22.小さな箱庭
「入るぞ」
ドアをノックしてからそう言うと、僕はガチャリと少し雑にドアを開ける。
キーキーとそれは調子の狂った甲高い音を立てて、店の雰囲気を彩って醸し出していた。
年季が入っていて、それはもう充分といっていいほどには役目をこれまでに果たしてきたのだろう。だから、物が老いてきたのだ。
僕は潜り抜けるようにして部屋の中に入り、中を見渡した。
少しカビ臭い気がする。
そんな湿っぽい臭いを鼻から吸うと、ドシドシと足を乱暴に動かせて、目の前にあるソファーと謎の物体の方へと赴く。
その謎の物体はモゾモゾと動き、何処か退屈そうな目をしてこちらを見ていた。その姿はだらしがない。
僕はその謎の物体を見るなりため息を吐くと、それに軽くチョップを入れる。
すると、すぐにその謎の物体は苦痛そうな表情を浮かべて頭を押さえながら蹲った。どうやら、痛覚があるらしい。
そうして、その謎の物体は急に立ち上がると、涙目になって僕に抗議をした。
「い、痛いよ、善君」
「なんかそれ、演技くせえな。僕はかなり加減したはずだ。まあ、本当に痛いんなら謝るよ。悪い」
と、僕は一言詫びを入れると、くるりと身体を半回転させて、桐勢に背を向けた。
暫くすると、桐勢が何かに向かってダイブするかのような体勢で僕の足首を勢いよく掴み、僕に突進を喰らわせる。その反動で僕はよろけてもたつき、ずるりとその場から滑り転んだ。
僕はプロレスごっこをやりに来たわけじゃないんだから勘弁してくれよ。
という感想を心に持つと、ついた足枷を手で追い払い、倒れた身体を上半身からそうっと丁寧に起こす。
傍から見たら、何か如何わしくてイケナイことをやっているようにも見えてしまうが、人が僕と桐勢以外いなくて助かった。と、胸を撫で下ろす。
割りとジンジンとした後からくる痛みが僕の膝についてまわるが、この程度ならこの前の犬に噛まれたときよりはよっぽどマシであるために、僕は平然とした態度で息を整える。
疲労感があまり押し寄せてこないことだけが救いか。
そんなことを思うと、また僕は桐勢の方へと身体を向き直した。
「で、今日は何しに来たの?」
「何かをしに来た」
桐勢が声を弾ませて嬉しそうに言うので、僕はちょっと意地悪そうに短く言葉を済ませる。彼女は鼻歌混じりな感じで少し気持ちが浮ついているようだった。
僕はというと、とても不機嫌そうな顔になっているのだろうと思う。多分、そうだろう。
僕は桐勢の顔をじっと観察するかのように見て、さて、どうしたものかな、と少し悩ましげに頭を働かせる。ただし、効率……頭の回転はとても悪いだろう。
それは痛みのせいだとか、そういうわけではなかった。
多分、これから僕は言いにくいことを話さなければならないから、少し気持ちが怖じ気づいているのだろうと思う。
そこまで身体を竦ませることはないのだが、どうにも心というものは言うことを聞いてくれないものらしい。自分勝手だ。
そんな心を責め立てるようなことを思うと、言い始めるタイミングを見極められそうになかったが、やっとの思いでポツリポツリと言う。
「ああ……そうだな。その、今日は店を休みにしてさ、お祖父さんのお見舞いに行かないか? あの、さ。こんなこと僕が言ったり付き添ったりするなんて迷惑かもしれないけどさ。でも、そのお祖父さんは桐勢にとって恩人なんだろ? だから、僕は桐勢の『友達』としてお祖父さんを一緒に見舞いたい」
「えっ、でも……」
「いや、図々しいお願いだってのは承知しているんだ」
桐勢が戸惑っているような口ぶりで一つ言葉を漏らすので、僕は強く言葉を付け加える。
強引で乱暴で我儘ではあったが、これは自分がそうしたいと思っている故のことなのだろう。
それに、お祖父さんには、美咲さんと昔あんなに遊ばせてもらったのだから、僕だってお礼を言いたい。そう、僕のこれはべつに適当にそう言っているわけじゃないのだ。
理由があり、伝えなければいけないことがある。そう、だからこれは自然だ。何もおかしいことはない。
強いておかしい箇所を挙げるとするならば、多分、僕の寝癖がくるりんくるりんとまるで女の子のように物凄くカールしていることくらいだろう。とりあえず、僕はそろそろ床屋なりでも行って髪を切ってもらった方がいいと思う。
部活動をやっていた頃は短髪であったが、不貞腐れて以降、僕は面倒くさがって髪を切らずにいた。だから、ここまで酷い寝癖ができるのだろう。と、思った。
頭髪が坊さんみたいにツルツルになるのはなんとなしに嫌である僕ではあったが、ちゃんと僕にも髪が短い時期だってあったのだ。むしろ、今まで生きてきた人生の中で考えると、髪が短かった時期の方が長いくらいだ。
僕は寝癖を少し気にしつつ頭を斜め四十五度くらいに下げると、桐勢に向かって乞うような体勢をとった。
「わかったよ……」
そう消え入るような声で桐勢は言って、優しげに微笑んだ。
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面会時間内にお祖父さんのいるところらしい病室にへと辿り着く。
掛かっていた名札を見て『沖浦漢二様』と書かれていたのを確認する。どうやら、美咲さんの名字は『沖浦』だったらしい。『浦』はちゃんと合っていたようだ。
僕は確認し終えると、少しばかし深呼吸をして、桐勢と共に病室の中へと入る。
病院では騒ぎ立てたりしてはいけないので、なるべく僕らは音を立てぬように静かに行動をしなければならない。それは掟というかマナーであった。
「おじいちゃん、久しぶり……」
そう桐勢が恥ずかしそうにして、お祖父さんに向けて一つ言葉を言う。桐勢の目には涙が溜まっていて、なんだか少し赤く腫れてきているような気がした。無理もないと思う。
僕はそんな桐勢をただただ見守るようにしてそこに突っ立っていた。
「あの、僕……私は桐勢……椚さんの友達で、小さい頃には美咲さんにもお世話になった者です。僕は今日、お祖父さんにお礼が言いたくて来ました」
僕はしっかりとお祖父さんの方を見て、ハキハキと自分が何故ここにいるのかという経緯を話す。
敬語というものは如何せん苦手であったし、正直知らない他人が見舞いに来るなど明らかに場違い感があって無礼であると思うが、僕は怯まずに目を見開いていた。
僕は内心、国語や人間関係というものをもっとより深く学んでおけばよかったな、とは思えども、その後悔をすぐに振り払って前を向く。後ろばかり向く必要なんてない。
白い室内、無臭で清潔感溢れる空気。そういった造りをしている小さな箱庭の中に僕らは今いる。
それは派手さや奇抜さやおかしさや面白さを求める人からすればつまらないものかもしれない。でも、人はやがてこの箱庭へと運び込まれていくのだ。
そうして、段々と生気を失っていき、いずれ萎れて空っぽになるのだろう。そう考えてみると、僕は怖かった。恐ろしかった。
僕は小さい頃、死というものが怖かった。だから、僕は永遠に生き続けたいと思っていた。
死んだら、僕の目の前の世界はどうなるのだろう。思考は? 僕の身体は?
そんなことを夜更けに考えて、大泣きして、僕はいつも姉さんや母さん、父さんを困らせていた。
だけど、歳を重ねる毎にそれは段々と薄れていった。そりゃ、僕らは生きているんだもの、いずれはそういう瞬間だって訪れるのだ。そう自分に語りかけるかのようにして、自分の心に納得をさせていった。
それなのに、何故かまたその恐怖が僕の中を蠢いていて。
「ああ、久しぶり。あ、それと、そこのキミ、そんなに畏まらなくていいよ。ほら、そこの椅子に腰を掛けなさい」
そう、お祖父さんに促されるので、僕は「すみません。では、お言葉に甘えて」と言うと、丁寧な動きで椅子に座った。
硬めの椅子ではあったが、ちゃんとしっかりしているようだ。
「今日は不思議なことに、お客さんが多いなぁ。さっきまで、美咲も来ていたんだよ」
お祖父さんは僕らの方を見てニコリと笑うと、嬉しそうに呟いた。
僕もいずれはここに運び込まれて、こういった様子で人を迎え入れることができるのだろうか、と寂しげに疑問を覚える。
今はまだ全然幼い。心が。心の持ちようが。
でも、僕はいつか。いつの日にかはこういう風にちゃんと死を受け入れて、旅立つ準備をしなければならない。
僕に、できるのか?
心にできた深い深い暗闇に溺れていくような感覚に陥ると、僕は膝に置いていた両手にギリギリと力を込めて震わす。
恐怖とはもう慣れ親しんだ。今更、怖がる意味なんてない。
「椚、元気そうでよかったよ。そして、そこのキミ。こちらこそ美咲がお世話になったね。あの娘は、やんちゃだったから」
そう言って、お祖父さんはまたニコリと微笑む。その微笑みにはあたたかな温もりが存在していた。
「そうだ、椚。私から最期のお願いがあるんだ。お前の力を使って私の八十年以上もの記憶を全て保存してくれはしないか?」
「……うん、わかった。いいよ」
お祖父さんのその言葉の余韻が僕の心にまで響き渡ると、桐勢は涙を拭った後に小さく呟く。
そうして、桐勢はお祖父さんの額の近くに両手を翳して力を発動させる。病室には他に患者さんもいないので、迷惑にはならないだろうと思う。
未だに馴染まない、青白いうっすらとした光や波動のようなものがそこらに広がって僕らを覆いつくす。そうして、暫くしてそれらが徐々に引いていく。
「ありがとう……」
お祖父さんがそう言葉を残すと、僕らの方を向くようにして静かに眠りについていった。
きっと、記憶を保存させた理由は、死んだ後でも自分に起きた出来事や関わった人々のことを忘れないといった、そういう理由なのだろうと思う。
美咲さんを忘れない。桐勢を匿ったことも忘れない。過ごしたたくさんの日々を忘れない。
きっと、そういうことだ。
だって、お祖父さんが生きてきた中での記憶は全部全部大切な大切な宝物だからだ。
「帰ろうか、桐勢」
「……うん」
僕らは短くそう呟くと、静かに病室を出た。
これは、それからして暫く経ったある日の話なのだが、お祖父さんは容態が急に悪くなり、日に日に顔色が青ざめていって、そして静かに息を引き取ったそうだ。




