コーハナル侯爵家での教え
コーハナル侯爵家の王都邸でミリは、貴族としての教養を習っている。
午前中は、ミリの母親ラーラの養母に当たる養祖母ピナ・コーハナルと、ミリと一緒に暮らしているパノ・コーハナルの二人に、礼儀作法で絞られ、最新社交事情を詰め込められていた。
昼食は昼餐会。
コーハナル侯爵邸での昼餐会は、礼儀作法教育の一環と位置付けられている。
コーハナル侯爵家の全員が参加し、ミリの所作言動に誤りがあると、すかさず指摘が飛ぶ。指摘は食事室に控える侍女や給仕から上がる事もあった。
その上、立場を設定するロールプレイ。招待する側の末席役なら気楽だけれど、招待客役にされると気を遣わなくてはならないので中々厳しい。ましてや招待主役なんて失敗ばかりだ。
練習なのだから失敗しても良い、とは言われるけれど、同じ失敗は許して貰えない。
このただでさえ厳しかったコーハナル侯爵家に、更なる強敵が現れた。
現国王の娘チリン王女が、パノの弟でコーハナル侯爵家の跡取りのスディオに嫁いだのだ。
この元王女様、言葉使いは柔らかいけれど、隙がない上に容赦もない。
更にミリが王家に嫁いだ場合のロールプレイなんて、チリンの単なる遊びだとしかミリには思えない。しかし有り得ないからと言っても、ミリから王家出身のチリンに対して文句を言える筈もなかった。
午後はパノとピナにチリンも教師陣に加わり、ミリは芸術・美術論を習う。
これは食べた後で眠くなるのをガマンする訓練も兼ねていた。
その後はお茶会だ。
参加者はピナ、パノ、チリン、それにパノとスディオの母ナンテ、それとミリの計5人が基本で、そこにコーハナル侯爵家の男性陣が加わったり、他家の人が招かれたりする。
ここでもロールプレイで、ミリが主催者になる事もあれば、王族役を命じられる事もあった。
今日のお茶会は、先日のサニン王子の友達を探す会の報告があるので、ミリはロールプレイなしに、ミリ・コードナ本人として参加していた。
「ミリちゃん?」
「はい、チリン姉様」
血は繋がらないけれど戸籍上は、ミリとスディオが従兄妹なので、スディオの妻のチリンも姉扱いする様にと、ミリはチリンに命じられている。「お姉ちゃん」と呼べと言う命令は、何とか撤回して貰っていた。
「サニン殿下とはあまり話さなかったみたいね?」
知られているのね、と思いながらミリは「はい」と答えた。
「どうしてかしら?ミリちゃんの興味を引かなかった?」
「チリンさん」
「なんでしょうか、パノ義姉様?」
「ミリを責めている訳ではありませんね?」
「もちろんです。わたくしが責めるとしたら、サニン殿下です」
「それなら良かったわ」
良かったの?とミリは思う。
「しっかりしているミリちゃんをこうして見ていると、同い年のサニン殿下のアラばかりが思い出されて、この国の将来が心配になってしまいます」
うっかり肯かない様にしないと、とミリは背筋を改めて伸ばす。
「同い年とは言っても、わたくしはサニン殿下と誕生日が1年近く離れておりますので」
「それでも、学院へ入学するのも卒業するのも、サニン殿下とミリちゃんは一緒でしょう?」
「将来はそうですけれど、わたくしとサニン殿下の習い始めが1年近く違うのでしたら、比較するのは失礼に当たるかと思います」
「ミリ。そこは失礼ではなく、まだ早いなどです。その言い回しでは、チリンさんが失礼を働いているとの指摘にも受け取られます」
ピナの指摘が飛ぶ。
うっかりミリの気持ちが漏れていた。
「はい、お養祖母様。チリン姉様、申し訳ありませんでした」
「はい。先ほどからわたくしが、サニン殿下に対して不敬な事を言っておりますけれど、釣られない様にね?」
「はい」
釣っていたのね、と思ってミリは、周りに気付かれない様に小さく息を吐いた。
釣られて困るのはミリだ。元王族なだけあって、チリンの発言は外に漏れても咎め立てされない。けれど釣られてミリが何かを言えば、不敬に問われるかも知れない。結局罪にはならなくても、ミリが不敬を問われるだけで、家やコードナ侯爵家にはダメージになる。
貴族の子息令嬢はこんな教育を受けて、揚げ足の取り合いをするのかと思うと、ミリはウンザリとした。
揚げ足の取り方はまだ習っていないけれど、自分の性格には合いそうにもない、とミリは思う。
でも、文官になってもこんな遣り取りは必要らしい。昇進するのに他人を蹴落とす為だけでは無く、自分の仕事をスムーズに進ませる為にさえ、揚げ足を取られない様にしたり、罠に嵌められない様にしたり、注意が必要だそうだ。
ミリの頭には、文官になる事を両親が反対したのは、自分がそう言う事に向かないと分かっているからなのかも知れない、との考えが浮かんだ。
ミリは指摘を元に、言い直しを試みる。
「サニン殿下より誕生日が1年近く早いわたくしは、おそらくサニン殿下より早く教育を受け始めましたので、サニン殿下とわたくしへの教育が完了してからではないと、比較して頂くのは早いかと思います」
「まあ良いでしょう」
ピナが小さく肯く。
パノが「ミリ」と呼び掛けた。
「サニン殿下と比較されるのが、恐れ多いと言う感じで答えてみて」
「はい。サニン殿下は王族としての教育も受けていらっしゃいます。しかし殿下が学ぶ時間は、どれだけ多くても一日に24時間までしかありません。わたくしには殿下の教育の優先度は計り知れませんが、王族として殿下が学ぶべき事とわたくしも学んでいる事が、同じ優先度の筈はありません。その王族たるサニン殿下と、サニン殿下より学ぶべき事が少ないであろう筈なのに日々の授業に付いていくのが精一杯のわたくしを比較なさるのは、世界をあまねく照らす太陽とドーナツの穴の大きさを比べる様な物です」
場にクスクスと笑いが漏れる。
「ドーナツが出て来るのは、さすがバルの娘ね」
パノがそう言うとチリンも「ええ、本当に」と続けた。
「ミリちゃんもドーナツの穴から覗いて、景色を見たりしているのね?」
「え?もしかして、チリン姉様もなさった事がありますか?」
「シー。王家の秘密だから。今度一緒に、サニン殿下にドーナツを差し入れましょうか」
「チリンさん、それ、脅しにならない?」
「パノ義姉様、もちろんです。王家の秘密を知っているぞ、と言う意味ですから」
場にクスクスと笑いが、先ほどより多く上がる。
「ミリちゃん」
「はい、チリン姉様」
「懇親会で出たビスケットの話は知っている?」
「伝統のビスケットの事ですか?」
「ええ」
チリンの質問にミリは、やっぱり訊かれた、と思った。
「ビスケットに使う材料を間違えていたとの連絡が、我が家にも王宮から届きました」
「参加した子供の中に、それに気付いた子がいたって話だけれど、ミリちゃんは知っている?」
ミリはチラリとパノを見る。
ジゴ・コードナとミリが気付いた件は、ミリからパノには話していない。ジゴはコードナ家の跡取りなので、パノに知らせて話が広がっても問題がないものなのかどうか、ミリには判断出来なかったからだ。
パノがバルかラーラから聞いていなかったのか、聞いて知っているけれどこの場では知らない振りをしているのか、ミリは考えた。
もしかしたらこの場のみんなが知っていて、ミリにカマを掛けて来ているのかも知れない、とミリは思った。それなら惚けるだけだ。
「伝統のビスケットを王家直轄領と公爵領で取れた食材だけで作ったと仰っている方がいました。気付いたと言うより知っていたと言う様に、わたくしは感じました」
「あら?そうなの?それはどなたが仰っていたのかしら?」
「ジゴ・コードナ殿によると、コウグ公爵家のウィン様だそうです」
「まあ、そうなのね」
チリンの表情はわざとらしくと見えなくもない。
しかしこの程度、チリンが表情を作るならわざとらしさは見えない筈だ。つまりわざとらしい表情を作っていると考えられる。
そうするとチリンの狙いは?
そんな事に気を取られていたミリに、ピナが質問をした。
「ミリ。ウィン殿がそう言っていたのですか?それともジゴ君がそう言っていたのですか?」
「ウィン様です」
「そうするとジゴ君はなんの関係があるのですか?」
「ジゴ殿は、仰っているのがウィン・コウグ様だと、わたくしに教えてくれたのです」
「なるほど、そうですか」
「わたくしはミリちゃんが、気付いたのはジゴ君だと言いたいのかと思ったわ」
チリンがまた紛らわしい表情でそう述べた。
それに気付くとどうしてもミリの注意は、チリンの真意を考える事に向いてしまう。
ミリが頭の整理を済ませる前に、チリンが質問を投げた。
「ミリちゃんはジゴ君は気付いていたと思う?気付いていなかったと思う?」
どう思ったかと答えると、知っていた事を隠す事になる。後から知っていた事を指摘されたら、隠した事が弱点になる。ミリはそう判断した。
「ジゴ殿は気付いていました。他のお菓子も前回と味が違うと言って、確認していましたので」
「ふふふ、そうなのね」
チリンの雰囲気が柔らかくなったので、ミリは自分が正解した事を感じた。
「さてミリ。この会の参加者の行動を述べなさい」
ピナの言葉に、しまった、とミリは思った。
参加者が何を話して、何を食べて飲んでいたのか、ミリはこの茶会の最初からの様子を語った。
他の三人に付いては正確に話せたけれど、ナンテに付いてはところどころ抜けてしまっている。
ナンテはわざと存在感を消しているし、ミリが他に気を取られた時に何かをしていたりする。
それは分かっていていつも注意をしているのだけれど、どうしても見逃している時があるのだ。
悔しい事にミリ以外の4人は、完璧に参加者の行動を語る事が出来た。
「ナンテ養伯母様。申し訳ありません」
そう頭を下げるミリに、ナンテは微笑みを返すけれど、ピナは追い打ちを掛ける。
「いつも言っていますが、気を取られている事が分かり易過ぎます。それだからナンテに仕掛けられるのです。参加者全員の事を見ていない瞬間があったら、牽制にはなりませんよ?」
「はい」
「でもお義祖母様?ミリちゃんは少しずつマシにはなっていませんか?」
「チリンさん。ミリは毎日練習出来ないのですから、少しずつでは遅いのです。パノ」
「はい、お祖母様」
「何の為にあなたが一緒に暮らしているのです。ちゃんと毎日ミリの指導をなさい」
「はい、お祖母様」
「ミリ」
「はい、お養祖母様」
「時間も残っていなければ、あなたには時間も足りません。何度も言いますが、一瞬一瞬、気を抜かない事。気を抜いた時間があなたの完成時間を延ばしているのです」
「はい、お養祖母様」
「一つのミスが人生を狂わせます。人に邪魔をされない、自分の思った通りの完璧な人生を送りたければ、もっと真剣になりなさい」
「はい、お養祖母様」
ミリは俯きそうになるのを何とか堪えた。
ここで俯いたら、お説教が長引くのは分かっていたからだ。




