第十二話 暁
次の日、俺は逃げるようにして町を離れた。遠い田舎で長い時間を過ごした。
もちろん学校に戻れるわけもなく、卒業式にも出ないまま卒業した。田舎の高校に入学したが何をするわけでもなく、ただ無駄に日々を過ごしていた。
その間秀から電話や手紙が何度も来た。ただ一人俺を心配してくれた。それが不思議にもありがたかった。先生以外で初めて善意を受けいれられた。
もしかしたら人の愛情に飢えていたのかもしれない。真実はどうであれ、自分を信じてくれる人間が一人でもいることに救われた。
そして時間は俺の心をある程度まで癒してくれた。
最初はろくに食事も出来なかった。しかし死ぬ気にもなれなかった。先生との約束を果たせなくなるからだ。俺は生きて罪を背負い続けなければならない。
先生があの後どうしたのかは何もわからなかった。秀が調べようとしてくれたが、彼女の家の人間に門前払いを喰らったようだ。どうやら彼女は大学を辞め、家に閉じこもり続けているらしい。
俺が与えた傷の深さを改めて実感した。無責任にも俺の傷は癒え、彼女の傷は癒えることを知らない。時間は彼女を救わなかった。
それをはっきりと知ったのはそれから一年ほど経った頃。俺は冬休み、生まれ育った町に帰ってきた。忘れないために、そして彼女がどうなったか気になって。
帰還を伝えたのは両親と秀。そして先生だった。
手紙が彼女の手に届いたか、彼女がそれを呼んだかはわからない。しかし彼女に何も隠したくはなかった。自分が彼女の手の内にあることを示したかった。
その冬初めての雪が降った日、俺は帰ってきた。
駅には連絡を受けていた秀が迎えに来てくれた。秀は純粋に俺の帰還を喜んでくれた。
「少し痩せたか? ちゃんと食べてるのか?」
「食べてるよ。これでも一時期よりはマシなんだ」
たわいもない話が楽しかった。それを感じられるほどに俺は回復し、それが少し後ろめたかった。
「家に戻るのか?」
「いや、その前に先生の所に行ってみる」
おそらく会うことはできないだろう。しかしその意志だけでも示しておきたかった。会って何を話せばいいのかはわからない。会っても何もできないだろう。だが、会っておきたかった。理由はわからないが。
「…僕も一緒に行こうか?」
「いや、一人で行くよ。行かなきゃならないんだ」
そう言えば優しい友人は引いてくれる。その優しさに甘えていた。
俺は一人で先生の家に向かった。先生の家に行ったのは一度だけだ。先生の家はまさしく豪邸で、初めて見たときは驚いたものだ。確かその時に先生の弟を紹介された。名前さえ覚えていないが、あまり良い印象ではなかったと思う。俺に負けず無愛想で、表情を一度も変えなかった。
まだ雪の積もっていない道を歩く。吐く息は白い。そして雪も白かった。
なのに、黒が見えた。黒い服の人々。その姿は悲しんでいるようだ。
そしてなぜか彼らは先生の家に向かっていた。
何があったのだろう。嫌な予感が頭をよぎった。かつて見た死が再びささやいた。
あの服は何だ。喪服しかないだろう。残忍な死神が頭の中で答えた。
誰が死んだんだ。決まっているだろう。死神が笑っている。
俺はその声を降りきり、家の正面に立つ。そしてそこに立てかけられた看板を見た。
『常盤夕夏 葬儀』
他にも色々細かく書いてあった気がする。だがもう何も見えなかった。絶望がすべてを塗りつぶした。
俺は喪服の集団が行き交うその場でただ一人、佇んでいた。
「僕がそのことを知って朔夜の元を訪れたのは次の日だ」
東城の頭の中にあの時の光景が蘇る。
「本当にひどい状況だった」
実家の自室に再び籠もった朔夜はまるで屍のようだった。
その眼に焦点は合わず、壁に寄りかかったまま呆然と座り込んでいた。
その手足に力はこもっていない。
「食事も摂らず、風呂にも入らず、ただ思い出したように時々水を飲んだ。時折自傷行為を行い、放っておくと手や腕が血まみれになっていた」
壊れた。そう表現するのが一番だろう。
そんな息子に近寄りたくないのか、朔夜の両親は息子の世話を東城に任せた。
「泊まり込みで世話をした。話しかけてもまったく反応せず、生きるための最低限のことしかしなかった」
今も忘れられない。あの時の朔夜を。泣くこともせず、抜け殻のように、静かに朽ちていく。心が死んでしまったかのようだった。しかし決して死のうとはしなかった。自傷行為はあくまで死をもたらすようなものではなかった。おそらく彼は死すら許されていなかったのだろう。夕夏に約束させられたから。
暁斗には信じられなかった。父にそんな時期があったことを。
彼の知る父は物事の多くに無関心で、とにかく我が道を行く人だ。自由気ままに生きる。その言葉を体現していた。
そんな父が一人の人間の死により朽ち果てる。そんな状況想像もできなかった。
「信じられないかもしれないけど本当のことだ。少なくともその状態が一ヶ月近く続いた」
外がクリスマスや正月の活気で賑わっている中、朔夜の部屋だけ切り離されたかのように静かだった。
さすがに栄養失調になりかけ、医者を呼んで点滴を打ってもらった。だが病院には入れたくなかった。
入院してしまえば、もう二度と出てこない気がしたからだ。
「夕夏さんの死については後で調べてわかった。手首を切って自殺したということが」
遺書はなかったという。そして彼女が死んだのは朔夜からの手紙が届いた日だった。
「朔夜の手紙が何らかのきっかけだったのかもしれない。朔夜の帰還が彼女を追い詰めたとは思わない。だけど何かの理由にはなったんだろう」
最後まで朔夜にその存在を刻みつけていった。彼女は何がしたかったのだ。
「夕夏さんの葬儀から一ヶ月ほど経った頃、彼女の弟が訪ねてきた」
暁斗は蒼衣と一緒にいた男を思い出す。朔夜を人殺しと呼んだ男。蒼衣に父への憎しみを植え付けようとした男。
「そいつは一人の赤ん坊を抱きかかえていた」
あまりにも違和感のある光景だった。
部屋には男が三人。そして赤ん坊が一人。なぜ赤ん坊を連れてきたのか最初はまったくわからなかった。
男は常盤要といった。常盤夕夏の弟。その態度からも彼が姉を愛していたことは明白だった。
「無様だな」
要は朔夜を見て開口一番にそう言った。
「人二人死なせといて、勝手に落ち込んでこの様か。何被害者面してるんだ」
お前は加害者だろ、人殺し。
ただ決めつけていた。すべて朔夜が悪いのだと。朔夜が二人を殺したのだと。そしてその死にショックを受けている朔夜に追い打ちをかけようとしていた。
「お前が誠司さんが死んだ。お前の性で姉さんは死んだ。全部お前が悪いんだろ」
東城はそれは違うと言い返したが、そんな言葉聞いていなかった。ただ自分の中の憎しみに溺れ、罰する側である優越に浸っていた。
そんなことのために来たのか。そう思ったが、どうやらそれはついでのようだ。
「お前にこれを渡しに来た」
これと言って差し出したのは、その場に合わない赤ん坊だった。
赤ん坊は眠っていたが、寝心地が悪いのか不機嫌そうだった。
「姉さんの遺言。死ぬ直前にこの赤ん坊をお前に渡せと言ったんだ」
その時はなぜと思ったが、彼女は既に死ぬことを決めていたのだろう。
「こいつはお前の子だとさ」
朔夜の眼に光が戻った。驚きのあまり。驚いたのは東城も同様で、要の腕の中の赤ん坊を凝視した。
「妊娠が発覚したとき、みんなはすぐに堕ろすことを提案した。だけど姉さんはそうしなかった」
最初からそのつもりだったかのように。
「出産日から逆算しても誠司さんの子供ではありえないんだと。そして姉さん自身がお前の子だと言った」
なぜ彼女は愛してもいない男の子供を産んだのか。誰にも理解できなかった。
「姉さんが決めた。だからお前に渡す。それだけだ」
それと、
「俺はお前を許さない。絶対に許さない」
その後のことまでは知らない。そう言って要は赤ん坊を朔夜の前に置き、去っていった。
残された赤ん坊は固い床に降ろされぐずり始めた。
東城は突然のことに混乱を隠せず、また赤ん坊をどう扱ったら良いのかわからず慌てた。
しかし一方の朔夜は何も言わずに赤ん坊を抱き上げた。
その抱き方が始めてで下手くそなものだったが、動きはしっかりしたものだった。それまでの抜け殻のような様子は見られない。
「朔夜、お前その子どうするんだ?」
東城はその時知らなかったが、朔夜にはこの赤ん坊が自分の子である可能性を感じていたのだろう。
朔夜は赤ん坊をじっと見つめる。とうとう起きた赤ん坊はそれまでの不機嫌が爆発したのか、大声で泣き出した。
鳴き声が部屋中に響いた。それまでの静寂が嘘だったかのように。泣く赤ん坊をあやそうとする東城。その様子を見て朔夜はクスリと笑った。
この一ヶ月、まったく表情を変えなかった朔夜に笑顔が戻った。
「秀、俺この子育てるよ」
「はあ?」
本気かと、本当に頭がおかしくなったんじゃないかと疑った。
本当に朔夜の子である証拠はどこにもない。そしてまだ高校生の少年が赤ん坊を育てる。無謀すぎた。
だが朔夜自信はすっきりとした笑顔だった。
「先生が言った言葉の意味が、少しわかった気がする。でも俺がそれをどうとろうと自由だよな」
「いや、意味がわからないんだが。俺にもわかるように説明してくれないか」
「名前考えなくちゃな。あ、こいつ男か。顔だけじゃわからないな」
「いや、人の話を聞いてくれ」
「ん~。そうだ、暁斗にしよう」
「へ? 早いな。っじゃなくて!」
「暁斗、お前今日から暁斗な」
よろしく、俺の息子・暁斗。