10.本当の姿
彼女は笑っていた。その笑顔の裏に寂しげな気持ちを残して。
なんだか、君がここからいなくなってしまいそうな気がして。僕はそんな気がするんだ。
なんだろう、この嫌な胸騒ぎは。とても良くないことが起こるその前触れな気がして、なんだか震えが止まらない。
気のせいなのだろうか。
気のせいであってほしい。
僕の勘違いで終わらせてくれ。頼む。
僕は誰に対してかわからないが、一所懸命になって乞う。這いつくばり、額を地面にピタリとつけたその醜い姿は、まるで命乞いをしているかのようだった。
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今日は、悪夢にうなされて飛び起きたか。
目覚まし時計が六時を指しているのを横目にしながら、僕は眠たそうに欠伸をする。そして、部屋が就寝中にすっかりと冷えてしまったのでストーブを点け、それから考え事をする。
人生において、べつに悪夢を見ることなど別段珍しいことでもない。むしろ、ストレスを沢山溜め込んでいる人間ならば、しょっちゅう見るものかもしれない。そして、悪夢は夢であり、現実の自分にはさして影響は少ないと思うので、頻繁に見でもしなければ別段悩むことでもないのだが。だが、それでもだが。僕は何故か心の何処か奥底にある何だかわからないモヤモヤとした不安を抱えていた。
一応、姉さんにもあとで話しておこう。もしかしたら、この不安が少しは和らぐかもしれない。
僕はそう心に決めると、テキパキと身支度を済ませて部屋を出た。
僕は今時の高校生らしく、朝食を食べない。べつに、時間がないとかじゃない。単純に、面倒くさいからとか一人でいられる時間を長くしたいからとか、多分そんな理由だと思う。僕の中の行動原理はそんな感じで曖昧でできている。まあ、だからなんだって話だけど。
靴を履き、家のカギを持ったのを確認すると、僕はこの平凡でありきたりでよく見かけるような普通の家をゆっくりと出た。
今日は天気予報によると雪が降るらしい。だからなのか、凄く寒い。
気温。多分、氷点下何度とかだろう。
天気。今は曇り。このどんよりとした空を僕はどうも好かない。多分、憂鬱な気分になってしまうからだと思う。僕は晴れた空の方が気分が落ち着くから好きなのだ。主婦の方々は多分、洗濯物を干せるからとかそういったことも好きな理由に入るんだと思う。まあ、これは蛇足なんだけど。
僕はそうやって自分の中で話題を作っては語り出し、話題を作っては語り出しを頭の中で繰り返しながらトボトボと歩き、暫くすると学校に着いた。
月曜日だから、やっぱり憂鬱だ。僕は学校じゃ奇異な目で見られているわけだし、おまけに僕は勉強が大の嫌いだ。それも相まって、余計に憂鬱になる。べつに成績は悪くはない。だから、ある程度の高校に普通に進学し、真ん中あたりをずっと行ったり来たりを繰り返している。つまるところ、よくある、勉強をしていても退屈だからとか多分そういうのが理由なんだろう。
さらに勉強とはいうが、学校じゃ「はーい、じゃあグループ作ってー」というものがあるしな。僕にはまだ涼介がいるものの、グループ作ってなんて言われたら嫌だな。死にたくなる。そういうのがこれからまた数日間連続であるのかと思ってしまうので、やっぱり月曜日は憂鬱だ。
僕はそんなことを思いながら、いつものようにスリッパに履き替え、いつものように階段を上り、いつものように教室に入り、いつものように自分の席に着くと、腕を枕がわりにしてスヤスヤと眠る体勢に入る。眠くなくても死ぬ気で、なんとか眠れるように頑張る。それはきっと、この体勢が自分視点から考えて一番周りの視線が遮られているような錯覚になるからだと思う。気休めでも、こうやった方がマシだと僕は考えてしまうのでもうどうしようもない。
僕は人間関係に怯えているのだ。
早く終わってくれ。早く放課後になってくれ。
僕はそんなことを誰でもない誰かに懇願しながらゆっくりと眠りにつくのだった。
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キンコンカンコーン、と何度目かのチャイムが校内に鳴り響く。時計を見ると、なるほど。もう、授業は全て終わったらしい。
ずっと同じ体勢で寝ていたからか、首と肩が凝ってしまったらしく、僕は少し痛そうな表情を浮かべつつ肩と首を丁寧に回す。そうして解し終わるとすぐに荷物を背負い、教室から出ようとする。が、ドアに手を掛けた丁度そのとき、涼介に話しかけられる。
「善、今日はどうだ。やっぱり用事があるのか?」
涼介は爽やかな笑顔を浮かべて、僕に優しく話しかけてくる。
涼介はいつもこんな感じだ。大抵、笑っていたりオーバーなリアクションを見せたりと、言ってしまえばパターンが決まりきっている。だが、僕はそれでいい。それがいい。そう思っている。
そんな涼介なのだが、今日の涼介は何かが違っていた。僕の勘というやつだろうか。
「悪いな、涼介」
僕は涼介の方を向いて申し訳なさそうに謝罪の言葉を言うと、ドアの方に向き直して、ガラリとドアを開けて教室を出た。
「善、待ってくれ」
「どうした、涼介。言っておくが、課題のことなら僕は知らないぞ。だって、僕はずっと寝ていたからな」
涼介が廊下に出て来て僕を呼び止めるので、僕は涼介の方を振り向いてそう言う。
まあ大方、涼介に呼び止められるってことは課題を手伝ってくれとか家に寄っていってくれないかとか、そういうのだからな。
「いや、今日はそういうんじゃないんだ。あのさ、善。やっぱり、お前何かあったんじゃないのか? 最近のお前、なんだかちょっと変わった気がするんだ」
「僕はいつも変わっている人間だと思うけどね」
涼介にそう訊かれたので、僕は皮肉めいたことを不機嫌そうにボソリと言う。おそらく、今の不快指数はかなりのものだと思う。
「いや、なんでもないんならいいんだ。それで。……じゃあな」
「そか。じゃあな」
涼介は僕の目をじっと見て安心そうにそう言うと、手を振ってまた教室へと戻っていった。
僕はというと、その後学校を出て〝記憶保存屋〟の方へと向かった。
そういえば、結局あの後飼い主の女性はどのような記憶の保存を願ったのだろうか。僕はそれがとても気になる。
僕は噛まれた傷口を気にしながら、スッと思考する。
この傷、思ったより重傷じゃなくてよかった。検査の結果とかは異常なんて全くないみたいだし。
病院にいたときのことを思い返しながら、しみじみと思う。白い壁、白い床、白い天井。その清潔な様は自分にとって、思い返すだけで少しだけ心が洗われていっているような気がする。
そんなことを思っていると、目の前の踏切がカンカンと音を鳴らしているのを確認したので、僕はピタリとそこで立ち止まる。
電車か。小さい頃は好きだったな。でも、今はもう、ね。
ガタンガタン、と十両編成の電車が目の前を勢いよく通過していくのを見ながら、僕は一時的に感傷的な気分に浸ろうとしていた。
ここは大体時速百キロメートルくらいの猛スピードで走り抜けるらしい。それのせいなのか、それとも冬の北風のせいなのかはわからないが、風がビュンビュンと吹き抜けて僕の髪を揺らしていく。
……寒いな。
電車が通り過ぎて踏切が上がるのを見ると、僕はマフラーを手でギュッと握り締め、若干下を向きつつ前へ前へと進む。風を押し抜けるかのように。
はあ、手が悴む。感覚が麻痺していて、もうこの手が自分の手じゃないかのように感じられるよ。
僕は手を擦りながら、はあ、と手に向けて息を吐き、なんとか寒さを誤魔化そうとする。
春はまだなんだろうか。寒すぎて、今か今かと僕は待ち望んでいるよ。待ち遠しいや。
僕は冬というものに負けて折れてしまいそうな心をなんとか立て直し、足に力を入れて一歩、一歩と踏みしめる。
今度から自転車登校にでもするかな。いくらなんでも、徒歩は辛いものがあるな。まあ、雪が降ったときは徒歩がいいだろうけど。
僕は家にずっと放置していたままの自転車を思い浮かべ、さてタイヤはパンクしてはいないだろうかとあれこれ考える。
もしかしたら、カラスに穴でも開けられていたりするかもな。うん、そういう考えが頭の中で咄嗟に思いついてしまうほど使っていない。
ずっと放置したままでいると、なんか付喪神だとか靈だとかが宿って怒らせてしまうみたいな迷信もあるらしいし、使うに越したことはないだろうな。
僕は腕を組み首をコクリと縦に振って頷くと、すぐさま欠伸をした。
ふわーあ。なんだか、朝はそこまで眠くなかったのに、急に眠気が襲ってきたな。ずっと寝ていたのに、不思議な話だな。眠りすぎて眠い……うーん、そんな楽しすぎて楽しいみたいな言い方じゃあないよなぁ……。
僕はそんなこんな考えている間に〝記憶保存屋〟へと到着した。
この面白おかしくて、摩訶不思議な謎めいた何か。建物の雰囲気とか外見はイメージとなんか的外れているけれど、でも、それがより一層面白おかしくしているのかもな。
僕は少し失礼なことを思いつつ、コンコンとノックをしてドアを開けた。
それにしても、無用心すぎる。これじゃ、いつか空き巣に狙われて入られるぞ。
僕はそんなことを思いながら、手を当てて大声でこう言う。
「おーい、桐勢。今日も来たぞー。見学させてくれー」
しーん。返答はないようだ。
なんだ、寝ているのか? 寝ていて、それでカギを掛けないとか、本当、いつか空き巣に入られるんじゃないのかな……。はあ。
僕は大きく見ればこれは他人事だというのに頭を悩ませ、どうしたもんか、といった表情をする。
これだけ見れば、僕はまるで桐勢の兄とかそういう感じに見えるよな、本当。はあ、まあ、それもいいかもな。僕、下がいなくて弟だから、たまには上の兄というものを経験してみたい気持ちもあったしな。
適当に言葉を見繕って、今の状況をなんとか自分にとって悪くはないんだと言い聞かせる。
そうか、姉とか兄って人によってはこんな感じなんだな。僕、姉さんにこんな風に迷惑掛けていて、こんな風に見られているのかもしれないな。
僕はそう思うと、姉に対しての今までの感謝を急に桐勢が来てもビックリしないようにサササッと胸に潜めておく。
姉さん、いつもごめんな。
……それにしても、寝息すら聞こえないな。今日はいないのか? え、いないならさすがにカギくらい掛けるよな? え、このままだと、僕、不法侵入しているみたいになってしまうのだが!?
と、僕はショックそうな顔をしつつ、ウロウロと歩き回る。
「おーい、桐勢――」
「あ、善君。……いらっしゃい」
「……大丈夫か。……何かあったのか」
桐勢から漸く言葉が返ってきたので彼女の声が聞こえる方を振り向くと、そこにはニコリと微笑んではいるものの、涙で溢れんばかりに泣いている彼女がポツリと立っていた。




