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第十話  夜半




 意外にも先生は俺の家庭教師を辞めなかった。それはもちろん俺の方も同様で、むしろそれまで打ち込んだことのなかった勉学に励んだ。

 しかしそれ以上に彼女との時間は価値あるものだったように思える。

 俺はほとんど行っていなかった学校にも登校し、中学に入ってから一度も受けなかった試験も休むことなく受けた。

 最初はあんた呼ばわりしていた彼女を先生と呼ぶようになっていた。それだけでも俺の中の先生の印象が変わったことを表していただろう。

 両親や担任もまともになった俺の学校生活を喜んだ。少しではあるがクラスメイトとたわいもない話をするようにもなった。彼女の存在が俺の生活を変えていった。それまでつまらなく、ただ生きているだけの白黒の世界が、色を付け鮮やかになっていった。

 少し見方を変えるだけでこんなにも世界は違って見えるのかと、今までもったいないことをしていたのかもしれないと、初めて生きることに喜びを覚えた。

 だから、俺が先生に恋心を抱いたのは別に不思議なことではなかったのかもしれない。

 次第に俺は先生の表情を、動きを、眼に焼き付けるようにしていった。先生を好きになった理由なんていちいち挙げられない。人が人を好きになるのに理由など要らない。理由など後付で構わない。問題はその結果。その人を愛したという事実だけなのだ。

 先生は俺より五歳年上の大学生だった。父親は会社社長の上流家庭。中流家庭のうちとはまったく違う。

 まず、そんな問題よりも俺の想いは一方的なものでしかなかったということ。そして彼女には既に恋人がいたこと。その方が問題だった。

 先生と会って半年ほど経った頃、試験の結果が良かったご褒美として食事に連れて行ってもらった。

 その頃にはとっくに自分の想いを自覚しており、彼女に振り向いてもらいたいという思っていた。もちろん、彼女の恋人の存在は知っていた。しかし会ったこともない男に負ける気はしなかった。

 だからその日、先生の彼氏を紹介してとせがんだのは確認したかったからだ。相手がどんな人物なのか。先生に本当に見合うほどの人間なのか。

 今思えばこれが間違いの始まりだった気がする。会わなければあれほどの嫉妬心に駆られることはなかっただろう。自分との差、どんなに努力しても報われないことを。

 知らなければ夢のままでいられたのだ。たとえ告白して玉砕しても、一時の傷でいられたのだ。

 だから、これが最初の誤り。

「朔夜、この人が田上誠司さん。私の彼氏」

 そう言って紹介された時、既に罅が入っていたのかもしれない。あの時俺はどんな顔をしていたのだろう。

「初めまして、田上誠司です。よろしくね朔夜君」

 人柄の良さそうな雰囲気の男性が俺に手を差し出した。何の悪意も傲慢もない、ただ礼儀正しく、それは年下に対しても。初めて会った子供の俺すら対等に扱ってくれたのだ。

 しかし既に俺にはその行為一つ一つが良い方にとれなかった。いや、とりたくなかった。こんな完璧な人間が傍にいるのでは、俺の入り込む余地なんてない。

 俺のどす黒い悪意を隠しきれていたかはわからない。もしかしたら最初からすべてお見通しだったのかもしれない。

 それでも彼の態度は変わらなかった。どこまでも『良い人』だったのだ。

 三人でファミレスに入り、会話をしながら食事を摂った。先生は育ちの割には庶民的で、こういった場面で贅沢をすることはなかった。親の金に頼る気はないのだという。不思議にも最初は金持ちの道楽としか見ていなかったのに、この頃には言葉のまま、むしろ良い意味でとっていた。その人に抱く感情が違うだけで、こんなにも見解が違うのだ。

 何を話したか細かいところまでは覚えていない。しかしその三時間ほどの邂逅だけですべてがわかった。

 田上誠司という人の完璧さ。話せば話すほどその人柄の良さ、善意が感じられた。何の汚点もない、誰が見ても完璧だと認められる人物だということを。

 運動こそ苦手としていたが、それすらチャームポイントに見えるだろう。それよりも目立つのはあふれ出る善意。まるですべての人に平等に接するかのような態度。悪い所など挙げられない。そんなことをしているこっちがよほど悪者に見える。

 そんな人だった。先生のふさわしいとかそんな次元の問題じゃない。どうやっても届かない、どこまでも完璧な人間。こんな人間が世の中にいたのかと、本気で驚いたものだ。

 それが先生の恋人でなければこんなにもコンプレックスを感じることはなかっただろう。しかし残念ながら彼は先生の恋人で、そしてもう一つわかったのは先生がどこまでも彼を愛していることだった。

 その言動を、表情を見れば一目瞭然だった。普段から先生の一つ一つを見ている俺だからこそそれははっきりとわかった。悲しいほどに。

 彼女が自分の彼氏をさん付けで呼ぶのは大学の先輩だという経緯がそのまま残っているかららしい。変ではないかと思ったが、それが彼女らしいのだと、好きに呼んで良いのだと、優しく言う誠司さんに、先生は頬を赤く染めた。

 声の温度が、笑い方が、赤く染まる頬が、何もかも俺と話すときとは違う。俺の前では年上の女性という印象が消えていない彼女が、まるで一人の恋する乙女に見えたのだ。いや、その通りだった。彼女は彼に恋をしているのだから。

 その場は針のむしろだった。二人の声さえ耳障りだった。その場を離れたくて仕方がなかった。

 もしかしたら先生は俺の気持ちに気付いていてわざと諦めさせるために紹介したのかもしれない。今ならそう思える。

 俺の気持ちにまったく気付いていなかったとは思いにくい。何せあんなにも熱心だっただから。彼女が彼の前で態度を変えるのと同様に、俺も彼女の前では他の人とは違ったのかもしれない。

 彼女がそれを煩わしいと思ったのか、それともあくまで穏便に事を済ませようとしたのかはわからない。

 ただ、わかるのは彼女が俺の気持ちに答える気がないという、ただそれだけだった。




 愛をください。パンも水も要らない。ただ私は愛に飢えているのです。

 愛をくれないのなら私を殺してください。愛なき世界では私は生きられないのです。

 あなたが愛してくれないのなら私は死んでしまいます。それぐらいならあなたの手で殺してください。

 あなたの中途半端な優しさが私を傷つける。じわりじわりと私の爪をはがしていく。

 私を愛してください。それができないのなら殺してください。それもできないのなら、あなたを殺させてください。

 あなたの髪の毛一本さえ私は愛します。たとえあなたが私を愛さなくても、私はあなたを愛しています。

 その心をくれないのなら、身体だけでもください。その骸を抱いて私は眠る。あなたの心臓にキスをして、その血をすべて飲み干し、あなたと一つになろう。

 愛をください。でなければ殺してください。でなければ私のために死んで。

             (『愛なき世界より愛を込めて』三つ星出版 皆月朔夜)




 父の小説が頭によぎった。

 珍しく父が書いた恋愛をテーマにした小説。それだけの理由で珍しく活字を読もうと思ったのだ。

 小説の評価は賛否両論だった。こんなもの恋愛ではないと言う人もいた。なにせ嫉妬に駆られた主人公が愛する恋人の周囲の人間を殺していくという話なのだから。

 ありもしない浮気相手に嫉妬し、恋人と親しくするすべてに嫉妬した。

 最後には恋人を殺し自分自身も死んでしまう。救いも何もないアンハッピーエンドだ。

 なぜ父がこんな小説を書いたのかわからなかった。愛故に狂った男の話なんて、父には縁のない話だと思っていたからだ。

 でも今ならわかる。父はこの主人公に自分を投影したのだ。かつての自分の罪を忘れまいとするかのように。

「あの小説を書いたのはあの一件からちょうど十年経った頃だ」

 東城の中にもあの小説が思い浮かんだのだろう。

「あれはあいつなりのけじめだったのかもしれない。そのままとは言わないが、主人公の心情は自分自身がかつて抱いたものなのだろう」

 自分の過去は小説にならないと言っていた。あまりにもドラマ性がないから。

 他人の不幸は蜜の味と言うが、確かに見ている分ではおもしろいのかもしれない。ドラマの世界など他人の世界だ。当事者がどんなに悲しみに呉れようが、視聴者は同情して泣くだけだ。

 他人事だから笑える、泣ける。同情とはそういうものだ。

「物書きを職業に選んだのは第三者の目から見てみたいからだと言っていた」

 東城は言う。

「第三者はドラマをどう見ているのか。自分自身が物語を書くことで自分の過去を冷静に見られる気がするんだそうだ」

 物語を描くことはある意味神に等しい。登場人物達からすれば、著者は神と言えるだろう。しかし、著者は自分の考えもしないことを書けない。万能ではない。神にはなれない。むしろ著者になることは自分の中身を多くの読者にさらすことだ。

 美しい部分も、醜い部分も、それを作っているのは著者自身。物語を自分の中で完結させるか、周囲に伝え同時に自分をさらすか、プロと趣味の違いはここにあると朔夜は思っている。

「僕はあいつのしたことすべてが罪だとは思わない。あってもそれは朔夜一人の罪じゃない。だけど、あいつやあの男はそう思ってないようだ」

 あの男とは、父を人殺しと呼んだあの男のことだろう。暁斗にとっては叔父である人物。

「あの男は夕夏さんの弟だよ。最後に会ったときは高校生だったか。僕は会話もしたことがないが」

 あの男は朔夜しか見ていなかった。憎悪に染まった瞳で、彼を睨んでいた。

「……朔夜が夕夏さんを愛したことが悪かったんじゃない。田上さんに嫉妬したことが悪かったのでもない。ただ、間違えた」

「何を?」

「さじ加減。自分の想いを優先するあまり、相手のことを思いやらなかった。さじ加減を間違え、あふれた想いが相手を傷つけた」

 溶けきれない砂糖が水の底に溜まる。いずれは器からこぼれるほど溜まる。

「途中で間違っていることに気付けば良かったんだ。だけど朔夜は気付かなかった。気付かないまま水に砂糖を注ぎ続けた」

 そして僕はまだそれに気付くほど朔夜を知っていなかった。

「気付いた時には遅かった。すべてが遅すぎた」

 若さ故の過ち。その言葉だけで済ませられる問題ではなかった。

「朔夜が夕夏さんと会って一年ほど経った頃、あの日に起こった」

 あの日は雨が降っていた。





人を愛することはすばらしい。しかし相手のことを思いやらねばそれもただの暴力となる。

好きな人の一番になりたい。たったそれだけで、しかしとても難しい願い。愛情はその使い道を間違えることで人を傷つける凶器にもなります。

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