お嬢様と別荘
夏季長期休暇が始まるや否や迎えに来た馬車に揺られ、身の回りの品を詰め込んだ鞄と共にお嬢様のところへ向かった。
馬車から眺めた別荘は当然のように大きく、傍らに見える小規模な森林の他に、近隣には湖もあるという。
新鮮な肉や魚での料理も絶品だと嬉しそうに教えてくれた、お嬢様の弾んだ声を思い出す。
乗合馬車で向かうと告げた時の、「迎え一つ寄越さないと思われていたなんて」と拗ねて見せた態度も、その後の悪戯な笑顔も連鎖的に脳裏へ浮かんできて、思わず馬車の中で笑ってしまったのは内緒にしておこう。
「ようこそ、私の大切な別荘へ。楽しみにしていたのよ。」
玄関で出迎えてくれたお嬢様の声は、学園よりも明るく聞こえた。
初日は到着したのが午後だった事もあり、別荘の案内が済んだ後はお茶の時間になった。
幼い頃は半年以上を此方で過ごしていたとか、周囲に何も無いから気にせず練習が出来るとか、お嬢様の言葉も表情も、いつもより浮かれていた。
「此処はね、私のお気に入りの場所なの。個人的なお客様は、貴方が初めてよ。」
朗らかに笑うお嬢様曰く、安心して過ごせる数少ない内の一つで、使用人も昔から勤めているものだけだという。
どうやら長年の付き合いや絆といったものが、お嬢様と使用人たちの間に存在しているらしい。
使用人の柔らかい視線や杓子定規ではない言動からも、お嬢様が好かれている事が窺えた。
学園で毅然とした態度を崩さなかったのは、派閥とのやり取りや、取り巻きが起こす周囲とのいざこざや、立場というフィルターを通して見られるストレスを見透かされない為でもあったのだろう。
ストレスから解放されたお嬢様が、此処ではすっかり肩の力を抜いているのも納得出来る。
長時間の移動で疲れているだろうからと、夕食後は早々に客室へ引っ込ませてもらった。
大体のものはあるから最低限で良いというお嬢様の言葉に甘え、持ってきたものは山積みの課題と、僅かな私物のみ。
おかげで荷物整理をする程でもなく、柔らかいベッドに寝転んで睡魔を待ち構える余裕すらあった。
閉ざした瞼の裏に、見聞きした情報を取り留めもなく浮かべていく。
豊富な水源と緑地、訓練の行き届いた使用人、質の高い警備、どれもが雲上人である事を示している。
遠くに眺めるだけの存在が、手を伸ばせば届く距離で笑っている。
奇妙な感覚を追いかけるか、睡魔を呼び寄せるか、悩むのも馬鹿らしく思えて思考を打ち切った。
別荘に来て最初の朝は、お嬢様のノックから始まった。
朝の挨拶と自室への招待を同時に告げられ、疑問で返した私は寝惚けていなかったと思う。
朝一番に身体を動かすのが日課なのだと、爽やかに告げられた。
後ろに控えていた使用人から運動用にと渡されたのは、上質ながら簡素な服。
素直に着替えてお嬢様に着いていったので、やはり私は寝惚けていたのかもしれない。
翌朝からは着替えてお嬢様の部屋へ向かい、一緒に運動するのが私の日課になった。
朝食の時間に使用人が呼びに来るまで続くお嬢様の運動は、身体と魔力のどちらも鍛えるものだった。
魔法の基礎を担当する家庭教師から、バランス良く伸ばすと相乗効果が期待できると教わったらしい。
運動時間の最後に汗を拭う桶の水も、魔力を調整する訓練だからとお嬢様が満たしている。
実は細かい動作が苦手なのだと知ったのは、何度か失敗して床を水浸しにしているから。
耳目を集めるお嬢様だからこそ常に気を張っていたようで、二人お茶会ですら失敗を見た覚えが無く、貴重な新事実だった。
水の塊が破裂して二人ともびしょ濡れになった時は、慌てるお嬢様という珍しい姿が見られた。
軽くと言いながら立派な朝食を済ませ、午前は課題の山を崩す時間。
課題が発表された日から手をつけているお嬢様は、休暇に入る前の時点で既に終えたものもあると言っていた。
休暇を楽しむ準備でもあるからとお嬢様に勧められ、私も幾らかは済ませた状態で夏季休暇に臨んだ。
それでも終えている量に差があるため、お嬢様は終わらせている課題に私が取り組む時間がある。
隣で自分の勉強しながら私の様子も見ているお嬢様は、どんな質問だろうと投げ出さず、分かりやすく噛み砕いた説明やヒントをくれた。
「貴方の知識も理解も、十分に足りているようなのに…どうしてかしら。」
私の手が止まる部分や苦手だと言った課題を眺め、教師陣にも気づかれない事をお嬢様は不思議がっていた。
晴れた日の昼食は、ピクニックに変わったりもした。
丁寧に手入れされた庭園の一角で、お嬢様の好きな花や草木の事だったり、一緒に出掛けたいと目を輝かせるお気に入りの場所の事だったり、沢山の事を話してくれる。
私の好きな植物も植えようと提案されたものの、咄嗟に思い付かず辞退したところ、「それなら庭園の案内も兼ねてお散歩しましょう」と寧ろ喜ばれた。
お嬢様は世話好きなのか、こうして私に思いがけないプレゼントをくれる事が度々ある。
それらがプレゼントである事すら気がついていないようなので、このくすぐったさも秘密にしておく。
増えていくばかりの私の秘密は、いつかお嬢様に話す日が来るのだろうか。
午後は日替わりで、お嬢様が入学前から教わっていたという家庭教師による時間。
魔法や精霊に関する座学や実技、マナーやダンスレッスン、世界情勢や他国に関する講義だったりと、内容は多岐にわたる。
付け焼き刃でしかない私のマナーは、実際に学んでみるとかなり粗が目立った。
躾がなっていないと指摘された理由も、こうして一つ一つ教わると良く分かる。
上流階級の基礎を学べるまたとない機会なので増やしてほしいと頼んでみたところ、すんなりと許可が下りた。
それも何やら嬉しそうだったので、もしかするとお嬢様は、私が思っている以上に頑張って目を瞑ってくれていたのかもしれない。
おやつやデザートにこそ力を入れているのも、この別荘の特徴らしい。
お嬢様の好みを把握している料理人による数々の甘味は、いつでもお嬢様のテンションを容易く上げる。
別荘に着いてからお嬢様がずっと上機嫌に過ごしているのは、おやつが理由の半分を占めているのではと邪推する程で、あながち間違いではないとお嬢様も使用人も一緒になって笑った事がある。
誰に聞かれる心配も無い環境は、本当はお喋り好きだと打ち明けてくれた通りにお嬢様を饒舌にして、屈託のない笑顔を増やしてくれた。
「この毎日に、慣れてしまいそうです。」
お茶の時間にそう告げたところ、お嬢様は良く分からないとでも言いたげな考え込む表情をして、珍しく返答に時間を要した。
「…慣れれば良いのではなくて?」
漸く導き出したお嬢様の結論に、笑ってしまった。
慣れてしまってはいけないものもあるのだと、お嬢様は知らない。
私の態度に疑問が深まったお嬢様の追撃により、お茶を飲み干してお代わりをする間、市井の暮らしと贅沢品について話し合う事になった。
お嬢様にとっては接する機会の少ない話題だったようで、甘味の話題の次に食いつきが良く、近々二回目が開催される事が決定した。
温かな夕食と気合の入ったデザートで満たされた後は、一日の終わりを飾る贅沢である、大きな湯船と清潔な寝床が待っている。
着いて数日しか経っていないというのに、お嬢様の客人である私も丁重に扱われるものだから、贅沢な暮らしを覚えてしまいそうな危機感を早くも抱いている。
毎晩新しいお湯を使い、清潔なタオルと衣類を使用して、しかも洗濯もしないなんて、休み明けに訪れる日常を考えたくない。
水浴びに慣れ切ったこれまでとの落差を考えながら割り当てられた客室へ戻ると、意外な訪問客が扉の前で待っていた。
使用人の姿も無く、ネグリジェに一枚羽織っただけのお嬢様と、手ずから押してきたのかもしれない、ティーセットの載ったワゴン。
朝の日課に初めて誘われた時と同じ疑問で返した私に、お嬢様は照れたように笑った。
「寝るまで、少しお話してくれないかしら。」