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第六話  宵




 ノートに書き込まれた文字も、○や×が付けられた問題も、そして今目の前にいる血縁さえも、あの頃のあの人をすべて思い出させるには不十分なものだ。

 なぜこの男が今ここにいるのか分からない。確か自分は自宅で息子の帰りを待っていたはずだが。

 茶など出すはずもない。招かれざる客に出すものなどこの家にはない。

 男――常磐要というらしい――は朔夜の都合などお構いなしに上がり込んできたのだが、勝手にリビングのソファに座り、ここに来てから数分、何も話さない。腕を組み、足も組み、偉そうなその姿は決して友好的ではない。

 朔夜自身、彼の下の名前などほとんど覚えていなかった。事務的に渡された名刺を見て思い出した――というより覚えようとしなかったことを改めて覚えた――だけで、名前を知ったところでこれから先名前で呼び合うことなどまずないのだろうなとぼんやり考えた。

 朔夜はとっとと珈琲を自分の分だけ入れると、要の正面に同じようにふんぞり返って座った。

 ズズッと朔夜が珈琲をすする音が部屋に響き、沈黙の時間が流れ続けた。

 もちろん二人とも再会を喜び合う気はないし、和解のつもりもない。さらに言えば、このとき別の場所で二人の兄弟が話をしていることを知るよしもない。

 朔夜は自分から話を切り出すつもりはなく、他にすることもないので目の前にいる男の顔を眺めた。

 常磐要。確か朔夜より一つか二つ年上だったはずだ。前に会ったときは高校生だった。顔の造形は一緒に暮らす甥には似ておらず、どちらかというともう一人の甥に少し似ているかもしれない。十数年、一緒に暮らしながら一度も気付くことはなかったことだ。無理もないかもしれない。

 あの頃視界に入るのはあの人だけで、その周囲にいた人間のことなど、さして気にしていなかった。彼女の血縁だから、知人だからその存在を覚えていた。それも名前すらろくに覚えていないものではあったけど。

 たとえ覚えていたとしても何も変わらなかっただろう。彼のことで覚えているのはおぼろげな顔とあの言葉だけ。




『お前だけは赦さない』




 憎悪に染まった眼とあの言葉が今も記憶に刻まれている。その報復が来ることをまったく考えなかったわけではないが、今頃になってやって来るとは思わなかった。まさかあんな手段で来るとは思わなかった。

 それだけがひどく不快だ。



 沈黙が破られたのは既に二人が面と向かい座り、十数分が経った頃だ。

「久しぶり、というのはこないだしたところだな。今の気分はどうだ?」

「最悪だ」

「それは良かった」

 どこか喜んでいるような要と、反対に不機嫌そうな朔夜。相容れることはない二人には、理解し合うための言葉もない。お互い口に出すのは不満と嫌味。埋めようがないほど深く幅広い溝が二人の間に広がっていた。

「そう言ってもらえるなら、わざわざ来たかいがあったというものだ」

 こいつ、こんな性格だったっけ。

 相手の性格などほとんど覚えていないが、ここまで嫌な奴だっただろうか。というよりこんなにしゃべる奴だっただろうか。以前会ったときは、あの人の傍でずっと黙っているだけの無口な奴だったと思うが。

 十数年の年月でここまでゆがんでしまったのか。それともあの日狂ってしまったのか。どちらにせよ、あの頃の彼には戻れないかもしれない。

 正直会話をするどころか顔を見るだけでも不快な気分になる彼を門前払いもせず家に入れたのはもちろん理由がある。

 嫌な役回りだ。だけど他の誰にも任せられない。

 これは俺の役目だ。

「どうでもいいお喋りはその辺にして、本題に入れ。だいたい予想はついているがな。ただし、それを聞き終わったら俺の話も聞いてもらうぞ」

 朔夜のわびる様子もない態度に、要は気分を害した。

「ふん、今更言い訳でもする気か? まあいい。そう言えばあの子供はどうした?」

「あいつに用があったのならご愁傷様だな。今出かけている」

「愛想をついて出て行ったんじゃないのか? 他にやるところがないのなら引き取ってやってもいいぞ」

 まるで子犬を里子に出すような言いぐさだ。あいにくたとえあいつが出ていくと言い出しても、その行き先にこいつのところを推薦する気はないが。

「不幸になると分かっているところに自分の子供をやる気はない」

「ふうん? 一応親の自覚があるんだ」

「あるさ。たとえ認められなくてもな。それで、あいつに何の用だ?」

「叔父が甥っ子に会いに来るのがおかしいかい?」

「甥なんて思っていない奴が言っても説得力なんてないんだよ」

 どうせ暁斗にさらに不信感を植え付けようとでも思っていたのだろう。だが、これ以上あいつをこのくだらない呪いに巻き込むわけにはいかない。

「お前は暁斗もあの子も甥だなんて思っていない。復讐の道具と愛する者の欠片。誰も救われず、幸せにもなれない泥沼の道。お前はそれにあいつらを巻き込もうとしているだけだ」

「ずいぶんな言いぐさだな。そもそもの原因を作ったのは誰だか分からないほど馬鹿でもないだろ」

 朔夜は口をつぐみ、苦渋の表情を浮かべた。

「ほら、結局お前は何かを言える権利なんてないんだよ。すべてお前が悪いのに、お前は謝罪すらしない。一人でのうのうと幸せを満喫している。だけど、そんなこと赦さない。お前は一生償って生きていくべきなんだ」

 要は電源を付けたままのラジオのようにその口を止めなかった。朔夜はその様子を珈琲をすすりながら何も言わず眺めていた。

 まるで子供のようだと思った。

 自分の言いたいことだけを言い、気に入らないことを言われれば頑として受けいれない。

 その姿はあまりにも滑稽で、あまりにも惨めなものだった。

 そして昔の自分を思い出させた。

 一番愚かで、格好の悪かった自分。相手を想いながらも、思い遣ることを考えず、ただ考えも無しに走り続け、転んで止まったときにはすべてを失っていた。

 暴走する馬のように自分も他人も傷つけ、結局は欲しかったものも何もかも手に入らなかった。

 最後に残ったのは惨めな姿の自分。愚かすぎて、恥ずかしいくらい醜かった自分の心。気付いたときには遅すぎて、伸ばした手はもう何も掴むことはなかった。

 今、眼の前にいる彼はかつての自分だ。誰かを想うことを大義名分にし、その誰かを傷つけていることにすら気付かず、すべてを壊していく。

 ここで止めなければまた誰かが傷つく。それはきっと、朔夜があの時、ただ一つ見つけたものさえも―――。

 犠牲があるから救いがあるとか、何かを為すには犠牲が必要だとか、そんな無責任な言葉聞きたくない。たとえどんな幸せがその先に待っていたとしても、払われた犠牲は帰ってこない。痛みを知らない者がわかったかのように言う言葉など、重みもない。犠牲を払うのなら自分だけにすればいい。他者を傷つけてまで為す行為に正義などあるはずがない。

 ましてや復讐のために払う犠牲などあっていいはずがない。

 勝ち誇ったかのように話し続ける要の話のほとんどが朔夜の耳には届いていなかった。目の前にいるはずの要がかつての自分に見えた。

 過去は、終わらさなければならない。なかったことにはできなくても、未来に持って行くには重すぎる。

 朔夜は長く閉ざしていたその口を、ようやく開いた。

「言いたいことは、それだけか」

 朔夜の一言に要の口が止まった。朔夜はさらに続ける。

「これ以上そちらの話を聞いても無駄なようなのでそこまでにさせてもらう」

 要が何かを言おうとしたが、朔夜は言わせる間もなく自分の話を始める。

「俺の話は一つ。お前が復讐をするのは勝手だが、あいつらを巻き込むのはやめろ」

 たった一つの要求。それは要が予想していたものとはまったく違ったものだった。

 てっきり落ち込んで何も言えないか、混乱して事情を求めてくるか、はたまた逆ギレしてくるかと思っていた。

 しかし朔夜の言葉はそのどれとも違った。

 見れば、朔夜はまったく落ち着いていた。先ほどは一瞬顔を歪めたが、それも今では元通りとなっている。

 気に入らなかった。その態度が、そのすべてが気に入らなかった。

 這い蹲って謝ればいい、泣けばいい。自分の息子に憎まれること、そして望まなかったことでも、息子を置き去りにしたこと。すべてに絶望して、自分の罪を悔いたらいい。こいつがもっている幸せをすべてぶちこわしてやる。この十数年の間築いてきたものを、すべて台無しにしてやる。

 それだけがこの十数年、そのためだけに生きてきた。こいつが絶望する顔を見たいがために。あの人へ償わせるために。

 なのにこの男はそんなそぶりをまったく見せない。謝罪の念も、絶望の兆しも見せない。そこにあるのは長年憎んできたあの顔。仏頂面で、愛想のカケラもない、あの時と変わらない顔がある。

 そして彼は謝るわけでも落ち込むわけでもなく、ただ要求してきた。まるで自分が悪いなど思っていないかのように。

 憎かった。赦せなかった。今すぐその顔を思いっきり殴りたい気分になった。

 そしてその憎い男はさらに要の気分を害する言葉を続ける。

「お前が過去に囚われ続けることは自由だ。俺は止めはしないさ。だが、そのために他者を巻き込むな。あいつらは関係者ではあるかもしれないが、加害者ではない。そして被害者ですらなかった。過去に関わるか否かはあいつら自身が決めることだ。それを強制して、あいつらの未来さえ巻き込もうとする。お前は狂ってるよ」

 その言葉が要の精神を揺さぶった。目の前の男に殴りかからなかった自分の精神を褒めたい。

「狂ってるだと? お前がよくそんなことを言えるな」

 要の表情が歪んだ。

「お前の狂った思考が姉さんや誠司さんを殺したんだ。お前があんな事をしなければ二人は今頃幸せに生きていたはずだったんだ。お前が悪いんだ。狂っていたのはお前だ。お前が二人を、俺たちの幸せを壊したんだ!」

「そうだな、確かにあの二人を殺したのは俺だ」

 自分の罪を認めた朔夜を見て、要は自分の勝利を確信した。

 間違っているのはあいつだ。俺は正しい。正義の名の下に悪を罰しているんだ。裁かれるはずだったのに裁かれなかった罪人に最高の刑罰を与えているんだ。

 そうだ、俺は間違ってなんかいない。

 歪んだ笑みが要の顔に表れた。

 しかし、朔夜が続けて言った言葉は、そんな要の喜びを打ち消すものだった。

「俺は狂っていた。そう、狂っていたんだ。それは認めよう。だがな、今狂っているのはお前だ、要」

 生まれて始めてではないだろうか、彼の名前を呼ぶことは。

 朔夜は目の前にいる狂った男の名を呼んだ。

「俺は自分がした過ちを忘れているわけではないし、忘れたことだってない。償えるものなら償うさ。だが、その償う相手はお前じゃない」

 そう、この男が勘違いしているところはそこだ。

 殺人事件や人身事故が起きると、被害者側の遺族が加害者に損害賠償を請求する場面をよく見る。泣きながら死んだ家族を返してと訴えている。

 しかし、加害者が償うべきなのは被害者の遺族ではない。被害者自身だ。

 被害者には何も残らない。命も、未来も、何もかもを失っていながら、得るものは何もない。

 大切な人を奪われた遺族は確かに被害者なのかもしれない。だが、被害者自身が救われることはあるのだろうか。どんな大金も、加害者の命も、被害者を蘇らせることはできない。死んでしまったら、もう償うことはできないのだ。

 朔夜は最初から一人しか見ていなかった。最初から最後まで。だから償う相手も一人しかいないのだ。遺族に償う気など最初からない。朔夜にとって、加害者を裁ける被害者は、彼女だけなのだ。

 要は自分に償うことを要求しているのだ。彼自身も気付いていないのだろう。最愛の姉のためではなく、自分のための復讐なのだということを。

「要、俺はお前に何も償わない」

 それだけは過去から未来にかけて何の変わりもなく、そして永遠に変わらぬ事。




 最初からあの人は俺を殺せば良かったのに。





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