20.静かな怒りとティータイム
彼女に「座って待て」と言われてその言葉に甘えてはいたけれど、暫くして自分も部屋を離れ、彼女の元へと近寄る。
僕があの場を離れてしまうと、初対面同士のあの三人の間には沈黙の時間が流れてしまうだろうが、それよりも僕には彼女に訊きたいことがあった。だから、足が動いたのだろう。
適当に「ちょっと昔のこと訊いてくる」と言って気まずそうにあの場を飛び出したはいいが、よくよく考えてみると、これはまずい決断だっただろうか。
「お、どうした?」
水蒸気……白い湯気が僕らを包み込むかのように辺りにふわりと広がり、そろそろ火を消そうかといった状態らしい彼女が、僕の方を見て僅かに驚きを表情に表しながら訊く。乾いていた空気がこの場に来た途端に潤いのある瑞々しい空気に変化したのは、湯を沸かしていたからなのだろう。
ただ、その光景に少し不可解な感覚があった。
それは何故だろうか。気分の問題? いや、多分そんなことではないのだろう。
何かがおかしい。それはわかるのに。
僕は胸の奥底の方で生まれた不思議に、疑問を抱いた。
「あのさ。その、急に話題がスパリと切られたからさ。もしかしたら、僕だけに話したいことがあったんじゃないか、って。それが、本題なんじゃないか、って」
思考の糸が複雑に絡まって頭が真っ白に染まり、全くと言っていいほど上手く言葉が出せなかったけれど、なんとか僕は断片的に言葉を捻り出す。
これは図々しくて厚かましくて、それでいて自意識過剰なことなのかもしれないが、念のために訊いておく。不安を放ったままにしておくのは、怖い。
それに、あのときの彼女は一見すると普通のように見えたが、昔から親しくしてもらっていた僕だからわかることなのかもしれない。彼女の様子は変だった。会話の切り出し方が不自然だった。
だから、僕は見てみぬフリをするのはもう嫌で、そんな自分に別れを告げたかったから、一歩ずつ彼女の心の中へと歩み寄ろうとしているのかもしれない。
だけど、これは遅い。今更である。もっと早くから、そういう決心をつけることなんてできたのだ。機会だってあんなにたくさんあったのだ。
だから、貧弱で脆い――。
「……そんなことないよ。……そんなわけ、ないだろ」
彼女は虚ろな目をして弱々しく、しかし、言葉の終わりに若干の怒りと悔しさのようなものが含まれた言い方で僕に言うと、そっぽを向いて点けっぱなしにしていた火をそっと消した。
よく見れば、彼女の身体は少し震えているように思えた。多分、僕が感じた不思議はこれなのかもしれない。
僕はしゅんとした感じで項垂れて、そこに佇んでいると、やがて彼女はシッシッと手で僕を追い払うような動作をしたので、僕は大人しく元の部屋へと戻っていった。
部屋に戻ると、涼介と高島がおどおどとしながら上擦った口調で桐勢に話しかけていて、それを桐勢が(心の内でその様子を楽しむかのようにして)ニヤニヤと笑っていた。
「えっと、涼介。お前、緊張してんの?」
「あ、あ、当たり前だろ! そ、そのよぉ! 男っていうもんはそういうもんなんだぜ!?」
「あー……そっか。まあ、そこまで緊張する相手じゃないから、気楽にしてりゃいいぞ。直にこの感じも馴染んでいくと思うし」
と、僕は涼介の如何にも人見知り感溢れる答えを適当に流しつつ、瞼を閉じてぐっすり眠ろうとしていた。
部屋の中が暖かい影響からなのか、なんだか眠い。頭の中がぼんやりとしていく。
なんというか、なんなんだ。
疑問に思って結局結論が出てこない。これが睡魔という悪しき虚像のモンスターなのか。
と、僕は少し寒くて痛々しい一文を完成させると、慌てて自分の頬を一抓りした。
ぐっ、痛い。痛みが口の中にまで走って駆け回る。どうやら、加減というものを忘れてしまったらしい。
僕は眠気で意識が混濁していたが、その痛みでなんとか持ちこたえる。そして、すかさず自分の身体に追撃を行う。
目をパチリと限界に達するまで見開いたり、指をグリグリと痛めつけている様は、多分、三人から見てみればトチ狂ってしまったように思われるだろうが、どうでもいい。
どうでもいい、と思うその理由はというと、さすがに他人の家で寝てしまうくらいの無礼はしたくないからなのだろう。だから、まだトチ狂ったんじゃないか、って思われた方が僕はマシなんだ……あ、どうでもいいってわけではないか。
「あれ、高島。お前も緊張してんのか? そこまで緊張するほど、目の前のお人はお偉い役職だとか、物珍しい生命体だとか宇宙人、ってわけじゃないぞ?」
「善君。なんか、その言い方には悪意を感じるんだけど……」
「ああ、それは悪い。これはクセだから気にすんなって」
どうやら、場が白けてしまったらしい。いけねっ。この物言いは反省しなければ。
たとえ、お調子者といえども、発言には限度がある。グレーゾーンもできれば避けた方がいいだろう。
僕は瞑想をするかのように過去の自分の発言を思い返して自分を戒め、そして、自分の発言の方向をくるりと旋回させて立て直しを図る。
元はといえば、これが原因で人に怒りを買わせていたのかもしれないしな。あのときのことも、もしかしたらそういうものがいろいろと溜まりに溜まって逆鱗に触れたのかもしれない。
いや、それはさすがにないかな。あくまで九割九分コイツらだけにしかふざけたりしないし、上の人となれば僕だって身分だとか礼儀だとか、そういうのは多少弁えてはいる。きっと、どうでもよくてありふれた理由が引き金になって起こったことだったのだろう。もう、どうでもいいけどね。
僕はそうやって心の中で少し強がって、未だにできていた寝癖をさすりさすりと触る。
僕は髪に寝癖が毎回酷いくらいできるので、いつも困っている。これ、どうにかならないものだろうか。
「守宮、ちょっと」
「ん、なんだよ?」
高島が小声で耳打ちをしてくるので、僕も小声になって訊き返す。
それを見て、涼介は何かよからぬことを企てているかのような笑みをする。
怖くてゾッとするので、勘弁してつかあさい。
「俺らお邪魔になっているみたいだしさ、帰った方がいいんじゃないのか? お前はさ、知らないけども」
なるほど、それで緊張していたのか。ワケがわかった。
僕は高島の言葉を聞いてすぐさま何かを考え始める。
多分、それはこの中に潜んでいる強敵をどう撃退しようか、ということだろうと思う。思われる。
強敵、は、まあ涼介のことであるのだが、こやつをどう説得して帰らせようか、というのが今考えていることである。
でも、僕の心には少し怖いもの見たさの好奇心というものが存在していた。というか、多分その好奇心は今の気持ちの大半を占めていて、ドシャッと心を埋め尽くしているのかもしれない。
だから、それが考えを鈍らせて、僕にどうしたものか、といった困惑気味の感情を芽生えさせてくるのである。
だって、涼介と桐勢の絡みは一度だけ見てみたかったからだ。
こんな機会滅多になかっただろうし、それにコイツら似た者同士感あるから、意外に相性がいいんじゃないだろうか。
そんなことを考えてはいたが、結局のところ僕は高島案を採用することにした。僕案は最終的に面倒くさそうな雰囲気をプンプンと漂わせているので、ボツということにしておこう。
「なあ、涼介~? 今から僕の家に来て、お前のマンガを取り返しに行かないか~? あっ、あっ、そうだ! あちゃー、忘れていた。今日は姉さんが早く帰ってくる日だから、早くしなきゃ。ほら、涼介。急いだ急いだ」
僕は話題の転換の仕方が下手くそすぎかよ。なんだ、この唐突すぎてわざとらしすぎてバレバレな演技は。
僕は自分のコミュニケーション能力が皆無なことにがっかりすると、頭の中にもう一人の自分を作って、そいつに自分を殴らせた。
うん、僕は絶対演劇部とかには入らない方がいいだろうな。多分、先輩方が苦笑いするだろう。挙げ句の果てには「あー……日本語が話せるのは凄いけど……」とか、フォローする箇所が見つからず、もうフォローがただの皮肉へと変化していることだろう。
僕はそうやって自虐すると、高島に助けを求めるかのように高島の方を向いて灰色の双眸をジロジロと眺めた。
「お前、下手くそかよ!」
高島が僕に向かって少し笑いながらドストレートにそう言った。
しってた。本当、すまない。
僕は今にも「あはは……」というしょうもない言葉が口から滑りそうになっていたのをどうにかこうにか抑える。
さて、これではさすがに涼介にもバレバレであっただろう。というか、コイツ察し良すぎるしな。
僕は一気に気持ちを落胆させてため息を吐くと、涼介の方に顔を向けた。
ああ、まあ、この際強引に連れ帰れりゃ、問題ないだろう。
そう思うと、すぐに涼介の服の裾を掴んだ。
「なあ、涼介。高島も僕もどうやら帰りたいみたいなんだ。それに僕らは今、迷惑をかけているんだ。だから、高島がもう帰ろうってさ」
と、僕は無理矢理な感じで涼介を説得する。
まあ、これブーメラン発言で僕はいつも迷惑をかけているから、説得力の欠片もないけどな。
と、ちゃっかり高島の本心を晒した薄情なところは捨て置いて、そんなことを僕は思う。
我ながら、僕はいっつも人に頼ってばっかりのくせに人を裏切るなぁ、と思う。なんだかそう思うと、やっぱり言い直しておくべきか、とも思ったけれどもそれもなんか変だと思ったので、言い直すことはしなかった。
それに、僕は高島に対して「いや、それくらい自分で言ってくれよ」と思ってしまったからもあるだろう。というか、多分それが決め手だろうけども。
「あ、おお。そうだな。でも、あの『お姉様』、俺らの分の茶も持ってきてくれるんじゃないか?」
「『お姉様』ってなんだよ」
涼介が僕に一つ問うが、その中の言葉がとても奇妙で気味が悪い感じがしたので、僕はササッと訊き返した。
いや、普通にあの人とかでいいんじゃないの?
僕はそう思いはしたが口には出さなかった。
「おお、なかよしさんだね」
桐勢が僕らのやり取りを見て煽るようにそう言い、僕に向けてニヤニヤと悪どい笑みを浮かべ続けているので、僕の心の中はいじけそうになっていた。
ははっ、どうも、ありがとう……。
「もっとゆっくりしていきなよ、善君?」
桐勢は顔を僕に近づけて誘引してくるので、僕はぶすっとした顔をして首を横に振った。
だけど――。
「はい、お待たせ~。これ、みんなの分のお茶」
と言って美咲さんが部屋に入り、紅茶と簡単な砂糖菓子をテーブルの上に置くので、今すぐに帰れる状況ではなくなってしまっていた。
辺りが紅茶の上品でおしとやかな香りに包まれる。
スマン、高島。
そんな言葉を高島に向けて心で送ると、僕は紅茶をズズッと軽く啜って味や香りを楽しんだ。




