谷を埋めるもの
「一生掛けて、ラーラに事件を忘れさせようと思ったけれど、ラーラは今もいつも忘れられずに苦しんでいる。それにキロとミリの事もあるから、忘れるのも無理だよな。だから一生なんて悠長な事を言ってないで、直ぐにでも痛みだけでも取り除く方法を頑張って探すよ」
「探すって、どうやって?」
「それは、これから調べたり、考えたりするから、少し待っててくれ」
やはり目処も何も持たないバルに、ラーラは心配になる。無闇に悩まれても、答が見付からない状態が続けば、バルの心に大きな負担が掛かるだろう。
ラーラは改めて、自分が感じる恐怖は何なのか考えた。それが分かれば、バルに何らかのヒントを渡せるかも知れないし、自分でも問題解決の為のアプローチが取れるかも知れない。
そう言えば犯罪被害者の中には、自分と同じ様な目に遭った女性達もいた、とラーラは思い出す。その中にはラーラに話をした事で、随分と前向きになれたと言って、ラーラに感謝していた人達もいた。
彼女達は確か、自分を襲った不幸に付いて、客観的に見られる様になったと言っていた。
もしかしたら。
でも。
だけど確かに、今までやった事がない。
ラーラはバルの胸に手を当てて、「バル」と呼び掛けた。バルは声に釣られて目を開ける。
その目を見詰めて、ラーラは言った。
「私が襲われた時の話、聞いてくれる?」
バルはラーラの言葉に、思わず体を起こしそうになって、慌ててまた横になった。バルの胸にラーラが手を当てていなければ、起き上がってラーラを怖がらせたかも知れない。
「襲われた時の話って、でも、思い出すだけでも辛いのだろう?夢でもかなり魘されていたし」
「確かにそうだけれど」
「それを口にして、ラーラは大丈夫なのか?」
バルはラーラが取り乱したりしたら、自分では上手く落ち着かせられないかも知れないと考えた。昨夜の様に抱き締めても、今朝の様に怖がって拒絶される可能性が高い。
「分からないけれど、もしかして、そんな話を聞くの、バルはイヤ?」
そう問われたら、そんな事はないとはバルには言えなかった。
「その話を聞いて、取り乱さない自信がない」
「そうよね。そんな話、聞かされたくないよね」
「いや、ラーラ。少し待ってくれ」
バルはそう言うと目を瞑り、自分の中を整理する。
「俺がイヤなのは話を聞く事ではなくて、ラーラが襲われた事自体だよ。取り乱すと言うのも、襲われた状況を想像したら激昂してしまいそうだからだ」
バルは目を開けてラーラを見た。
「それよりラーラに思い出させる事自体が辛い」
「バル・・・」
ラーラは体を屈めて、バルの胸に顔を付ける。
「でも、もしかしたら、私の中の谷をバルに埋めて貰う為には、その話を知って貰う必要があるのかも知れない」
ラーラはバルの胸から顔を離し、バルの胸と肩に手を置いて膝を立て、バルの顔の正面に自分の顔を持って行った。
「もしかしたら、話す私より聞くバルの方が辛いかも知れないけれど」
「いいや。俺がいくら想像したとしても、ラーラの方が辛いに決まっている」
「いいえ。だってもしバルに何かあったとしたら、バルからそれを話して貰う私はきっと辛いと思うもの」
「ラーラ・・・」
「でも、バル?聞いて貰えないかな?」
「ああ、もちろんだ。もちろん聞くよ。ラーラの事は全て知りたいし・・・そうだな。俺は誘拐事件の事も、ずっとラーラの口から聞きたかったのかも知れない」
ラーラが微笑む。
「ありがとう、バル」
そう言うとラーラは膝を折り腰を下げて、またバルの胸に顔を付けた。
バルはラーラが何に対して感謝をしたのか、判然とはしなかったけれど「ああ」と返す。
ラーラが体を起こして、バルの両手を引いた。
「でも、話すと長くなりそうだから、今日は止めておくね?」
肩透かしを食い、バルは「へ?」と空気が漏れる様な音を返した。
「バルがお休みの前の夜に、時間を貰える?」
「なるほど。構わないよ。朝まで話そうか」
「ええ。だから今日は、今晩も飲みましょうか?どう?飲まない?」
ラーラが今夜も眠れる可能性が高くなるなら良いと思って、バルは「そうしよう」と肯いた。
ラーラは嬉しそうに「うん」と返して、バルの手を引く力を強め、バルは促されて上半身を起こした。
今晩もラーラはそれほど飲まない内に、うつらうつらとし始める。
バルは昨晩と同じ様に、ラーラをベッドに連れて行って寝かせ、酒やグラスを片付けて、ラーラの隣に横になった。
ラーラの指に触れる前に、ラーラから手を伸ばして来てバルの手を握る。ラーラは横向きになって体をバルに向けると、昨夜と同じ様に両手でバルの手を握った。
「バル?」
「うん、なんだい?」
「襲われた事、バルに話すって決めただけで、なんだか心が軽くなったみたい」
「そうなのか?」
「うん。前ならバルに嫌われるとか、捨てられるとか思ったけれど、もっと早く話して置けば良かったのかも」
「ラーラを嫌ったり、ラーラから離れたり、俺には出来ないよ」
「ううん。結婚前よ。襲われてバルにプロポーズされて、ああ、でも、結婚してからも怖かったかな。妊娠が分かった時も捨てられるのが怖くて、それで自分からバルから離れようとしたの」
「そうか」
「うん・・・そう考えると、怖くなくなったのは、ミリに色々指摘されたからかも」
「あの日の事か」
「うん」
ラーラはふうっと息を吐く。
「私、やっぱり、ミリを産んで良かった」
「そうだな」
「でも・・・でもね?ミリがバルの子だったら、もっと良かったのに」
「ミリは俺の娘だよ」
「バル・・・」
「ラーラは俺の最愛の妻だし、ミリは俺の最愛の娘だ」
「二人とも最愛なの?」
「そうとも。俺は幸せ者だからね」
バルは顔をゆっくりと倒してラーラに向けた。
「ラーラ。愛しているよ」
ラーラがバルの手を握ると両手の力を強める。
「ありがとう。私も愛しているわ」
「ああ。ありがとう」
ラーラはバルの手を胸の前に持ち上げると、両腕で巻き込む様に抱いて目を閉じた。
バルも顔を戻して上を向いて目を閉じる。
少しして、ラーラの寝息が聞こえてから、バルも眠りに就いた。




