第十一話 逢魔時
あの日は雨だった。だから血は洗い流される。だが傷は癒えない。
なぜこの人が俺の前にいるのか。なぜ階段の下で倒れているのか。なぜ動かないのか。
あの時は何も考えつかなかった。
『死』が眼の前にあった。
誠司さんとはあの後何度も会った。授業の日だけでなくプライベートでも先生と会うようになっていた。先生の弟にも会ったことがある。ほとんど顔を覚えていなかったが。
しかし先生はあくまで俺のことを生徒か弟のようなものとしか見ていなかったのだろう。
それで満足していれば良かったのだ。そばにいられればいいのだと、それだけで満足していれば。
しかし俺の心は満足しなかった。誠司さんに会ってさらに想いが募った。あの笑顔を自分だけに向けて欲しいと思った。
その意味では先生のあったのかわからない目論見は失敗したと言える。
俺の嫉妬心は収まるところを知らなかった。本当に先生を愛しているのか、それすらわからなくなるほどに。
そんな俺に誠司さんはあくまで親切な態度を崩さなかった。もし先生の恋人でなければ親しくもなれただろう。尊敬できたかもしれない。
しかし恋敵ではどんなに良い一面も悪い方向にしか見えない。彼のことを知るたびに、コンプレックスが育っていった。子供の自分とは違う、大人で、優しくて、親切で、何もかもが俺の上だった。いや、比べることさえできない。それくらい彼はできた人だった。
何か欠点でもあれば良かったのに、あってもそれは彼の評価を下げることにはならないものだった。それに対し俺は誇れるものが何もなかった。ただ、彼女への愛情は負けないつもりだった。
それは自分の内のことだけだと思っていた。それが他人を傷つけることなど思っていなかった。いや、傷つけても彼女を手に入れたいとさえ思っていた。それが彼女自身を傷つけていることに気付かずにいた。
一方的な愛は時に相手を傷つける。
彼は優しすぎた。ただ自分と彼女のことだけを考える人間だったらあのようなことは起こらなかっただろう。いや、そんな彼だったから俺はあんなにも嫉妬したのだろう。
善意は黒く澱んだ嫉妬に飲み込まれた。
一ヶ月ほど前から先生の様子がおかしいことに気付いていた。プライベートの誘いもなく、俺からの誘いも断っていた。この頃には俺も先生へのアプローチを続けていた。先生が好きだという映画を調べて誘ったりもした。秀と知り合ったのはその頃だ。
あいつも俺が誰かが好きでそのために話題を集めていることには気付いていただろう。だからその手の話題も多かった。
最初に話しかけたのは彼が映画に詳しいという話を耳にしたからだ。先生は映画が好きで、よく映画に誘われた。だが俺は映画を見はしても監督などのこだわりはなく、ほとんど時間つぶしに行っていただけなので、彼女が好きな監督の作品すらわからなかった。
話題を作るために彼女の好きな映画を調べた。中にはコアな作品もあったので、そこは秀に教えてもらった。あいつもかなりの映画好きで、訪ねた次の日には解答を用意してくれた。パンフレットやポスターを見せてもらって、その監督の作風や映画の構成などを教わった。
今は映画を自主的に見ることなどないが、たまにあいつの映画鑑賞に付き合ったりする。それが決して嫌いではなかった。あいつも俺がそれなりに楽しめる映画を選んでいるのだろう。今も昔も、本来なら俺はあいつに頭が上がらないはずだ。もっとも下げたことがないのだが。
好きな人がいることは伝えた。彼女が年上なことも。しかし恋人がいることだけは伝えていなかった。言えば反対されると思ったからだ。
「僕もあいつの思い人に恋人か好きな人がいるんじゃないかと疑ってたよ」
東城は言う。
「いつも誰かと競うような感じがした。もしかしたらあいつの好きな人には他に恋人がいるのか、それとも同じように彼女のことが好きな人がいるのかもしれない。そう思っていた。それはほとんど確信に近かった」
だが東城は会ったこともないその誰かよりは目の前の友人を応援したかった。
「直接会ったことがないから夕夏さんと田上さんがどれほど愛し合っていたかを知ることはできなかった。ただ朔夜が嫉妬に駆られていることはわかっていた」
それでも止めなかった。いつか諦めるか、それとも入る余地があるのかもしれないと思ったからだ。
「だけど朔夜が入る余地などまったくなかった。僕は田上さんに会ったことはないから彼がどんな人だったかは人を通してしか聞いていない。だけど朔夜があそこまで嫉妬したのだから、きっといい人だったんだろうね」
「母さんには会ったことがあるんですか?」
暁斗の問いに東城は首を縦に振ることで答えた。
「僕と朔夜が少なくとも友人と呼べるぐらいになった頃かな。二、三度会ったよ。最初は偶然朔夜と出かけているところに居合わせた」
その時の朔夜はまずいものでも見られたような嫌そうな顔だった。そんなに会わせたくなかったのかと憤慨しかけたが。
常盤夕夏という人は外見こそ目立つものではなかったが、その明るさや人柄は確かに魅力的だった。はっきりした性格で年上であることを驕らない。
「朔夜が夢中になるのもわからなくはなかった。それくらい魅力的な女性だった。強い人だった。きっと多少のことではへこたれないほどに。自分で道を切り開いていけるほどに」
だから思いもしなかったのだろう。彼女があそこまで堕ちることに。
「強い女性だと思っていた。だけど彼女は僕達が思っているほど強くはなかった」
人を恨まずに済ませるほど、出来た人ではなかった。
「夕夏さんが日記に何を書いたかは知らない。だけど、彼女が朔夜への恨みをそこに書いていたとしても、僕は驚かない」
「親父がそれほどの罪を犯したから?」
「違う。彼女は強くなかったから。僕達が思っている以上に女で、そして人並みに弱かったから」
彼女が強ければあのような事態には陥らなかったのかもしれない。少なくとも朔夜が罪悪感に溺れることはなかったはずだ。
もちろん彼女を責めることはできない。しかし、
「僕は夕夏さんが好きじゃない。いや、正直に言えば嫌いだ」
傷付けるだけ傷付けて自分は逃げた。自分にとっての優先順位は朔夜の方が上だ。だからそう言えるのかもしれない。
「夕夏さんは憎しみを断ち切れなかった。彼女のことを好きな人たちは皆、朔夜を責めた。朔夜の味方は僕ぐらいだった。誰も知らなかったんだ。被害者が加害者になることを。復讐や報復という名の凶器を持っていたことを」
朔夜自身すらそうであった。報復される義務があるのだと考えていた。
「君たちを産んだ夕夏さんが何を考えていたかは未だにわかっていない。彼女は何も残さなかった。だから推測は真実に繋がらなかった」
自分勝手な推測が飛び交った。その一つ一つが朔夜を傷付けた。そして朔夜自身、自分を傷付けた。
「被害者だからといって誰かを傷付ける資格はない。僕はそう思ってる」
弱いことが罪なのではない。本当の罪はそれを認めないこと。
「朔夜は自分の過ちと弱さを認めた。だけど夕夏さんやあの男は認めなかった。だから僕は彼らが嫌いだ」
過ちがさらなる罪を生んだ。その発端が朔夜であっても、すべて彼の性だとは思わない。
「罪を認めた。だから朔夜は前に進めた。大人になるということは子供時代の自分の非を認めることだ」
弱い自分を認める。逃げるわけでも捨てるわけでもなく、受けいれる。
「いつも正しい真実があるとは限らない。真実は見るものによって形を変える。一つだけじゃない」
朔夜が悪いのだというのも真実。夕夏が悪いのだというのも真実。
「真実は一つとは限らない。だからそれを押しつけてはならない。一つの真実に固執してはならない」
そうわかっていても、合理的に考えられないのが人の性。
自分自身も、そして朔夜も。
先生の様子がおかしい理由がわかったのはそれから一ヶ月後。あの日だ。
先生はおかしいというよりは落ち込んでいて、俺とも眼を合わさなかった。俺はただでさえ行き場のない嫉妬心が溢れていて、それが態度や行動に出ていた。
彼氏との約束がある日に無理に引き止めたり、大学の帰りに待ち伏せたり、今思えばストーカーギリギリの行為だったろう。しかし当時の俺はそれを悪いことなどとは思っていなかった。
愛しているのなら、何をしても構わないとさえ思っていた。それがどれだけ彼女を困らせていたか、傷付けていたかも知らずに。
その日は朝から曇り空で、いつ雨が降ってもおかしくない天気だった。なのに鞄に入れておいた折りたたみ傘は壊れており、俺は学校帰り雨の中走らなくてはならなかった。
彼は俺を待っていたのだろう。雨の中、傘を差して俺の家の近くで待っていた。
その日は珍しく母親が昼間から帰っていたので家に招きはしなかった。彼を前にして冷静でいられる自信がなかった。
結局来た道を少し戻り、近所の公園に向かった。公園のベンチの上には屋根が設けられている。俺たちはそこに座り話を始めた。
最初は彼が来た理由がわからなかった。先生と三人以上で会うことはあっても、彼と二人きりになったことなどなかった。せいぜい先生が何かの用事で離れる数分の間ぐらいだろう。その時でさえ何も話せずだまり通していたというのに、今ここで何を話せばいいのかわかるはずがない。
できれば一緒にいたくないとさえ思っていた。この人がいると自分の悪い所が浮き彫りになっていくような気がしたから。
「そんなに緊張しなくても良いよ」
俺の心境がわかっているのか、それとも彼の純粋な優しさがそうさせているのか、彼はいつだって俺に笑顔を向けていた。俺が彼にどんな表情を見せているのかはわからないが、きっと醜かったに違いない。押さえることのできない嫉妬心があふれ出ていただろう。だから俺の嫉妬に気付いていたはずだ。
だけど彼はそれを不快に感じなかった。いや、感じていたのかもしれないがそれを表に出すことはなかった。だけど今なら本当に彼は不快に感じていなかったのではないかと思う。どんな人間も許してしまえる、そんな人だったから。
善人過ぎた。だから人の悪意すら許してしまった。
彼に非はない。だけど、彼がもっと嫌な人間だったら、もっと身勝手な人間だったら、俺はあんなにも罪悪感を感じることはなかっただろう。
彼が良い人だと知っていたから、彼が何も悪くないとわかっていたから、罪は大きかった。酌量の余地もあったかもしれない。
でも、悪いのは俺一人だった。一人の悪人が一人の善人を殺した。ただそれだけなのに、それがどんな罪よりも重かった。
「君は、夕夏のことが好きなんだろ?」
改めて確認されると恥ずかしいのと同時に、彼に言われて不愉快な気持ちでもあった。誰でもない、彼だから嫌だったのだ。
勝者と敗者の差を見せつけられているようで。
「夕夏は君のこと嫌いじゃないしむしろ好きだと思う。でもそれは恋じゃない」
なぜ自分はこの人とこんなことを話しているのだろう。どうしてこんな話をしなくちゃならないんだろう。
「君の想いは美しくもあるけど醜くもある。重すぎるんだ。だから相手を傷付けてしまう」
「…俺が、先生を傷付けていると?」
「はっきり言えばそうなるね。というより困らせているが正解か」
誠司さんはどこまでも善人だった。俺を信じていた。本当は良い子なのだと。話せばわかってくれるのだと。
誠司さん。もしできるのなら、愛が人を傷付けることがあると言ったあなたに言いたい。あなたの優しさが俺を傷付けていたのだと。あなたの光は俺にはまぶしすぎたのだと。
「人を愛することはすばらしいことだ。だけどいきすぎた愛は時に人を傷付ける。それを相手が受けいれられないのなら、それは暴力でしかない」
「言ってる意味がわかりません」
「……君の愛情は夕夏には受けいれられない」
はっきりと断言された。心の底ではその可能性を感じていた。いや、確信していた。だけどそれを認めてしまえば本当にそうなってしまう気がして、絶対に認めまいとしていた。
自分でも認めたくないその事実を他人に、それもあなたに言われたあの時の俺の気持ちをあなたは完全に理解することは出来なかったでしょう。
善人のあなたには悪人の気持ちなど理解できるはずがない。
「君がどんなに彼女を愛しても、彼女はそれを決して受けいれはしない。むしろこのままでは君のことを嫌うようになってしまうだろう」
「そんなのまだわからない。決まってない」
「いや、わかるよ。彼女は今君とどう向き合えば良いかわからなくなっている。これ以上押し込めば君を憎むことになるだろう」
「何で自分を愛する人を憎むんですか」
「愛はいつだって報われるとは限らない。どんな感情にだって負の面がある。いつか夕夏は君の想いを煩わしく思い、嫌悪する日がやってくる。その前に終わらせなければならない」
「何ですかそれ。もっとはっきりと言ったらいい、諦めろって。これ以上嫌われる前に消えろって。そうすればあんた達は幸せになれるんだろ?」
「そういう話じゃない。相手の幸せを願うことも愛なんだ。君は自分勝手な思いに振り回されている。彼女のことを思っていない」
「思ってるよ! 誰よりも、あんたよりも!」
敬語なんて忘れた。冷静なんて忘れた。ただ内にある嫉妬や怒り、憎しみをぶちまけた。
「何であんたみたいな人間がいるんだよ。あんたじゃなければ俺だってもっと素直に諦めることができたんだ。あんたが完璧すぎるから俺は無駄に競おうとしてしまう。あんたがもっと嫌な奴だったらぶちのめされて立ち上がる気にもならなかった。なのにあんたは善人過ぎて、完璧すぎて、中途半端に俺に期待させてしまう。何で俺じゃなかったんだ。何であんたが先に生まれて、先に先生と会ってたんだよ!」
わかってる。たとえ立場が逆であっても、先生は俺に振り向かない。先生は絶対に彼を選ぶ。最初から俺は選択肢にすら含まれていなかったのだ。
先生を想ってるのに、愛しているのに、嫉妬が強すぎて、憎しみが広がりすぎて、仕舞いには先生すら憎んでしまいそうで。それを必死に押さえてきたのに。
「なあ、愛して貰えない気持ちがあんたにわかるか? 敗者を慰めて楽しいか? 愛して欲しいだけなんて願い、あんたは持ったこともないんだろ。何もわかってないくせに偉そうに言うな!」
叫びが雨の音すらかき消す。通りすがりの人間に聞かれているのではないかとか、そんなことすら考える暇もなかった。自分と彼しかこの場にはいない気さえしていた。
荒い呼吸がうるさい。雨の音がうるさい。世界中のすべてがうるさい。みんな俺を笑っている気がして。
誠司さんは俺の訴えを最後まで聞いた。いつの間にか立ち上がり、彼の前に仁王立ちしている俺をじっと見上げていた。
そして言った。
「……僕には君をどうこうする権利はない。だから僕達の方で動くしかないと思った。今日はそのことを話そうと思って来たんだ」
先程までの俺とは真逆で、誠司さんは静かだった。
「ここ一ヶ月、僕と夕夏は会っていない」
「へ?」
聞き間違いだろうか。以前なら二日と空けずに会っていたはずの二人が、一ヶ月も会っていない?
「君の気持ちが夕夏を困らせているとわかったとき、同時に君自身も傷ついているとわかった。だから君が考えを落ち着かせるまでの時間が必要だと思った」
それが一ヶ月? いや、今日この話をしたということはまだこの先もということだ。
「互いばかり見て周囲の人の気持ちを考えてなかったのかもしれない。今回はそういう意味でも会わない方が良いと僕は結論した」
「…それ、先生は了承したんですか?」
彼は首を縦に振ることで答えた。
「最初は反対したけどね。でも離れていたからといって愛情が薄まるとは思わない。愛とは本人たちの間だけで完結できる問題でもない。実際にはそう簡単なことではないんだ。この社会で愛を成立させるには周囲の理解も必要なんだ」
社長令嬢という立場の彼女の交際を周囲が認めていたかはわからない。しかしこの二人がいつか結婚という祝福を受けられるのは思っていた以上に難しいことなのかもしれない。
「だからこのことは君だけの性ではない。あくまできっかけでしかない。君が彼女のことを愛し続けるのは自由だ。だけど、それは誰にも祝福されないことをわかって欲しい」
今日はそれだけ言いたかった。そう言って彼は立ち上がった。
「君の中でも整理をつけた方が良い。それが君のためにもなる」
そして彼は傘を差し、雨の中へと戻っていった。
そこまでは覚えている。
「十数段の階段から落ち、田上さんは死んだ」
東城はあくまで事実だけを述べた。
「何が原因だっけ。確か頭蓋骨がどうこうしたとか、そんな理由だったと思う。まあそれは重要じゃない。問題は彼が死んで、朔夜がその場にいた。それだけだ」
死体と一緒にいれば、階段の上には自分しかいなくて被害者が下にいれば、誰が見ても想像はするだろう。
「………親父が殺したんですか?」
訊くのが怖かった。答えを聞いてしまえばすべてが終わってしまう気がした。それでも、訊かずにはいられなかった。
東城もそれはわかっているのだろう。重々しく首を横に振った。それは否定の意味ではなかったが。
「わからない、というのが現実だ。現場にいた朔夜自信も事態を把握していなかった。というよりショックのあまり記憶が一部飛んでた。そして目撃者は誰もいなかった。だから真実は闇の中。その一件は事故として片付けられた」
朔夜には動機もあるが、殺した証拠はない。しかし殺していない証拠もなかった。ただ彼の死だけが事実として残った。
「当時朔夜が殺したという疑惑が多かった。無理もない。朔夜はそこであったことを誰にも言わなかったんだから。僕だってそれを教えられたのは一年以上経ってからだ」
話を聞きつけ朔夜の元へ向かった。だが朔夜は自室に閉じこもり、誰にも会おうとはしなかった。
「両親でさえあいつを信じていなかった。信じるほどの信頼もなかったんだろう」
世間体を気にし、訴える遺族への対応に追われた。だから朔夜の周りには誰もいなかった。
「何度も会いに行ったけど一度も顔を見せてはくれなかった。結局その後すぐ騒ぎが落ち着くまで田舎の親戚の家に預けられることになった」
朔夜は反対も何もしなかったという。ただ一人、暗い部屋でじっとしていたのだと。
「家を出る前日、夕夏さんが朔夜の元を訪ねてきた」
あの日から止まない雨だった。まるで彼の罪を許さないと訴えるかのように。
あの日、先生が俺の元にやって来た。
いつかは来ると思っていた。俺を罰するのは誰でもない、彼女だと確信していたから。
先生は俺の部屋に入ると床に座り、しばらく黙り込んでいた。
その表情は俺が見たことのないものだった。いつも明るく、笑顔を向けてくれていた先生の表情は暗く、地に沈み込みそうなほど重かった。
俺は最初から言い訳も何もするつもりはなかった。言い訳が見つからないのだから。
あの雨の中、どうして誠司さんが階段から落ちたのかは覚えていない。なぜ俺は階段の前にいたのかも。
誠司さんの後を追うように雨の中に飛び出した気がする。それすらもはっきりとはしないが。そこで彼に何を言った? いや、何をした?
もしかしたら本当に俺が突き落としたのか? 彼に対し殺意がなかったと言えるのか? 消えて欲しいと思ったことがなかったのか?
あの姿は俺の望み通りだったのではないのか?
俺はあの人を殺したんじゃないのか?
善人を殺すことで俺は本当の悪人となってしまったのではないだろうか。いや、最初から俺はあの人を殺すつもりでついていったのではないのか?
何も、誰も答えを出してはくれない。ただあるのは各々が持つ真実だけ。
殺したかもわからない。だけどその原因はきっと俺にある。それが俺の持つ真実だった。
先生が持つ真実はどんなものなのだろう。この人は何をしに来たのだろう。
どれぐらい時間が経ったかはわからない。数分しか経ってなかったのかもしれない。だけど、時計を見ることさえしなかった。ただ互いを見ていた。
先生が口を開いたとき、俺は終わりを感じた。すべての終わりを。
「…最後に会ったの、一ヶ月くらい前なの」
「うん」
誰に、とは訊かない。訊かずともわかるから。
知ってるよ。彼から聞いたのだから。
「しばらく距離を置いた方が良いって。周囲の人のことも考えた方が良いって言われて、私も最後には了承した」
「うん」
知ってるよ。それも彼から聞いたのだから。
「私はそんなもの必要ないと思ってた。二人が想い合っていればそれで良いんだと思ってた」
宇宙を構成する最低人数を知っているだろうか。答えは二人。二人いればそのには世界が生まれる。
「だけど、誠司さんはそれじゃあダメなんだって言った。これからの幸せのためにも、周りのことも考えなければならないって」
自分たちの幸せのために他人を不幸にしてはならない。
なんて素敵な理想論。なんて愚かな夢。すべての人が幸せになる方法などあるはずもないのに。他人の幸せを考える前に自分の幸せを優先しなければ踏みつぶされてしまう。いつだって幸せは他人を踏み台にして手に入れるものなのだ。それが大きければ大きいほど。
だけどあの人は本気で信じていたのだろう。自分も他人もみんな幸せになれる方法が存在すると。まるで夢みたいな未来を、思い浮かべていたのだろう。
しかし現実は残酷だった。今、彼の幸せは踏みつぶされ、一つの柱を失った世界は崩れていこうとしている。
俺はそれを止めることも、直すこともできなかった。
その柱を壊したのは俺なのだから。
「ねえ、私誰を憎めばいいの?」
彼女は言う。
「誰を憎めば救われるの?」
そんなこと、俺が知るはずもない。
だって、救われる方法なんてもう有りはしないのだから。
「…先生がしたいのなら俺を殺してもいいよ」
俺は逃げも隠れもしない。
「でも、俺を殺して先生が救われるかは保証できない。でも先生には俺を罰する権利がある」
誰でもない、あなただけが俺を罰することができる。
だが、先生はそうしなかった。
「嫌だよ、私人殺しにはなりたくないもの」
「俺のことが憎いのに?」
「そうだよ。きっと私は君が憎い。真実なんて関係ない。ただ私たちを不幸にした君が憎い」
彼女から呪詛のように言葉が紡がれる。
俺は数日前までこんな状況考えもしなかった。彼女から人を呪う言葉が出るなんて、想像もできなかった。
きっと彼女を変えてしまったのは俺。いや、それまで見えなかった彼女の弱さを引きずり出してしまったのかもしれない。
あの明るく魅力的だった人は、もうどこにもいない。
「先生、俺は何をすればいいですか?」
何をすれば償いになりますか?
彼女は生気のない眼で俺を見つめていた。
「…抱いて」
「へ?」
意外な解答だった。
「私を抱いて。あの人がしたみたいに」
「…それでいいんですか?」
「うん、それでいいの」
そう言われてしまっては俺が逆らうことができなかった。元々彼女のために何でもしようと決意していたのだ。
それが少し予想を外れただけで。
両親は留守で、家の中には俺たち二人しかいなかった。
いつも寝ているベッドが棺桶のように思えた。まるで死体とセックスをするかのような気分だった。体温があるのに心の温かさは何も感じられなかった。
俺はかつてこれを望んだのではなかったのか。彼女を抱きたいと思ったのではないのか?
そうかもしれない。だけど、これは俺が望んでいた形ではない。
これは呪いだと彼女は言った。
「忘れないように刻んであげる。あなたに呪いをかけてあげる」
電気もついていない、暗闇の中、時折光る雷だけが光源だった。
「私を忘れないで。罪を忘れないで。忘れたら許さない」
雨の音がうるさかった。彼女の言葉を遮るように降り続ける雨が煩わしかった。
「私はあなたを絶対に愛さない」
それだけが真実。
そうやって、俺の恋愛は終わりを告げた。そしてこの日が俺と先生の永遠の別れとなった
誰が悪いとか悪くないとか、そんなものは本当はないのかもしれない。しかし憎まなければ自分を保てないこともある。
本当の善人はその優しさが時に人を惨めな気持ちにさせていることに気付きません。だから自分に刃を向けられてもその理由がわからないのです。