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第九話  真昼




 常磐夕夏は会ってそれほど経たない内に、俺の顔を殴った。

 叩いたのではない。殴ったのだ。もちろんグーで。会って一時間も経っていない子供を、思い切り殴ったのだ。

「常磐夕夏です。よろしく」

 確か数十分前にはそう笑顔で言っていた彼女が眉間に皺を寄せ、

「甘ったれるなーーーーーー!」

 そう言って俺の顔を思いっきり殴ったのだ。若者風で言えば(怒)が付くだろう。

 確か最初は簡単な自己紹介をしていたはずだ。しかしいつの間にか大人や子供の価値観云々の話になっていき、俺の中の価値観が彼女に暴露されたのだ。

 俺の子供じみた価値観が彼女の導火線に火を付けたようだ。残念ながらその導火線がラブソングにあるようなときめきの導火線ではないのは確かだが。

 某アニメの主人公みたいに親父にもぶたれたことがないのにとは言い返さなかったが、無関心の両親が我が子を説教するはずもなく、やはり殴られたこともなかった。

 そんな俺を初めて殴ったのが血の繋がりもない、初対面の女なのだからその時の俺のショックは大きかった。女にはわからないかもしれないが、男が女に殴られるのは結構ショッキングな出来事なのだ。しかも恋沙汰で叩かれたのならともかく、グーで殴られるとは、後にも先にもあれ一度きりだろう。というか何度もあって欲しくないのだが。

 殴られたときはショックのあまり何も言い返せなかった。痛いと感じる前に驚きが勝ってしまって、しばらく呆然としていた。あそこまで説教されることも初めての体験だったのだ。

 俺を殴った彼女は床に座り込んだ、というか椅子から転げ落ちた俺の前で仁王立ちし、説教を始めた。

「あんた一体何様のつもり? あんたみたいな子供が一人で生きていけるほど社会は甘くないのよ。大人が偉そうだって? あんたの方がよっぽど他人を見下してるじゃない。他人を見下す人間ができた大人だと思ってんの? そういう人間をダメ人間って言うのよ!」

 俺が止める間もなく説教を始めてしまったので、俺はそのまま呆然と彼女を見上げるしかなかった。

「子供だからなめるなとか、そんなセリフが通用するのはごく一部の人だけよ。あんたにみたいなガキが世の中渡っていけるわけないの。勝手に大人だから子供だからって決めつけてるのは誰でもないあんたじゃない。それで自分だけは特別だと思いたがるの? それが子供だって証拠じゃない。大人だってそれなりの苦労があって大人になってんの。あんたが思ってるほど世界は簡単じゃないの。ちょっと自分の周囲を見ただけで全部理解したつもりになってる。そういうのを井の中の蛙って言うのよ」

 その頃には俺の中の彼女の見解がはっきりと変わっていた。最初の平凡だという印象は跡形もなく消し飛んでいた。それまで見たことがない人種の人間だった。

 まあその時はまだ恋心などなかった。もしかしたら自覚がないだけで、既にその兆候はあったのかもしれないが、とにかくその時は彼女を見返してやりたい。本当の立派な大人になってやると、闘争心がふくらんでいた。

 それが始まり。





 朔夜が思考を一度中断したのは、一人の子供が視界に入ったからだ。

 まだ小学生だろう。野球帽を被った男の子は懸命に缶ジュースの蓋を開けようとしている。不器用なのか指が滑ってなかなか開けることができないようだ。

 周囲を見たが、親らしい人間が彼の元にやって来る様子はなかった。少し離れた木陰でお喋りをする数人の女性がいるから、おそらくあの中の誰かだろう。

 おおかた子供にジュースを買いに行かせ、自分自身は他の奥様とお喋りを楽しんでいるのだろう。そんな親が子供の苦労に気付くはずもない。子供も親に助けを求めようとしない。意固地になってしまっているのだろう。ムキになって缶をガリガリと引っ掻いている。

 さすがにそれをずっと目の前でやられたのでは放っておけない。朔夜はやれやれと立ち上がり、子供の方へ歩いていった。

 子供は朔夜が目の前に来るまで気付かなかった。朔夜は何も言わずに子供の手からジュースを取り上げた。子供は驚き、盗られたのだと思い文句を言おうとしたが、その前に缶の蓋に指を掛けた。

 子供があんなに苦労していた蓋はわずかな抵抗だけ示してあっけなく陥落した。

「ほら」

 朔夜は蓋の開いた缶ジュースを子供に返す。子供は手の中にある缶と朔夜を交互に見比べ、しばし考えた後、

「ありがとう、おじさん!」

 そう礼を言って走り去っていった。

 礼を言われるのは良いことだが、おじさん呼ばわりされるのは少しショックだった。これでも二十代にしか見られたことがなかったのに。

 そこで朔夜は笑ってしまう。いつの間にか自分はそんなことを考えるほど年をとっていたのだ。いつの間にかあの人の年すらも通り越して。

 子供には開けられない缶の蓋。大人の自分には開けられた。いつから大人になっていなのかはわからない。成人すれば? 社会に出れば? それは大人と呼べるのだろうか。

 朔夜はあれほどこだわった大人のラインすら考える暇がないほど、これまでの時間を過ごしてきた。暁斗が生まれてからすべてが早くなった気がする。子供が成長するのはあっという間だと聞いたことがあるが、なるほどその通りかもしれない。

 子供にとっては長い時間が大人にとっては短い時間に感じられる。ついこの間まで抱き上げられるほど小さかった赤ん坊が、いつの間にか背を追い抜かしている。そんな話だって少なくない。まあ暁斗はあまり身長が高い方ではないし、逆に自分は背が高い方なので追い抜かされることはないのかもしれないが。

 もう昼飯時はとうに過ぎている。腹も減っていた。ついでだと思い、近くの茶店へ向かった。軽食ぐらいあるだろう。

 それが終わったらまた思考を巡らせてみよう。その前に移動しても良い。適当にバイクで走り回り、適当に宿を探そう。何だか日本横断までしてしまいそうな勢いだ。

 まあそれも悪くない。覚えていたら暁斗たちに土産を買っていこう。特に秀は内心怒っているだろうから機嫌をとった方が良い。

 とにかく、今は腹を満たそう。

 そうして朔夜は茶店の扉を開く。カランコロンと来客を伝える鈴が鳴った。





 昼飯のタイミングを逃したのは暁斗たちも同じだった。

 キリの良いところで話を中断し、遅い昼食をとる。食事を作る暇もなかったので出前を取った。

 食事中、二人はまったく会話をしなかった。暁斗は何を言ったら良いのかわからなかったし、東城は話題がなかった。

 出前としては定番のラーメンを二人で黙々と食べる。ズルズルと麺をすする音が無駄に大きく聞こえた。

 重たい空気のまま、食事を終えようとしていた時、東城はふと思い出した。

「そういえば、朔夜の最初の頃の食事はラーメンか焼き飯だったな」

 突然何を言い出したのかと暁斗は視線をラーメンから東城に向ける。東城は何かを思い出し、ふと笑った。

「朔夜は高校に入るまで家事をしたことが一切なくてね、両親も家事はほとんどせずにハウスキーパーを雇ってたから、あいつ自身も母親の味というものを知らなくてね」

 一日のほとんどを外食か出前、コンビニ弁当で済ませていた。たまにハウスキーパーが食事を作ってくれたらしいが、昔から手料理というものに縁がなかったという。そして自分で作ろうと考えないところが朔夜らしかった。

「高校時代、遠方の親戚に預けられたことがあってね、そこで初めて手料理を知ったそうだ。そこで料理を習ってこればいいのに、結局家事の一つも覚えずに帰ってきてね。君と暮らすようになってからは赤ん坊どころか自分の世話すらまともにできなかった」

 赤ん坊を育てるなんて高校生には難しかった。だがそれ以前に家事ができなかった。

 さすがに毎日コンビニや出前ではやっていけなかったのだろう。というより他人が作ったものを受け付けなくなっていた。少しでも自分で手を付けたものしか食べられなくなっていた。

「あばらが見えるほど食事をしなかった時期もあったんだからそれよりはマシだったが、元々自分を大切にしない奴だったからな。赤ん坊の世話は結構がんばったがその分自分をないがしろにしてしまってな。インスタントのラーメンや適当に具を放り込んだ焼き飯ばっか食べてた」

 初めて聞く父の無能ぶりに暁斗は驚きを隠せなかった。彼が物心ついた頃には家事を一人でやっていたし、暁斗の作る料理は文句も言わずに食べていた。だから父にそんな時期があったことに驚いた。

 東城も暁斗が驚くのは予想内だったのだろう。暁斗の様子を見てクスリと笑った。

「あいつがそんなに有能だと思ってたのかい? 間違いだよ。あいつにだってできないことはたくさんある。今も昔もね」

 なんせ一番ダメだった時期を見ているのだ。親友のダメっぷりをすべて話していたら日が暮れてしまう。

「あんまりにも家事ができないから僕が毎日世話をしに行かなきゃならなかった。子育てをしつつ、家事を教え込んで、僕の両親は男でも家事ができた方がいいって考えの人たちだったから、それなりにできたしね。それでも大変だったよ。何で親のあいつより僕の方が疲れるんだか。当時の編集者に子守押しつけたりして胃潰瘍にしたこともあったな」

「あ、それ知ってます」

 朔夜は小説家としての人気はそれなりに高いのだが、出版社からすれば理解しにくい人間だった。それが彼の書く小説にも現れているのだが、読者からすればフィクションの登場人物は少々常識外れの方が面白いようだ。実際にいればやりにくだけの人物なのだが。

 おかげで彼の担当をやりたがる編集者は皆無だという。ここ数年は金森編集者が担当しており、彼女以外では無理だろうとさえ言われていた。

「さっさと家を出て今の仕事を始めて、あの頃が一番慌ただしかったな」

 大変だったとは言わなかった。それ以上に大変だった時期があったから。本当に大変な時というのは、氷の上に立つような危なげで冷え切った空気なのだ。それに比べたらあのどたばた騒ぎはそれまでの冷え切った空気を暖めてくれるのにちょうど良かったのかもしれない。

 二度とはやりたくないが。

「それでも、あの時はあれが最善の選択だったのかもしれない。少なくとも僕はあいつがしたことすべてを罪だと言う気はない」

 ああ、話はまだ終わってなかったのだ。そう、今に繋がる物語はすべて同じ場所を原点としている。

「暁斗」

 東城は優しくその笑みを向ける。

「ありがとう」

「へ?」

 何に感謝しているのかが暁斗にはわからなかった。自分は何も感謝されるようなことはしていないのに。

「子供はね、大人にとってそこにいるだけでうれしいんだ。特に親にとってそれは生き甲斐だったり宝だったり」

 すべての子供がそうとは言えない。世の中には不幸な子供だってたくさんいる。だけど。

「さっき子供だって簡単に罪を犯せると言ったね。だけどね、本来子供はそこにいるだけで人を幸せにすることができるんだ」

「俺、何もしれませんよ」

「うん、でもそれでいいんだ。ただ生まれてきてくれた、それだけでいいんだ」

 すべての終わりを迎えたかのような彼を救ったのは自分でも彼女でもない。この子なのだ。

「君が生まれてきてくれた。それだけで僕達は救われた。だからありがとう」

 生まれてきてくれてありがとう。

 真っ正面からそう言われて暁斗は照れくさかった。何と答えたら良いのかすらわからなかった。ただ自分は自分で思っていた以上に愛されていたのではないか。

 ふと以前父とした会話を思い出した。



『親になりたくて親になったわけじゃない人間もいるんだ』



「親父は、俺が生まれて良かったと思ってるの?」

 蒼衣の話を聞いてから感じていたそれを、暁斗は口にした。それは父自身に聞くべきなのかもしれない。しかしそれを直接訪ねる勇気はなかった。

 もし否定されたら、自分はどうなってしまうのだろう。

 暁斗の心情をある程度理解しているのか、東城の口調はまるで諭すかのようだった。

「良かったよ」

 それは紛れもない真実。

「君が生まれてきてくれたから今のあいつがいるんだ。君がいなければ屍のように生きるしかなかった」

「でも、俺も常盤も、生まれる予定じゃなかったんでしょ?」

 母の日記帳に書かれていた真実。愛し合った二人の間に生まれた子供ではない。

「……何か知っているのかい?」

 東城も暁斗がまったくの無知でないことに気付いた。

「今朝、常盤が……俺の兄弟だって奴が来て、母さんの日記に書かれていたことを教えてくれたんだ」

 実はあの日記には途中までしか詳しく書いていなかった。途中で日付が飛び、その後は一言二言、義理のように書かれていただけだったという。

 日記を書く暇も気力もなかったということなのか、それとも形に残しておきたくなかったのか、それはわからなかったが。

 ただ朔夜との間に二人の子供が生まれたこと。そして朔夜を愛していなかったことだけが書かれていた。



『これは私があなたに残す唯一のもの。あなたが育てて。あなたにあげられるのはこれだけ』



 日記の最後に書かれた、朔夜に向けて書いたと思われる文章。



『私はあなたを愛せない。だから、さよなら』



 それは永遠の別れとなった。母はその後すぐに死んだのだ。

 彼女は自殺したのだ。


 愛し合った二人の子ではない。なら父にとって、母にとって、自分たちという存在は何だったのだろう。彼女は自分たちを残すことで何がしたかったのだろうか。

「俺は……俺たちは母さんが愛してもいない男との間に生まれた。そして親父もそれを知らなかった。なら俺たちは何の為に生まれたの?」

 何を望まれて生まれてきたのだろう。そして、それは父にとってどんな意味を与えたのだろうか。

 望んでもいない子供を抱いたとき、彼は何を思ったのか。愛情か、それとも迷惑だと思ったのか。

 俺は、親父に愛されていたのか?

「愛してるよ」

 まるで暁斗の心の内を呼んだかのように、東城は言い切った。

「朔夜は君を愛しているよ。そしてもう一人の子がいると知っていたのなら、その子も愛していた」

「そんなのわからない」

「わかるよ。あいつを見れば」

 他人にも自分にも無関心だったあいつが、あの人以外に眼を向けた。それ自体がその証拠だ。

「あいつは君の作った料理を食べる。一緒に暮らしている。話をしている。それだけで十分なんだ」

 昔から愛情を伝えるのが下手くそだった。いや、はっきりと伝えることを恐れてしまったのかもしれない。それでも、

「あいつは他人を信用しない。信じられない。だから他人と一緒に暮らしたり手料理を食べたりするなんてあり得ない。話をしても必要以上には話さない。そんなあいつが君と一緒にいる。それだけでわかるんだ」

 あの一件以来、他人を遠ざけるようになった。自分も他人も信じられなくて、他人が入ってくることを極端に嫌うようになった。食べ物すら受け付けなくなった。

 彼が一番ひどい状態だったとき、闇に沈みかけていた時、彼を救ったのは誰でもない、一人の子供だった。

「生まれた時に求められていなくても、生まれてきたから愛せるものだってあるんだ」

 暁斗は今まで感じていなかった父の愛情を改めて実感した。そういうものだと理解していたつもりで、本当は何もわかっていなかったのかもしれない。

 今自分は愛されている。それだけで十分だ。

 もう一度考え直してみたい。これから話の続きを聞いて、そして父を改めて理解したい。

 父をもう一度信じてみよう。母でも叔父でもない、自分のたった一人の家族を。





子は親を選べない、親は子を選べない。だからお互いを支え合っていけばいい。

私が読んだ小説の一文です。子を形成するのは環境と本人が生まれ持った性質だと私は思っています。朔夜は暁斗と出会うことで再び光を取り戻しました。暁斗は朔夜に新たな始まりを与える星だったのです。

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