初夜
幸せな時間はあっという間に過ぎるもので、もう同棲生活最終日だった。初日こそ少しトラブルがあったものの、その後は何も起こらなかった。そう何もである。問題は起こらなかったが、恋愛イベントも起こらなかったのだ。
というわけで、今晩夜這いをかけることにした。起こらないなら起こせばいい。というか、毎日一緒に寝ているのに何も起きない方がおかしい。
レイスさんがお風呂に入っている間に準備を進める。まず照明を薄暗いピンク色にする。次に半分ぐらい透けているネグリジェに着替える。下着もこの時のために用意した勝負下着にする。あとはいい感じにレイスさんを誘うなり、襲うなりすればいい。
「――ですね」
お風呂上がりのレイスさんと、ベッドに腰掛け雑談をする。レイスさんは私の姿にも何も触れない。気付いていないということは無いだろうから、あえて触れてこないのだろう。
「明日は仕事ですし、今日はもう寝ましょう」
そう言って布団を被ろうとしたレイスさんを押し倒した。レイスさんには、少しも驚いている素振りが無かった。まるで、こうなることが分かっていたかのように。
「レイスさん……私を抱いてください。それが無理なら……せめて受け入れてください。私が……全部しますから」
何も言わず襲えばよかったかも知れない。もしかしたら抵抗されなかったかも知れない。でも、レイスさん相手にそんなことはできなかった。
「一ついいですか」
口を開いたレイスさんの声は、普段となんら変わらないものだった。
「何故、私のことを愛してくれるのですか?」
そんなレイスさんから発せられた言葉は、私にとっては信じられないものだった。
「レイスさんはあの日、私のことを美しいと言ってくれたじゃないですか。だから私はあなたのことを愛しているんです」
「それが理解できません。美しいものを美しいと言うのは当然ではないですか」
その発言でレイスさんと私の間にあった、認識の違いが何だったのか分かった。
「レイスさん。もう一度私の体を見てください」
私はそれだけ言うと衣服を全て脱いだ。一糸纏わぬ姿となり、レイスさんに体を見せる。私の右半身には、足先から胸部付近までかけて、生まれつきの赤黒い火傷痕のような痣があった。
「レイスさんは、今も私を美しいと思いますか?」
「はい。今まで見たことがないほどに、美しいと思います」
その言葉を聞くだけで、多幸感に包まれどうにかなってしまいそうだったがなんとか抑え込む。今は話を続けなければいけない。
「レイスさんは……私の何を美しいと言っているのですか?」
今まで聞いたことはなかったが、この問いに対する答えは分かっている。それでも聞いたのは、確認したかったからだ。
「決まっているじゃないですか。ベルナさんの体を見れば、どのような扱いをされて生きてきたのかぐらい分かります。それでもなお、私と違い、自分を偽らずに強く生きているあなたの在り方を……心を美しいと言ったのです」
嬉しかった。私の考えが間違っていなかったことが、レイスさんが私のことを深く理解してくれていることが。
レイスさんが想像している通り、私は虐げられて生きてきた。今でこそ魔王軍で安定した暮らしを送れているが、野良の時は――親元にいた時はもっと――酷かった。
「私からも一つ質問させてもらいますね。先程も聞きましたが、何故私のことを愛してくれるのですか?」
何度聞かれても私の答えは変わらない。ただ、レイスさんが何故疑問に思うのか理解できたため、今度は伝わるように言う。
「私のことを美しいと言ってくれたからです。レイスさんは、私の心を美しいと思うのは当然だと思っているようですが、普通の人はそんなこと言わないんです。誰かに美しいなんて、言われたことないんです。それなのに、レイスさんが当然のように言うから……そんなの……好きになるに決まってるじゃないですか」
そこまで言った私は、もう我慢できなかった。私に上に乗られたまま上半身だけを起こしているレイスさんに抱きつき、強く抱きしめる。
「レイスさん、私のことを受け入れてくれますか? 愛して……くれますか?」
これを聞くのは怖かった。拒まれてしまったら、どうにかなってしまいそうで。だが、いつかは聞かなければいけないことだ。
「私はまだ愛というものが分かりません。……ですが、ベルナさんのそばは心地良くて、安心できて、ずっと一緒にいたいと思うんです。こんな自分勝手な感情が愛だとは思えないのですが……それでもいいなら、私はあなたのことを愛します」
レイスさんが明言してくれた。この瞬間、レイスさんと私のあやふやだった関係が、しっかりとしたものになった気がした。
私はなにも言わずに、レイスさんの頬に手を添える。私が何をしようとしているのか悟ったレイスさんは目を瞑った。その行動が嬉しかった。私のことを受け入れてくれていると実感できて。
私はレイスさんに顔を近づける。そして私も目を瞑り、唇を重ね合わせた。唇同士が触れ合い、柔らかい感触が伝わってくる。唇を重ねるだけの子供のするようなキス。でも、愛を確かめ合う幸せなキスだった。
「んっ……」
その声はどちらが発したのか分からなかった。私かも知れないし、レイスさんかも知れない。もしかすると両方かも知れない。
名残惜しくも、一度唇を離す。お互いの呼吸は少し荒く、レイスさんの頬は若干上気していた。きっと私もなのだろう。
少し呼吸を整え、もう一度唇を重ね合わせる。今度は少し口を開けて、ゆっくりと舌を絡めるように動かす。レイスさんの口腔内に私の舌を這わせ、快楽を貪るようなキスをする。熱に浮かされるようにして、頭がぼーっとしてくる。
「んっ……んぅ……ふぁ……」
二人だけの静かな部屋で、その声はやけに大きく聞こえた。半ば喘ぎ声のようなそれは、レイスさんから発せられた声だった。
そのことに驚き、唇を離す。薄暗い部屋の中でもはっきりと分かる程に、レイスさんの顔は紅潮していた。その瞳はとろんとし潤んでいたが、確かな熱を持って私を見つめていた。
かわいい。普段はクールなレイスさんがこんな姿を晒していることに興奮し、私の中の嗜虐心が刺激される。少しだけからかうつもりで、レイスさんの服をはだけさせ腹部に手を伸ばす。
「ま、待ってください。そういうことは……結婚してから……」
とても純情そうなことを言いながらも抵抗はしてこないので、腹部に手を這わせ優しく撫でる。
「んっ……ひゃ……あっ……」
あ、やばい。からかうだけで終われそうにない。
「ごめんなさい。抑えられません。嫌だったら本気で抵抗してください」
私はそれだけ言うと下腹部に手を伸ばし――
「はっはっはー! 我が来てやったぞ!」
――唐突に魔王様が現れた。
意味が分からない。なぜ来たのか。緊急事態ではないだろう。もしそうだとすれば、魔王様から漂う強すぎる酒の匂いは何なのだろう。
「ん〜?」
魔王様は私達を一瞥すると、唐突に笑い出した。
「ははは! お主ら、ヤるところだったのか!」
薄暗い部屋で裸の女と半裸の男を見ればそういう結論にもなるだろう。だが、もう少し上品に言えないのだろうか。いや、なぜ来たのだろうか。
「じゃあ、邪魔にならないよう我は帰るからな!」
それだけ言うと魔王様は消え去っていった。部屋には嵐が過ぎ去った後のような静寂が訪れた。
突然の出来事に対する驚きが収まってくると、次に怒りが湧いて来た。それは収まることなく、もはや殺意と言ってもいいほどになった。
最悪だ。ムードが台無しになった。せっかくレイスさんと初夜を迎えれるところだったのに。
お互い何も言わずにしばらく経った後、レイスさんが先に口を開いた。
「……とりあえず、服を着ましょうか」
その声は普段より少しだけ、本当に少しだけ暗かった。
「そう……ですね」
服を着ていると、魔王様が私の裸を見ていたことに気がつく。
むかつきますね。私の裸を見ていいのはレイスさんだけなのに。……痣も見られたかも知れませんね。あの酔いようだと、明日には忘れているでしょうが。
二人とも服を着終わると、どちらからともなく手を繋いだ。ベッドに腰掛けて窓から外を眺めたまま。見つめ合うことはしない。ただ、手を絡めて互いの温もりを感じ合う。
「寝ましょうか」
「……そうですね」
レイスさんのおかげでひとまず落ち着くことはできたが、まだ怒りの炎は燻っていた。レイスさんの隣で眠りにつきながら、そう遠くないうちに魔王様への復讐をすると誓った。