を見た。
「リリさんには似ていた?」
ラーラにそう尋ねられて、バルは直ぐに言葉が出ない。
唾を飲み込んでどうにか喉を開く。
「似ていたかもね」
似ていたかも知れない。バルは今になってそう思う。でもミリとラーラの方が全然似ている。叔母甥と比べたら母娘なのだから不思議ではないけれど、バルは納得して肯く。
「そうよね。血が繋がっているものね」
またバルは言葉が出なくなる。バルとミリは血が繋がってはいない。
「ナンテ養姉様がリリさんへの伝言をレント殿に伝えたそうよね?」
「そうなのか?どんな伝言?」
「リリさんが王都に来たら、コーハナル侯爵邸に寄りなさいって」
「ナンテ様が?」
バルはそう言ったナンテの意図を考えるけれど、理由を思い付かない。
「社交辞令ではないのかな?」
「そうかも知れないし、でも、言葉の通りの意味かも」
悪い予感が当たった、とバルは覚悟した。
ここで強く抱き締めるのは違うとバルは思う。それでラーラの不安が解消するなら、バルの苦労はもっと少なかった筈だ。
抱き締めればラーラはこの話題を出さなくなるだろうけれど、それはいつまでもラーラの心の中に残り続けると言う事だ、とバルは考えていた。
「リリ・コーカデス殿が王都に来るのは不安?」
「不安・・・そうなのかしら?」
「単に顔を合わせるのがイヤ?」
「そうね・・・会わずに済むなら、と言うか、リリさんの事を考えずに済むなら、一生考えたくない」
そう言ってラーラはもう一度バルを振り向いた。
「バルの事は信用しているのよ?」
「ああ。分かっているよ」
「でも、ヤキモチよね?これは不安と言うより、ヤキモチだわ」
「ラーラ」
抱き締めるなら今だとバルは思ったけれど、ラーラは前に向き直って言葉を続ける。
「ナンテ養姉様の事も信じているわ。ナンテ養姉様が私に良くして下さっている事も、たとえリリさんが王都に来ても変わらないと思うし」
「・・・そうだね」
バルは完全にチャンスを逃した。
ラーラはフェンスの上に両手を載せて、目を伏せる。
「コーカデス家の情報は耳に入らない方が良いかい?」
バルの言葉にラーラは「どうかしら?」と呟いた。
バルは、そのまま答えを出さないラーラの頭に手を載せて、髪を撫でる。これも最近になって出来る様になったスキンシップだ。
「私、今度レント殿が王都に来たら、会ってみる」
「え?」
ラーラの突然の決意にバルは驚いて、ラーラの後頭部に手を当てて、顔を自分の方に向けさせた。
「いきなりどうして?」
「コーカデス家を避けている限り、ダメな気がするの」
「ダメって事はないけれど」
「前は当時のコーカデス侯爵にも会ったし、リリさんとも言葉を交わそうとしていたじゃない?」
「確かにラーラはそうだったけれど」
「でもそれは、バルと別れても仕方ないって、心の中では思っていた時の私なの」
「ラーラ」
「でも今は違うわ。違うからこそ、リリさんに会うのは怖いし、バルがレント殿を評価しているのを聞くとヤキモチを焼いてしまうのよ」
「ヤキモチって、レント殿に?」
「え?ええ。え?違うわよ?レント殿を褒めるバルが、レント殿にリリさんの姿を重ねている様に思えて、ヤキモチが焼けるのだから」
「いや、まあ、どちらにしても、要らないヤキモチだから良いけれど」
「でもきっと、私には必要なのよ。だからレント殿を通してリリさんを把握する為にも、レント殿に会うわ」
「いや、その、相手は子供とはいえ、男だけれど、大丈夫かい?」
「ジゴ君とも少しだけれど話が出来たじゃない?」
バルの甥ジゴやバルの兄達二人ともラーラは話をする事が出来てはいたけれど、その後でラーラが疲れを見せていたものだからバルは心配になる。
「でも、そうね。今後いつレント殿が王都に来るのか分からないから、大人になってからだと少し怖いかも?」
「そうだよね」
まあそうだろうな、とバルは思って肯いた。
「だけどその頃なら、私の対人恐怖症も大分改善しているかも知れないから、レント殿と話す事を目指して、頑張るわ」
大人のレントの姿を想像して、それに向き合うラーラを思うと、ラーラとミリの姿が重なって、バルは良く分からないイラ立ちを覚える。
「だからバルも、これからも協力してね」
そう言って微笑むラーラの笑顔が、誰に向けられるかなどとバルは考えてしまう。
「分かったよ」
そう言ってバルはラーラを正面から抱き締めたけれど、それはどちらかと言うと先程とは違い、今の表情を見せたくなかったからだった。
また邸に寄る様にとレントに言った事は失敗だったのかも知れないと、バルは腕の中のラーラには気付かれない様に溜息を吐いた。




