星祭りの夜に
風が耳をくすぐった気がしてルーチェは振り返った。
だが、そこには夜明けの静寂に与えられた安寧を享受している村があるばかりである。
空は西の濃藍から東の瓶覗へと移り変わりを見せ、夜と朝の境界線を薄めていた。瞬く星々は少しずつその存在感を弱めて、また夜までを静かに過ごすのだろう。そんな中、土を踏み固められた村の大通りで一人、ルーチェは立ち止まっている。
「……気のせいか。さて、早く行かないと、おつとめが終わらない」
ゆっくりとあたりを見渡したあと、後ろ髪を引くような意識を引っ張り上げて、重い重いカゴを抱え直して歩きだした。これからこのカゴの中に入っているものに、星の力を加えて地脈に戻すという『おつとめ』が待っているのだから。
麦の穂色の細い髪を揺らして、薄青の瞳に少しずつ存在の縁を見せだした太陽を映し、彼女は歩く。あともう少しで村の出入り口だ。
「おや、ルーチェ。今朝のおつとめかい? 助かるよ。最近のペガサスの様子はどうかね?」
「おじさん、おはようございます。ペガサスはとても元気で過ごしていますよ」
「そうかい、それは良かった。なにせ今夜は【星祭り】だ。主役の元気がなくっちゃぁ盛り上がらないからね」
村の外に出ていこうとしたところで、これから農作業を始めるらしい、近所の村人に声をかけられる。掛けられた言葉は、ここ最近ルーチェに会うと誰もが確認してくることであった。この一ヶ月はこんな会話ばっかり、と、少しばかり辟易してしまうのは仕方がないことであろう。しかし、こういう問いにも真摯に答えることが彼女には求められているのだ。
ここグズナロス国では、各集落ごとにペガサスと呼ばれる、額に一本角、背中に翼を持つ、白い体毛の天馬が一頭ずつ存在していて集落を守ってくれている。そしてそんな彼らの世話を一任されるのが、それぞれの集落で選出された【星乙女】たちなのである。
現在はルーチェが一年間の任期を受けて村のペガサスを世話しているが、本日の【星祭り】が終わると、また新たな乙女に役が移る。それまでは、ペガサスに相応しい人物たれと、とても厳しい戒律の下に生活を求められているのだ。
「そうですね。でも、星の力が溢れるこの時期は、ペガサスも元気なんだって前任者が言ってましたから、大丈夫ですよ」
「それもそうか。ルーチェもとうとうお役目を外れるんだね。一年、真面目にペガサスと対話をしてくれて助かるよ。どうか君に良き星の導きがありますように」
「いえ、このお役目に触れられるだけで光栄です。どうかあなたにも良き星の導きがありますように」
決まりきった挨拶を交わして、彼と別れてまた歩きだした。村の出入り口を抜け、少しだけデコボコとした道を通り、未だ昏い色を宿す森へと躊躇なく入っていく。もう一年も繰り返しているのだ、怖がるという意識などなくなってしまった。
『どうかあなたに良き星の導きがありますように』というのは、この世界で一般に使われている挨拶である。この世界が空から落ちた【星乙女】たちによって創られ、彼女らが共に降りてきた天馬とつがって人間を産み落としたという神話からだ。ゆえに人は星の力を借りて、地脈や生物を潤したり癒したりすることができるのだと教えられているのだった。また、ペガサスを世話する乙女を【星乙女】と呼ぶのもそこからである。
そういう存在である人間にとって、『良き星の導き』というものは、相手に捧げる餞であり、また、星のルーツで繋がる自分のことも忘れないでくださいね、という想いが込められているものでもあるのだ。……とはいっても、こういう時に使われる挨拶にそこまでの想いはなく、ただ『いつもありがとう、元気でね』というくらいの感覚ではあるが。
それでも人々は繰り返す。この世界の、この場所に、自分たちがいるのだと。
(……もう少し変わった挨拶を聞いてみたいものだけど、変な挨拶をすると、年代によっては軽んじられた! って怒る人もいるしね)
特に、辺境の、こういう小さな村組織ではそういう反応は大きいのだと、以前、村の教会に巡礼に来てくれた人が言っていた。なるほどそうかと納得したものである。
森の中の、何度もかよった道を進んで、ルーチェは綺麗な湖へと辿り着く。
わさわさと茂っている木々が、この湖の周りだけ、くっきりと生えていない。芝生のような下草がちょろと生えているくらいの、本当に美しい場所だ。
その湖の中央に、水面スレスレを歩いている真白の天馬がいた。
ルーチェが村を出てきた時よりさらに存在を主張しだした太陽の光を受けて、額の一本角は煌めき、鬣からは星々が瞬いているような光がこぼれる。一歩進むごとに水面に小さな波紋が漂うのだけれども、その蹄は水を掻いているわけではない。背にたたまれている大きな翼は、一度だけ、去年の【星祭り】の儀式で、空を飛んでいた時に開いたのを見たきりだ。
「おはよう、ペガサス。今日もあなたは元気そうだね」
声をかけると、ちらりと、体毛とは真逆の闇色の瞳を向けてくる。その瞳はやはり、星を集めた夜空のような美しさだった。
彼らは基本的に無口だ。こちらがすることをじっと見つめていることもあれば、そんなの関係ないとばかりに好き勝手に湖の上を歩いていたり下草を食んでいたりする。
それでも、やっぱり【星乙女】という存在は重要なのだろう。『おつとめ』の後は、少しだけ嬉しそうにしているような気がするのだから不思議なものだ。
「あなたも知っていると思うけど、今夜は【星祭り】だから、儀式の時にお願いね。そのせいで今日は少し多いけれど、頑張るからね」
にっ、と笑いかけて、彼女は横に置いたカゴの中のものを取り出した。それはペガサスのためにと、村人が自分たちの農作物の横で育てている草や穀物である。
日々教会に供えられるそれらを回収し、翌朝にここまで持ってきて地脈に返すことでペガサスの養分とする、それが彼女たちに一年という期間与えられた仕事であった。
両手で捧げもった草たちに息を吹きかけて、触れているところから徐々に、自分の中の星の力を渡していく。するとそれらが闇夜に煌めく星々のように瞬きだす。
この瞬間が好きだ。
普段の生活で星力を使うことはほとんどない。この能力で怪我を癒すことができると知っていても村人たちはみだりに使うことを嫌うのだ。何故だろうかと質問したときに答えてくれたのは、以前村に立ち寄った巡礼の人だった。「人は特別を愛するからね」──そんなことを言っていたように思う。
瞬きだした草たちにもう一度息を吹きかけると、今度は強い風が吹いて、空に、湖に、その周りの地面へと、散っていく。するとそこかしこが、一瞬だけ輝いては収まる。……これが、地脈に還った証拠だ。
ペガサスは翼をはためかせて天脈を受け入れ、草を食んで地脈を取り込む。天脈は風のささやきや星の光で取り込めるが、地脈は人の営みが足音として強く出てしまうというのだ。だからこうやって、供えられたものを星の力を加えて返すことで、彼らが取り込みやすいように整えるというのが『おつとめ』である。
そのまま何度か繰り返してカゴの中がきれいになくなった頃、ペガサスは嬉しそうに全身を震わせて、湖の向こう側へと歩いて消えていった。いつも通り寝床に戻って少しゆっくりとするのだろう。「今日まで、一年間ありがとうねー」と大きく手を振りながら見送る。
あと、少し。今日の夜の【星祭り】での大役を務めあげて終わりだ。
よし、と気合いを入れてからカゴを持ち、森を出ようと歩きだした。もう、これでここに通う理由もなくなったのだなと少し寂しく思いもするが、どちらかというと、この早朝の仕事がやっと終わるのだという解放感の方が優っている。すっきりとした感覚に、軽くなったカゴを片手で持ちながらうーん、と伸びをした。
──ところだった。
「ひっ……!」
目の前に、ごろりと横たわる巨体があったのだ。
胴体は彼女の身体よりふた回りと少しくらい大きく、けれど筋肉が見えるくらいにがっしりとしている。それに比べて腕と脚はきゅきゅっと引き締まっていて、逆にあの身体を支えるのには細いのではないかと無駄に心配してしまうほどだ。それから星の煌めきに似た白銀の髪──ではなく、鬣。
けれど、
「ペガサス……じゃ、ない……?」
特徴的なものが、一つ、足りない。
額の一本角は水晶のような輝きをともしているが、背の翼は……もがれたように肉が見え、流れ出る血液が土をどす黒く染め上げていた。
「ちょ、ちょっとあなた……! さっきの子じゃないわよね、でも、村にペガサスは一頭しかいないはずなのに、どこから来たの!?」
あまりに驚いたものの、直ぐに駆け寄ってその背に手を置いたのは、この一年という短くもない期間で、毎朝見るペガサスに親近感を抱いていたからかもしれない。まず、こんなに触れるほど近くで彼と関わったことがないので、興味が溢れたともいえる。
背に触れると、温もりはあるし、息はしている。触った時の振動が痛かったのか、彼は意識朦朧としながらも小さく呻いた。
「お供えもの……さっき使っちゃった……あ、これだけだけど、いける?」
星力を使う媒介となる村人の想いはつい先程、湖のペガサスに使い切った。と、思って見直すと、カゴの繊維に引っかかって、小さな草が幾本か残っている。ルーチェは悩む時間ももったいない、とばかりにそれを引っ掴んだ。
「む、り……だ。おれのケガは……」
「あなた、喋れるの!? 静かにしてて、大丈夫だから!」
喘ぐような声にまたもや驚いて──今までペガサスと会話をしたことなどないのだ!──、けれど集中して力を草に送っていく。今まで『おつとめ』以外に力を使ったことはないけれど、こんなところで足踏みできるほど、彼女は非情ではない。
(お願いよ、本物の【星乙女】たち。この子を助けてあげて──!)
一年間していたこと以上に願いを込めて息を吹きかけた。するとどうしたことか、風により舞った数本の草が辺りを輝かせ、その輝きが目の前で倒れている巨体へと収束していく。
一瞬、目を突き刺すほどの眩い光が弾けて、それが収まった時には、目の前の彼は、静かな呼吸を繰り返して眠っているようだった。
「効、いた……の、よね……?」
びくびくしながら窺ってみるものの、当の本人は眠っているし、背中に血の跡はあるものの傷は塞がっているように見える。
とりあえずは助けられたようだと、ほぅ、と息を吐き出して全身から力を抜いた。驚いて気づきもしなかったが、地に座り込んでいたためにスカートも靴下もドロドロだ。
「あ……! やばい、早く村に帰らなきゃ!」
ふと頭上を見ると、すでに太陽は高いところにいるではないか。今夜の祭りのために、主役の一人であるルーチェはこのあととても忙しいので早く帰ってこいと言われていたというのに!
「あの、私、用事があるから行くけど、早く元に戻るといいわね。じゃあね」
急いでスカートについた土を払い、眠ったままの翼のないペガサスに声をかけて、彼女は村へと向かって走っていった。
この出会いが、彼女の運命のいくつかの輪を外したことに気がつかぬまま。
*
あれから、村に戻ったルーチェは準備でてんやわんやとしている村の女衆に尻を叩かれながら、教会奥の聖殿でゆっくりと禊を済ませ、主役としての衣装に身を包んだ。
全身真っ白のその衣装は、首元からデコルテまでを繊細なレースで覆い、指先が少しだけ見える程度まで手先もレースで覆われている。胸元はしっかりと身体の線に沿うように、一ヶ月前から女衆でも特に裁縫に長けた者がルーチェに合わせながら縫い直してくれている。それがささやかな胸と細い腰を強調しているのが、彼女は少し不満である。
「ルーチェ、緊張してる?」
【星乙女】の前任者であるミュシャが聞いてくる声に、ルーチェは頷かざるをえない。
「やっぱり、今日が一年のおつとめの集大成だっていうし、ね。わたしの星の力がちゃんと天に届くのかも心配だし」
そんなルーチェの言葉にミュシャはくすりと微笑い、ルーチェの衣装を整える手を止めた。
去年、この衣装を着たのはミュシャだ。朝から禊をした身体にこれを纏い、結婚式よりも丁寧に美しく化粧をほどこされ、舞台に立ち、大役をこなした。その時のことを思い出しているのか、彼女の手つきや視線には追憶の意が込められている。
「私もね、去年のこの衣装を着たとき、そう思った」
そう言って、彼女は悪戯っ子のように小さく舌を出した。ちょっと下手くそなウィンクをお供に。
「でも、舞台にのぼったら、あとはするしかないから腹も据えるわ。大役を果たすときの、あの景色の一等いい場面は、私たちだけしか見られない。大丈夫、あなたならできるから。行ってらっしゃい。グース・ヴァルト・マータ」
緊張で固く冷たくなってしまったルーチェの指先を握って、額を付き合わせてくれる。おなじみの挨拶も、元【星乙女】の彼女からだと不思議に力をもらえそうな気がしてくる。彼女の手から伝わる温もりに合わせて深呼吸をした。
「うん、ありがとう。行ってくるね」
「行ってらっしゃい、ルーチェ」
最後に二人抱き合ってから、お互いに手を振って別れた。
また、直ぐ、この場所へ戻ってこられると思っていた。──窓から見える空では、夕星がここは自分の場所だと囁く。その赤い星は、西の温もりを映しながらも、どこか冷たい色であった。
教会の大扉を抜けると、そこから先は司祭に先導されながら村の中央へと進んでいく。この時間はまだ村人たちは自分の家にこもっていて、朝、立ち止まった時とはまた違った雰囲気の静寂が息をする。
しずしずと篝火の合間を縫い、かなりの時間をかけて村の中を一周してから、中央の祭壇へと導かれるままにルーチェは上がった。
人の背丈ほどに作られている祭壇は、一人で立っているとひどく頼りなく思える。仰ぎ見ると色を濃くした空が、こちらを吸い込んでやろうかと落ちてきそうだと、少しだけ背筋が冷えた。
空は明るい。この【星祭り】の日に空にかかるという死者の河が、白き光を映しているからだ。藍色と黒の混ざった空を分け、地平線の向こうで地と接する大河。あの空から、本当の【星乙女】たちは落ちてきたのか。
ごくり、と喉を鳴らして、意識をして深呼吸をする。
(大丈夫、大丈夫。だって毎年、みんなしてきたんだもの)
深呼吸のたびに、自分の身体に星力が満ちて、爪先から髪の先まで行き渡っていくのを感じる。
捧げもった両手で作った器が輝きを燈しだして、……その光に、去年の祭りから今日までに亡くなった人たちの魂が惹かれて集まってきた。
この祭りは、地に眠る人々の魂を、天へと還すために行われる。その集落で命を落とした人々は一旦地脈に戻り地を潤し、この日に【星乙女】によって打ち上げられることで天脈に還り、また、いつか地上に戻ってくるまでを静かに過ごすのだと。
「──グース・ヴァルト・マータ!」
普段から使っている挨拶も、この日だけは格別だ。次の世に幸あれと送り出す言葉。星のルーツで繋がっていくこの世界を生きるための言葉。
打ち上げられた魂は一気に上昇し、空の河へと打ち上げ────られ、なかった。
「な……なんと……!」
儀式の進行を見守っていた司祭が声をあげる。その声で、ルーチェは、儀式が失敗したことを、やっと、理解した。
事実、例年ならば打ち上げられた魂が夜空を虹色に染め、森からやってくるペガサスと共に村を一度巡ったあとに空の河へと合流するはずなのだ。それが、彼女が打ち上げた魂はそこらを漂ったあと、また地に落ちたのだから。【星乙女】たちだけが一番の席で見ることのできる空の饗宴を見られなかったのだから。
「……何ということだ、ルーチェ、そなた、何をした!!」
「あ、あの、司祭さま……わたし、ちゃんと、教えられたように、」
「ちゃんとしておいてこんなことが起こるはずがないだろう! もしやそなた、戒律を破ったのか!?」
「そんな! 違います。ちゃんとこの一年、戒律を守って過ごしていたことは、あなたが一番ご存知ではないですか!」
祭壇の下から、篝火の灯火だけでもわかるほどに顔色を真っ赤にした司祭の怒号は、ルーチェの華奢な身体を強烈に叩きつける。それだけでは怒りが収まらないと、【星乙女】だけが上がれると決まっている祭壇にまで階を駆け上がってきたではないか。たったそれだけで、いつも馬鹿正直に戒律を守っている彼の、内心の動揺がよくわかる。
「今までの【星乙女】のように真面目に務めていればこのようなことになるものか! やはり、こんな不真面目な娘を乙女とするべきではなかったのだ──!」
その勢いのまま、振り上げられた拳に、ルーチェはとっさに目をつぶって身体を固くした!
「──こいつはおれの番だ。断りもなく貴様などが手を上げられる存在ではないぞ」
ところに、耳に涼やかに入ってきたのはどこかで聞いたような声だった。落ち着きがあって、かすれていて、けれど力のある声だ。
その声に反応してふと目を開けてみると、ちょうど、司祭の腕を掴んだ状態でルーチェを庇う位置に、背の高い男がいた。
流れるような白銀の長い髪。窺うようにこちらを見てくる切れ長の目は漆黒の夜空。身に纏っているのは、あまりここらでは見ないような、前を中央で合わせた長衣を腰紐で結んだもので、その下にはゆったりとしたズボンをはいている。
そして一番特徴的なのが、目の覚めるような美形ということだろうか。
「おまえは馬鹿か。おれに触れた身体でこんなところに来たら危険だろうが」
……おや。
ついつい、そんな状況ではないのに男の容姿に目を奪われていたルーチェは、急に飛び出てきた毒舌に少々脱力してしまった。誰かもわからない男に、出会い頭に怒られるいわれはないとばかりに、混乱していた思考が怒りでふつふつしてきたのを感じる。男の向こう側で「な、何だおまえは!」と興奮冷めやらぬ司祭の声が響いているが、それはルーチェこそが問いたい。
「ちょっとあなた──」
「……ちっ、くそ、時間がない。仕方ない、おまえ、来い!」
生来の気の強さで抗議しようと背筋を伸ばして顔をぐっと上げた時だ。男が東の方を見ながらぶつぶつと呟いたかと思うと、急にルーチェを肩に抱えて走りだしたのだ!
「え、ちょっと、あなた誰!?」
「今そんなこと話してる時間ねぇ! 後ろ見てみろ!」
「後ろって、何よ────え……」
現在、男の肩に抱え上げられているルーチェは、手で男の背中にしがみつきながら顔を反転させて彼と話している。それを後ろを見ろと言われたので、大人しく体勢のままに顔を向けて見てみると、……村が、止まっていくではないか。
顔を真っ赤にして怒っていた司祭、状況の不穏さに戸惑った様子で教会から出てきているミュシャ、ちょうど今朝会話を交わしたおじさん、儀式の衣装をルーチェ用に直してくれたお姉さんたち。みんなみんな、今さっきまで動いていたその状態のままに、機能を停止していくのだ。男が走っていく、その後ろを波がさらうように、全てが止まっていく。
「っな、なんで……! もしかしてあなたがしてるの!?」
「ふざけんな、おれはそんなにキレてねぇ!」
「でも、でも……! じゃあなんで!」
「おまえがおれに触れたくせに、あの儀式をしたからだよ!」
ほとんど叫びながら会話をするが、何一つルーチェの疑問は解決せず、逆に疑問ばかりが山となして積み上げられていく。
男に触れた……いつ? 初対面なのに? そもそもそれが儀式に何の関係が……? 男でないなら、誰が、何がこんなことをしているの……?
ぐるぐると疑問が回っていく中でも関係なく男は走っている。その後ろの時間を止めていきながら!
「っ、くそ、来た! おまえ、あいつを追い返せ!」
あいつって誰よ! と叫び返す前に、ルーチェは気がついた。
去年も見たことのある、今年一番近くで見るはずだった、白い大きな翼が近づいてくる。毎日かよってはお供え物を地脈に戻し、彼の力となるようにと祈っていた。その相手が、白銀の美しい鬣を靡かせながら向かってきているのだ。
「お、追い返せって……!」
「あいつはあんたに執着してるんだ。つがうと決めたオンナが他のヤローに触れたからな、怒り狂ってんぞ!」
どういうことよ、と聞きたかったが、そんな時間はなかった。向かってきたペガサスが、額の一本角の先に火球を宿し、それをこちらへと放ってきたからだ。
──ひゅ、と胃の腑が持ち上がる感覚を不快に思った瞬間、ルーチェを抱えた男の左側の地面にその火球がめりこんで爆散した!
「ああ、ったく、やっぱりこっちの姿じゃ遅いな!」
ひえぇぇぇ……と、どこか暢気に、その火球の衝撃に耐えていたルーチェの体勢に変化があった。
男の肩に担がれていたはずの彼女は、一瞬のあと、なぜか風のように駆ける馬の首にしがみついていたのだ!
白い体毛、白銀の鬣、水晶の煌めきの一本角。……でも、背中に大きな白い翼だけがない。
「あー! あなた、今朝の、翼のないペガサス!? うそ! 今までの男の人って、あなただったの!?」
「ああそうだよ! なんだよ、こんなこと常識じゃねぇのかよ! ってか、喋ってると舌噛むぞ!」
「あだっ!」
言われた途端、急激な上下運動で舌先を負傷したルーチェに、その翼のないペガサスは言わんこっちゃない、と呆れた様子だ。しかし、そんな二人の後ろにはまだ村のペガサスがいて、一本角の先からさらに大きな火球を繰り出そうとしていた。
「おい、おまえ、防御壁ぐらい張れるだろ、さっさとしないとこのままじゃ二人揃ってお陀仏だ!」
「ぼっ、防御壁って、どうするの!?」
「はぁ!? んだよ、初歩の初歩じゃねぇか、おまえ何してんだよ!」
「だってそんなこと、習ったこともないのに!」
「おまえ【星乙女】じゃないのかよ!」「そうだけど!」だって知らされたこともない! 馬の背で器用に胸を張って、ルーチェは宣言した。そろそろこの疑問ばかりが山になっていく会話を終わらせたいのだが、腰を据えて対話ができる状況でもない。
「仕方ねぇな!」そう言った彼は、慣性の法則で地面に蹄の跡を残しながら、逃げていた身体を反転してペガサスへと向き直った。すると、ペガサスは敵を定めたとばかりに火球をさらにひと回りほど大きくして放ってきた──!
「ひっ! ──……え……?」
恐怖で目をつぶったルーチェが、何も起こらないと気がついて再度目を開けた時、目の前には赤とも白ともつかない光が押し寄せてきていた。
彼女が乗っている、翼のないペガサスの一本角を起点として、二人を守る半球体の防御壁が展開しているのだ。その防御壁とじりじり一進一退の攻防を繰り返しながら、火球は彼女の目の前を皓々と照らし出しているのである。
「……くっそ、やっぱり、ホンモノは違うってぇのかよ」
その光のあまりもの神々しさに目を奪われていたルーチェは、下から聞こえてくる辛そうな声に我に返った。そうだ、惚けている場合じゃなかったと。
背に乗っている状態なので見づらいが、どうやら、彼はかなり厳しい状況らしい。しがみついている首からでもわかるほどの異様な汗に、現実を知らされたような気がした。
(そうだ、このままじゃ、二人とも死んじゃうんじゃないの!?)
「ちょ、ちょっと、あなた、大丈夫なの!?」
「大丈夫なわけがねぇだろ。ホンモノが目一杯の力込めて、自分の番を取り戻そうとしてんだぞ」
「どうしたらいいの!? このままじゃ、わたしたち二人とも死んじゃうんでしょ?」
「だからさっさと星法を使えってんだよ。……何だよ、本当に使えないのか?」
「……だって、本当に、今まで教えられたことも使ったこともないんだもの」
「いや、だっておまえ、おれの傷治したじゃねぇか」
「その時はそのとき! 火事場の馬鹿力ってやつよ!」
マジかよ。ボソリと彼が呟いて、大きな大きな溜息を呟いた。先ほど人の姿を見たからか、その仕草の人間味が気にはなるものの、違和感はない。
「しゃーねぇな」「うきゃっ!」考えているところで急に馬の姿から人の姿になるものだから、同時に抱えられ方も変わってしまい、落ちそうになってルーチェは悲鳴をあげた。また舌を噛まなかっただけよかったが。
「いいか、星法の使い方はイメージだ」
そう言って彼女をしっかりと地に立たせて、右手を火球へと向けさせた。
男の骨張った指が、ルーチェの細い指をたどる。今まで怒ったように吼えながら喋っていた人物と同じとは思えないほどに、ゆったりと、静かにかすれた声が、じんわりと浸透する。
「この指の先に、無駄なく星力を集めて、あの火球を押し返し、ペガサスを追い返すんだ。できるだろ」
「できるだろ、って……そんな、簡単に」
「大丈夫だ。おまえ、何も知らないくせにおれのケガを治したんだ。自信を持てよ」
そんな場合でないことはわかっているのだが、耳から入ってくる男の声は、落ち着かせながらもどこか胸の奥をつついてくるのだ。
ああくそ、と大きく頭を振って、ルーチェは気持ちを切り替えた。頬が熱いのは興奮しているせいである。
目の前の火球を、押し返すのだ。同時に、それを打ってきたペガサスを追い返す。
(……よし。女は度胸!)
ひとつ意識をして大きく深呼吸し、もう一度、しっかりと地を踏み締めた。
人差し指と中指を揃えて、火球へと向ける。
指先に、いつも『おつとめ』でするよりも慎重に、繊細に、力を集めていく。
光が小さく小さく指先に集まってきた。
(だめ。……まだ、足りない)
このまま放っては意味がない。力が余すところなく指先に集中するように、さらに力を込めた。
じわ、と頭皮から流れた汗が耳の裏を通って首筋へと流れる。そんな些細なことで集中を乱されそうになる。
ああ、くそ、と焦りそうになる度に、後ろから耳元で「焦るな、大丈夫だ」と繰り返して、今度はそちらに意識がさらわれるのだから困ったものだ。
三歩進んで二歩下がるを地でいきながら、集中して星力をためていった。
小さな小さな木の実ほどだったものが、やっと、ひと抱えほどになったのは、男が展開した防御壁に細かくヒビが入った頃合いだ。かなりギリギリである。
「よし、これを一気に撃つぞ。……できるな?」
耳元から聞こえてくる声にもわずかに慣れができていた。
力強く頷いて、けれど視線はそらさぬままに、もう一度力を込める。今度は自分からいっせいに飛び出ていくイメージで。
男の手がルーチェの手を覆い、身体を固定したとき、それを勢いよく放つ!
「いっっっけ────!!」
*
「はぁ、はぁ、はぁ、…………つっっっかれたーーー!」
ルーチェの放った光は、火球を爆散させたのち、そのままペガサスに当たって彼を吹っ飛ばした。どこまで飛んだかまではわからないが、しばらく待っていても現れないということは今は大丈夫なのだろう。
大の字で地面に寝転ぶ彼女の横に、男が腰を落とす。
「やったな、やっぱりできるんじゃねぇか」
「勝手なこと言わないでよ。わたし、本当に、あんなふうに星の力を使うの初めてだったんだから」
「に、しては堂に入ってたぞ」
にやり、と笑ってくる。そんな仕草は、なぜか村の小さな子供たちを思わせるような雰囲気だった。
あの祭壇の時から彼女は言いたくて言えなかったのだが──まずそんなことを言える状況ではなかった──、随分とこの男、顔に似合わず口が悪いし態度も悪い。彼に見惚れていた事実さえ消したいような気になってくるほどには、幸か不幸か、ルーチェは男の容姿に見ようとする夢の一片さえもなくなっている。
「ところで、聞きたいことがたくさんあるんだけど」
「ん? まぁ、ちょっと疲れたしな。いいぞ、何が聞きたい?」
「あなた、いったい何者なの?」
男はそこからだよな、と納得したような笑みを向ける。
「おれは一角獣だ。ペガサスと似て非なるもの、ってとこだな」
ラプカス? とルーチェが首を傾げると、彼はその美貌を冷たくしながら「地に落ちた馬鹿者ってことさ」と肩をすくめて答えた。
人間味にあふれているくせに固くとざされたその表情に、ルーチェは触れてはいけないのだと理解する。整いすぎた容姿があちらとこちらに線引きをしてしまったのだ。まだ逃げながら会話をしていた時のほうが距離感が近かった気がするのはどうしてだろうか。
「じゃあ、せめて名前を教えてよ。ラプカスって、あなたの名前じゃないでしょう?」
しかし、だからといってそのままにしておくのも癪だ。彼女は人の痛いところを触れないだけの心遣いはあるが、少し回り道してでも相手に近寄ろうとするだけの気概を持っている。
男は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしてから、先ほどの自嘲を隠して笑った。
「名前な、久しぶりに聞かれたよ。おれはグラヴィエだ」
「グラヴィエね。わたしはルーチェ。よろしく」
挑むような笑顔で手を差し出すと大人しく握手をしてくれる。こういうところの人間としての常識はあるのだな、ペガサス──いや、ラプカスのくせに。と、そこまで考えたところで、彼女は思い出した。
(……そういえば、逃亡中でゆっくり聞くことができなかったけれど、色々とわからないことばかりを言ってたんだよね……)
「ねぇ、グラヴィエ。あなたがさっき言ってた、番とか、おれに触れたからどうのこうのって、何だったの?」
「そういや、おまえって【星乙女】のくせに全然知らなかったよな。なんだ? イマドキの人間って、そのあたり教えてねぇのかよ」
ぶつぶつと文句を言っているようだったが、疑問には答えてくれるようで、「とりあえず、村の方を見に行ってみようぜ」と、一度立ち上がってから、ルーチェの腕をとって立ち上がらせてくれた。
逃げているときは必死で周りを見る余裕なんてなかったが、気がつけば、村から離れたところまで来ていたのだ。周囲に家々の明かりのない場所なので、空を二分する大きな河の雄大さがよく見えている。
グラヴィエの力に逆らわずに立ち上がって、二人は村へ向かって歩き出した。
隣に立つとよくわかるのだが、この男は本当に背が高い。一歩の広さが自分とは全然違うなと、少しだけ早足になりながらついていった。
十分ほどをかけて歩いて、やっと辿り着いた村は、全てが止まっていた。
家から空を仰ぎながら出てくる人、窓から外を窺いながら目を見開いている人、教会の大扉を開けた体勢で止まっているミュシャ、そして、ルーチェを引き留めようとしたらしい状態で固まっている司祭。篝火さえも、火の粉を舞い上げた状態でとどまってしまっていたのだ。
触れても、冷たい、無機質な感触が返ってくるばかり。
「……どうして、こんなことになっているの?」
いくらルーチェが気が強いといっても、ずっと暮らしてきた村が、顔見知りの人々が、機能を停止している様は胸に痛いものがある。絞り出すように出した疑問に、グラヴィエは「それが地脈の能力だからな」と腕を組んで仁王立ちしながら、司祭を見て言った。
「任期の間、厳しい戒律を守らされなかったか?」
「戒律? ……うん。『朝晩は聖殿で禊を行うこと』『あまり肉をとらずに野菜中心の食事にすること』『みだりに異性に触れないこと、近づかないこと』……」
「それだよ」「……え?」急に入ってきた彼の言葉に、今なんて言ったっけな、と、戒律の内容を思い浮かべている彼女を放って、グラヴィエは言葉を続けていく。
「そもそも、【星乙女】ってーのがある意味生贄なんだよ。天脈に繋がるペガサスに、地脈に通じた人の子を捧げてつがわせ、新たなペガサスを産ませるんだ」
「は? え、どういうこと!?」
「あーやっぱり知らされてないんだよな。教会関係者だったら知ってんのかぁ? でもこのままじゃ聞けねぇしなぁ」
今まで一年間務めてきた役目を、急に『生贄』と言われたのもそうだが、それ以上に、『新たなペガサスを産ませる』というところに驚いた。咄嗟に上がってしまった声に、困ったような顔で司祭をこつこつと叩きながら彼は続ける。
「一年の任期っていう期間は、ペガサスにとっちゃ見合いと婚約期間なんだよ。それで気に入らなければ晴れて役目の交代。気に入れば【星祭り】の後に攫っていってつがうんだ。新たなペガサスが生まれて村の守護者として立つようになれば、その前のペガサスは番を連れてどっかに行くらしいしな。この儀式も、いわばペガサスとの結婚式さ。新郎が来るか来ないかわからないってだけのな」
そこで少し溜息をついて、大丈夫か? とルーチェの方を気遣う。混乱してはいるが、その先の内容は知りたいと、重い頭を動かして首肯した。
「戒律の『異性に触るな』ってーのは、もしつがうと決めたオンナが他のオトコに触れて、そいつの色や匂いがついたら不快なんだとさ。あいつらケッペキだからな。そんなことになったら目も当てられない」
「え、じゃあ、わたしって……」
「そう。ケガしたおれに触れただろ? あれでおれの力の欠片とか星の流れとかが移ったんだ。で、あいつはやっと今日あんたを妻どいしようと意気揚々としていたってーのに、あんたが打ち上げた力にはいつものあんたの星力とは違うものがあった。だから激怒して追ってきたんだよ」
「──じゃあ、そのせいで村もこんなになったっていうの!?」
「まぁ、そうっちゃそうだな」片手で後頭部をかき混ぜながら言葉を続ける。
「そもそも死者って一度地に還ってるから地脈の力が強いんだよ。それを【星乙女】が打ち上げて、天脈の翼を持つペガサスが導くことで空の河に上がれるんだ。でも、あんたの力がおれに触れたことで不安定になって、ペガサスもキレて使いものにならなくて落ちてしまったからこうなったんだよ」
基本的な話をすると、地脈は負のエネルギーを、天脈は正のエネルギーをそれぞれ担っている。天脈がきちんと廻ることで世界はまわり、地脈がしっかり息づくことで人々は憩い休めるのである。
それが今回、ルーチェが打ち上げた地脈の強い魂が、導かれずに地に落ちた。その場に負のエネルギーが溜まったのだ。──そのために、全ては機能を停止せざるをえなくなるという事態に陥ったというのが、今回の事件のあらましだった。
「……なに、じゃあ、村がこうなったのって、わたしのせいじゃない……」
顔色を真っ青にして、ルーチェはふらふらと地に膝をついた。自分が気軽にしたことが最悪な結末をもたらしたことを、ようやっと理解したのである。
「……そうかもしれんが、これに関しては、きちんと説明してないやつの問題もあるからなぁ。まぁ、理由は……『生贄』が嫌で逃げた乙女がいたとか、そんなところなんだろうがな」
「どうしたら……」「ん?」はらはらと涙を流しながら、呆然と言葉を紡ぐ。
幼い頃から育った村だ。儀式のときの神父の言動は許しがたいものではあったが、今までにない出来事で彼も混乱に振り切れてしまっていたのだろう。家族はすでに亡いが、この村が、ずっとルーチェを守って育ててきてくれたことは間違いではない。
それを、己の行動で全てをとどめてしまったという、あまりにも大きな罪に、彼女は打ち拉がれていた。
「どうしたら、村を元に戻すことができるの? 今からペガサスのところに行けばいい?」
どうにかしたいという意識のままに出た言葉に、「無理だ」と一言で返されて、また彼女の心は悲鳴を上げる。
「地に落ちたとしてもペガサスがいりゃ、まだどうにかなったんだ。でもあいつ、怒りで我を忘れちまった上に、今この地域にいないんだよ。だから、ここがこうなってんだ。……おれも、どうしたらいいのかはわかんねぇけど、多分、あいつはまたあんたを追ってくると思うぞ」
「じゃあ! そのとき、ペガサスのところに行ったら、村は戻るの!?」
「いや、わかんねぇって! そもそも、あいつらって、そこにいれば番が来るっていう前提があってとどまっているだけだし、そのときの気分で、別のところ行くかもしれねぇし」
ペガサスさえいればどうにかなると思ったのだが、現状として、村の守護者として戻すのにはかなり難しいようだ。対話ができればいいのだが、一年間かよっていたときも会話なんてしていない。どうすればいいだろうか。
そう考えているところに、「教会関係者だったら何かわかるかもな」という声が届いた。
瞠目してグラヴィエを見ると、わずかに迷いながら、ルーチェの前に座って視線を合わせてきた。
「さっきも言ったように、【星乙女】とかそのあたりに関しての事実を隠しているのは奴らだ。もしかしたら教会……そうだな、大神殿とかに行きゃ、何か掴めるかもしれんぞ」
「行く!」
「あ、ああ……? いや、もうちょっと考えて、」
「行かなきゃ、とりあえず動かなきゃ、何も変わらないでしょう? こうなったのはわたしのせいでもあるんだから、何か一つでも縋れるものがあるのなら、しがみついてでも真実を詳らかにするべきよ」
気合を入れて立ち上がったルーチェを見開いた目で見ながら、グラヴィエはもう一度、頭をかき混ぜた。どうやら、考えをまとめたり結論を出したりするときにする癖のようなものらしい。
「しゃーねぇな。おれも一枚噛んでるしな、一緒に行ってやるよ」
「本当? ありがとう! 実は村の外に出たことがなくて、不安だったの」
満面の笑みでグラヴィエに礼を言った後、彼女は駆け出した。村の外に出るのなら、旅の準備をしてくると言って。
「あ、いや、もう朝が来るぞ。一度身体を休めてからのほうがいいんじゃねぇのか?」
言われて見てみると、空は朝の様子をたたえて風を動かしていた。明星が輝き、東の空からの色の染め変わりを、昨日と同じように魅せる。
そうか、もう、一日たったのか。ルーチェは口中で呟いた。
【星祭り】の当日だからと、大きなカゴを抱えてペガサスの許に足を運んだのはちょうど一日前。あれから、まさかこんな翌日が訪れようとは考えもしなかったことである。
「ううん。こんな状況で眠れないし、何より、始めようと決めたんだから、なら、動き出すのは夜明けがいいわ」
薄青の瞳に決意を宿して、ルーチェは言葉を紡ぐ。その瞳の色は、陽の光がまだ縁しか見えていない時間帯の、東の空を映したようだ。そう、まさに夜明けの。
グラヴィエは休ませるのを諦めて、なら早く準備してこいと声をかけた。
彼にも自分のせいだという意識はある。そのために、少しでも彼女を守る必要性から、あのとき自分の番だと宣言したのだから。
守ると決めたのなら、彼女の心の動揺も重要と考えるべきだろう。
そう自分の心に納得させた男に、旅の準備をして少女が駆け寄ってくるのは、思ったよりも早かった。
そして、真実【星乙女】たる彼女は唱える。
今まで何度も言葉にしながら、未だかつて自分に向けて言ったことのない言葉を。
今回だけは、先行きが不透明なこの旅の、二人の無事を祈って。
──グース・ヴァルト・マータ!
(どうか我らの行く先に、良き星の導きのあらんことを!)