寝室の二人
暗い室内のベッドの上で、仰向けに寝ているバルは、小さな声で呼び掛けた。
「ラーラ?」
「うん。なぁに?」
ラーラも小声で答える。
「眠れないのか?」
「・・・バルは?」
「・・・そうだな」
二人きりなのだから普通に話しても良いのだけれど、ミリが一緒に寝ていた時の習慣で、二人は小声を続けている。
「少し、話をしても良いか?」
「うん。お酒飲む?」
「いや、ラーラが良いならこのままで」
ラーラは布団の中で繋いでいるバルの手を握る力を少しだけ強め、「うん」と答えた。
「俺はラーラを傷付けたいとも、怖がらせたいとも思わない」
「・・・うん」
「でももし、ラーラを怖がらせずに済むなら、ラーラに触れたいとは思うんだ」
「・・・うん」
「だから、ラーラに触れないと言った約束は、取り消させてくれないか?」
「バル」
「その代わりに、ラーラを怖がらせないと約束する」
「・・・うん」
「ありがとう」
「うん」
ラーラはバルの手を握る力をまた少し強めた。
「でも、こう、なんて言うか、触れても大丈夫かどうか、いちいちラーラに確認していくのは、なんか違う気がするんだ」
「・・・どう言う意味?」
「こう、親指に触っても大丈夫?とか、次は人差し指に触っても良い?とか、少しずつ確認をしていけば確実だけれど、なんか違う気がする」
「・・・どう違うの?」
「上手く説明は出来ないのだけれど、俺のイメージするラーラとの関係ではない感じがするんだ」
「え?なに?どう言うのがバルのイメージなの?」
「いや、それが分からないのだけれど、こう、少しずつでも関係を深めていきたいというか、いちいちラーラに確認して進めれば、ラーラを怖がらせないのは確かかも知れないけれど、責任を全部ラーラに押し付けているみたいだろう?」
「え?そう?責任ってなんの?」
「なんのって、だって、ラーラ任せにしていたら、俺は全然自分で判断をしていないって事じゃないか」
「私が怖いって言ったら止めるから?」
「そう、って言うか、いや、今までもそうなのだけれど、うん」
「今までも?・・・何の事?どうしたの?」
ラーラは半身を起こして横を向き、バルに体を向けた。暗い室内に僅かに浮かぶバルの横顔をラーラは眺める。
「・・・俺達、結婚して何年も経つのに、俺はラーラの事を全然知らないままなんじゃないかって思ったんだ」
ラーラはバルに向けた視線を顔から肩に下げた。
「・・・ミリに何か言われたの?」
「何かって言うか、ミリには昨日から言われっぱなしだけれどね」
バルは上を向いたまま、そう答える。
ラーラはバルが自分の方を向く事を少し期待して、視線を顔に戻した。しかしバルは長年の癖で、ラーラの方に顔を向ける事はしない。それは暗い室内で見詰めると、ラーラが怖がるかも知れないと、バルがずっと思って来たからだ。
「ラーラに触れて大丈夫なのか、ラーラが怖がるのか、その見極めが今の俺には全然出来ないんだ」
「でも、だってそれは、私がバルに触れられるのが怖いって、バルがずっと思っていたからでしょう?」
「そうだけれど」
「私も全然、否定しなかったし」
「それはそうだけれど、なんて言うか、ラーラに触らないって言うのではなくて、ラーラを怖がらせないって約束をしていたのだったら、今でももう少し、ラーラの事が分かっていたんじゃないかって思うんだ」
「でもあの頃は、私はバルの事も怖がったし」
「うん。でも今はあの頃より俺に馴れたろう?」
「それは、うん」
「あの頃、ラーラが俺に馴れてくれる事まで考えられていたら、触らないなんて約束はしなかったと思うんだ」
「う~ん、バルが言う事は分かったけれど、あの時は仕方ないと思うわよ?なんて、なんか、他人事みたいな言い方になっちゃったけれど」
「仕方なかったかな?」
「うん。仕方なかったわよ。バルもいっぱいいっぱいだったんじゃない?私もそうだったし」
「そうだな。俺はラーラが帰って来てくれた事で、感情が振り切れてしまっていたし、どうしたらラーラに結婚してもらえるのかとしか、考えていられなかったもんな」
ラーラは視線をバルの顔から肩に移しながら、空いている方の手でバルの肩にそっと触れる。
バルは触れられた事には気付いたけれど、ピクリとも動かない。と言うか気付いたからこそ、ラーラを怖がらせない為に、ピクリとも動かない。
「後悔している?」
「いいや、それは全然。あの時の俺は良くやった。良くラーラに結婚を承諾させた。あの時の俺は偉い」
「ふふ、なにそれ?」
ラーラは視線をバルの横顔を戻して、そう言った。
「まあ、あれだ。上手くは出来なかったし、今になって娘に課題を指摘されたりしているけれど、ラーラと結婚できたのだから、最高の結果だよ」
そう言うとバルは、顔は動かさずに目だけでラーラを見た。
ラーラと目が合ってバルが微笑んだのが、暗い室内でもラーラには感じられた。
「どう?目標を設けないか?」
「目標?なんの?」
「触れる事の。目標と言うか夢の方が合っているかな?期日を切るとプレッシャーになるから、叶えられたらラッキー程度の夢」
「それ、緩く設定しても意味がある事なの?」
「あるよ。俺とラーラとの認識を合わせる役に立つ」
「どんな夢なの?」
「俺がラーラに触れられる夢」
「そのままじゃない。それが夢の結果なの?でも、それ・・・」
「夢でもプレッシャーになる?」
「それ・・・それが叶ったらどうするの?」
「やっぱりそう考えてしまうか。まあ、そうだよな。ごめん、やっぱり忘れて」
「でも・・・バルは私に触れたいって思ってくれているのよね?」
「そうだけれど、我慢できるから。ミリが言い出さなければ、一生我慢する予定だったし」
「でも、本当は触りたいのよね?」
「ラーラにね。言って置くけれど、他の女性が割り込んで来る余地はないからな?」
「・・・でも」
「でもじゃないよ。ラーラも俺は特別って言ってくれていただろう?俺に取ってもラーラは極上の、この世で唯一無二の宝石で、他の女性は女性としてはイミテーションに過ぎない。例え同じ色や形のものが見付かっても、それは所詮、俺に取っては偽物だから」
「ううん。そうじゃなくて、私が本物になるには、ちゃんとバルの本当の奧さんにならなきゃなのよ」
「ラーラは俺の本当の奧さんだよ」
「違うの。そうじゃなくて、心も、その、バルが嫌じゃなければ、体も・・・」
「・・・ラーラ。もちろん嫌じゃない。嫌な訳ないだろう?」
「うん・・・でも、怖いのは本当なの」
「・・・うん」
「あの、バルが怖いって言うか、もし、その、バルと良い雰囲気になって、それなのに、急に怖くなったら、怖くなる事が怖いんじゃなくて、何が理由で怖くなるのかが怖いの」
「・・・思い出したり?」
「・・・うん・・・でも、でもね?バルとアイツらを比較してるんじゃないのよ?」
「ああ。分かっているよ。俺をそう言う目で見てしまうとか、俺をそう感じてしまうのが怖いんだよね?」
「・・・そう・・・うん」
「・・・ねえ?少しそっちを向いても良い?」
「え?うん。良いけど?」
「そう?ありがとう」
そう言ってゆっくりとバルも半身を起こして横を向いた。
先ほど期待した様に、バルが自分の方を向いたので、ラーラは少し頬を赤くした。暗くて見えないけれど。
「あ~、こう言うところなんだよな」
「え?何が?」
「本当はこう言うの、ラーラに確認しないで、ラーラの気持ちを読み取って、スッとやって怖がられない、って言うのが俺、やりたいんだよ」
「え?なにそれ?どう言う事?」
「そんなの、自分はラーラの気持ちが分かっているって、自信が無ければ出来ないだろう?」
「私が怖がるかも知れないから?」
「そう」
「それは、なんか、ゴメンね」
「謝るなよ。違うんだよ。これは俺の目下の目標だから。何でもかんでもラーラが怖がるなんて思わないで、ちゃんとラーラの事を見て、感じて、考えて、覚えて、いきたい。そうすれば少なくとも、今よりはラーラに近付けるだろう?」
ラーラはちょっと意味が良く掴めなかったけれど、取り敢えず「そうなのね」とバルに返した。




