入浴している裏でまた
ミリがコードナ侯爵邸から自分の邸に戻ると、パノが出迎えた。
「お帰りなさい、ミリ、話は後でね」
そのままパノは通り過ぎて行くので、ミリを出迎えた訳ではなかったのかも知れない。
コードナ侯爵邸で疲れを溜めて来たミリは、昨夜使った客室で休む事にした。
ラーラが入浴している時間を狙って、ミリの使っている客室をバルが訪れた。
ミリに勧められてバルはソファに座り、ミリもテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろす。
「ミリ?」
「はい、お父様」
「その・・・ミリは今夜も、この部屋を使うのかい?」
「はい、その積もりです」
「そうなのか・・・でも、昨夜は良く眠れなかったのではないかい?今朝は大分眠そうだったと聞いたよ?」
「少し寝るのが遅くなったからだと思います。その分、今夜は早く寝ますので」
「うん・・・そうか」
「はい」
視線を下げたバルが話を再開するのをミリは待った。バルの話がこれで終わりとはミリは思っていない。
意を決したバルが、ミリを向いて口を開く。
「今夜からまた、私とお母様と、一緒に寝ないかい?」
「それは何故ですか?お父様?」
「いや、実は、私もお母様も、昨夜は中々寝付けなくて、今朝は寝坊してしまったんだよ」
「私が一緒なら、寝付けるのですか?」
「そうだね。今まで通りなら大丈夫だと思うよ?」
「ですけれど、私が一緒だと、お父様とお母様は、本当の夫婦になれないままではありませんか?」
「いや、まあ、そうなのだけれど」
バルは視線を彷徨わせた。
「お父様?つまりお父様は、お母様と本当の夫婦になりたくないと言う事ですか?」
ミリの言葉をバルは慌てて否定する。
「いや違う!そうではないんだ」
「そうですよね?そう仰っていましたよね?」
「いや、まあ、そうだけれど・・・」
バルは言い淀む。
その通りなのだけれど、娘の前で断言して良かった話題だったのか、今更悩んだ。
「ですが、今の話をお母様が耳になさったらきっと、お父様は本当の夫婦になりたくないのかと受け取ると思いますし、そして傷付くと思います」
「いや、そうだけれど、それは私も思うけれど、私はお母様を傷付ける積もりで、こんな事を言っているのではないんだよ」
「はい。分かっています。だからこそ、お母様がいないこの時間を使って、お父様は私を訪ねていらっしゃったのでしょうから」
「うん、まあ、その通りなのだけれどね・・・」
「ですけれど、お父様のお気持ちに関わらず、お母様は傷付きますよ?」
「・・・ああ。分かっているよ」
そう言ってバルは視線を落とす。
ミリはテーブルを回ってバルの隣に腰掛け、バルの手を握った。
「お父様?お母様は、お父様に触れられるのは怖くないと、お父様の前で仰いましたよね?」
「ああ。そうだね」
「お父様が、お母様に触れる事に恋焦がれている、と仰ったのも、お母様は聞いています」
バルは「ああ」と応えながら、娘の前で何を口走っているんだ昨日の俺、と思った。
「お母様は、お父様が触れて来ると思って、待っていらっしゃるかも知れませんよ?」
「あ、いや、それはそうかも知れないけれど・・・」
バルは昨夜、背中からラーラに抱き締められた事を思い出す。
「少なくともお母様は、お父様に触れられる覚悟をなさっていると思います」
「それは・・・でも、いきなり触れるのは、さすがに」
「ええ。ですが私がまたお父様とお母様と一緒に寝たら、そのお母様の覚悟は無駄になるだけではなく、それこそお母様を傷付ける事になると私は考えます。お父様?違いますでしょうか?」
バルは違うとは答えられなかった。
けれども、自分が行おうとミリに持ち掛けていた事なので、その通りだと肯定を口にする事も出来ない。
「お父様?何も今すぐ、お母様と本当の夫婦になる必要はないと、私は思っています」
「うん、ああ」
「お母様も覚悟をしたとは言え、お父様を恐れてしまうかも知れない事自体、お母様は恐れていると思います」
「・・・そうだね・・・」
「それなので、お母様との距離を少しずつにでも縮めて行くのはどうでしょうか?」
「ああ・・・そうなのだけれどね」
ミリはまだ押しが足りないのかと思った。
「お父様からお母様に触れる事は、出来ないのでしたでしょうか?」
「そうだね」
「それは、私が生まれる前からずっと、同じ状況ですか?」
「そうだな。お母様は手で掴まれるのを恐れたから、エスコートする様な時も、手の甲をお母様に向ける様にしていたからね」
「そのまま、それ以上の事には挑戦をしなかったのですか?」
「挑戦って、それは、まあ、うん」
「それは何故ですか?」
「いや、何故って言うか、結婚時にお母様に触れない事を約束したからね」
「触れない事の約束ですか?怖がらせない事ではなく?」
「怖がらせないのはもちろんだけれど、その為に私からお母様に触らない事も約束したんだ」
「それでしたら先ずは、その触らない約束の明示的な撤廃からですね」
「いや、でも」
「でもではありません。お父様はお母様に触れたいのでしょう?」
「それは、うん」
バルは「うん」とは肯定したものの、娘に何を訊かれているんだ、と思うと途端に否定したくなった。少なくとも理由を付け足したい。
けれどもミリが直ぐに声を出したので、バルは恥ずかしい言い訳を口にしなくて済んだ。
「それならまず、お母様にその気持ちを伝えましょう」
「え?いや、気持ちって、だって」
バルがラーラに思いを告白したその日に、二人は戸籍上の夫婦になって、そしてそのまま今日まで来ている。
それなので、付き合い始めたばかりの恋人状態が、そのまま今日まで保存されている。バルの甘酸っぱそうな初さはそれ由来だった。
もちろんミリは、そんなバルの甘酸っぱさなど斟酌しない。父親の甘酸っぱさって、なにそれ?
「お父様?」
「え?はい」
ここに来てのミリの声の真剣さに、バルは少し飲まれた。
「お母様が特殊な状況でお父様と結婚したからと言って、油断なさってはいけません」
「・・・え?・・・」
「私が成人する時も、お母様はまだまだ若いです」
「・・・そうだけれど?」
「女性に取って、子供が独り立ちしたら、結婚当時に必要としていた夫の価値は不要になります」
「え?」
「いえ、不要は言い過ぎかも知れません。ですけれど、お母様は投資で自己資産を蓄えていますし、いざとなれば商いをする事で、独りでも生きて行けます」
ミリの言葉にバルは声が出なかった。
「他の男性が近付けないからと言って、お母様をこのままにしておいたら、お母様はお父様から離れていくかも知れませんよ?」
バルは唇を開けたり閉めたりするけれど、やはり声は出ない。
「お母様がお父様に引け目を感じている限り、お父様の前からいなくなる事は覚悟しなければなりません」
「・・・どうしたら・・・」
やっと出たバルの声は擦れて小さく、心細いものだった。
ミリはそのバルの様子を見て、ゆっくりと肯いた。
「私が成人する時には、お母様もですけれど、お父様もまだ若いですよね?」
「そう、だね」
「お父様は貴族家三男ですし、自分で事業を取り仕切っていて、収入も多ければ資産も潤沢にあります」
「うん?それが何か?」
「お母様と別れてもお父様は再婚相手に困りませんから、それをお母様から別れの理由にされかねません」
「え?」
「初婚ではなくてもお父様は優良物件ですので、お父様が婚活をなさったら引く手あまたでしょう」
「いや、そんな・・・」
「特に、事件に巻き込まれたお母様の立場を救う優しさや、血の繋がらない私を育てた慈愛の心は、他の女性達にも高評価のはずです」
「そんな、いや、そんな評価は要らないよ」
「そうは言っても、別れたお母様もお父様を推薦なさる筈ですし」
「え?いや、何でさ?なんで既に別れている前提?」
「お母様はお父様の幸せを願うでしょうし、お父様が他の女性との間に子供を儲ける事も望むでしょう。離婚前に、お母様自らどなたかを選んで、お父様と引き合わせる為に連れて来るかも知れませんよね?」
「そんな訳、ないだろう?」
「そうですか?」
「だってラーラは、俺が他の女性と関係するのは嫌がってくれていたじゃないか」
「もちろん嫌ではあるでしょうけれど、お父様に対しての後ろめたさがそれを上回れば、お母様は必ずそうします」
「そんな・・・」
「そしてそれは、私が独り立ちしたら、簡単に上回りますよ?」
バルは頭を抱えた。
そのバルの背中にミリは腕を回す。
「お母様が、お父様と他の女性が関係を持つ事が嫌なのは、本当だと思います。しかしそれを口にした事で、お母様の中でその重みが薄れているのではありませんか?」
「え?・・・なんだって?薄れる?」
バルは首を回してミリを見た。
「思いは秘めてこそ強いと言います。つまり、口にすればするほど、周囲に取っても本人に取っても軽くなります」
「そんな事、あるのか?」
「あります。お父様が多くの少女達に交際を申し込んだ言葉など、それの良い例ですよね?」
「・・・かぁ」
一瞬固まったバルは、そう言葉だが溜め息だか鳴き声だかを上げると、大きく項垂れた。自覚がある。その通りだ。
「ですのでお父様が他の女性と関係を持つ事は、お父様の幸せを言い訳にする事で、お母様は乗り越えてしまうかも知れません。それがお父様の為だと思ったなら、お母様は自分の気持ちを無視するでしょう」
「いや、そんな・・・」
「お父様?お父様はお母様の為に、自分の気持ちを諦めようとした事はありませんか?」
そのミリの言葉にバルは答えられなかった。答えない事がバルの答だとミリは判断する。
「お父様。お父様とお母様の関係は、ずっと長い事、立ち止まったままだったのだと思います。そして今もまだ、立ち止まっているのかも知れません。けれどお父様?後退りしたらダメなのです」
「後退り?」
「はい。昨夜、お父様とお母様のお二人だけで夜を過ごしましたので、今後、私がお二人と一緒に寝るのは後退に他なりません」
「いや、だが」
「お父様。一歩でも後退すれば、お母様は傷付きますし、お母様はお父様から離れる言い訳にもします」
「・・・そんな事・・・」
「そんな事はあります。お父様?」
「あ、うん」
「愛し合う二人は、愛し合っているだけで一緒にいられる程、世の中は甘くありませんよね?」
「え?・・・いや、でも・・・」
「お父様はお母様の為ならば、かなりの事をなさる事が出来るのではありませんか?」
「え?それは、うん。どんな事だってするよ」
「それでしたらお母様と二人で寝て下さい」
「あ、だけれど・・・」
「それはお母様の為でもあります」
「ラーラの?」
「はい。お母様の言い訳を塞ぐ事の出来る、お母様の本当の望みでもあります」
「ラーラの望み・・・」
「はい。もちろん、お父様の望みでもありますよね?」
「俺の?」
「お母様と別れる事と、お母様と本当の夫婦になる事と、どちらをお父様は選ぶのか、私にはお父様に訊くまでもなく分かりますよ?」
そう言うミリにバルは返事を返せず、しばらくミリと見詰め合った後に、バルは確りと肯いた。
「その為にはお母様に、お父様はお母様に触れたいのだと、確りと伝えて下さい。言葉で、今夜」
「今夜?」
「今夜です。それだけでお母様の気持ちは安らぎますし、お父様の傍で眠る事にも安心するでしょう」
「触れなくても良いのかい?」
「はい。お母様に触れるのは、日にちを掛けてゆっくりと、お母様の様子を見ながら進めれば良いでしょう」
そう言うミリにバルは肯き、ミリもバルに肯き返して微笑んだ。
バルとの遣り取りとほぼ同じ様な内容で、バルの入浴している時間中に、ミリはラーラと会話をしていた。
そしてバルと同じ様に、ラーラはミリに説得をされている。




