1.9月2日_15:30:16
先ほどまで動いていたものが動かなくなるのを見るのはこれで三度目だ。
一度目は自分の腕。ある日いつも通りにグローブを手にはめていつも通りに腕を振りぬいただけで、めきょっ、と嫌な音がして。それきり俺の思うようには動かなくなったのだ。
それ以来誰もが俺を可哀想なものを見る目で見るようになった。未来があったのに。きっとすごい人になったのにね。なんて。
知人に友人、恋人まで。
それに耐えられず最後に親に泣きついたのが悪かった。
母親は俺の動かない腕を見てぽつりと、かわいそうに、と零した。
瞬間頭に血が上って、俺はなにやらめちゃくちゃなことを口走ったあと、その熱にひかれるまま、いつもの習慣を繰り返すように玄関先に立てかけたバットを母親の脳天めがけて振り下ろしたのだった。
それが二度目だった。
三度目は今この瞬間。
紙のように真っ白で無機質な正方形の部屋に俺はいる。
目の前には何やら得体のしれないたくさんの薬品瓶が転がっていたり割れていたり。
その中央には小さな頭から脳みそと血液を垂れ流す少女がいた。もう彼女は動かない。
…俺はなぜ、こんな場所で人を殴っているのだろう。
───────
この国には犯罪者が溢れかえっていた。
右を見れば窃盗、左を見ればひき逃げ、前を向けば強姦、後ろへ逃げれば殺人に巻きこまれる。
そこである学者は考える。犯罪者予備軍、あるいはすでに犯罪者となってしまった子供をすべて始末してしまえば犯罪は消えるのではないかと。この国は狂っていた。だからその意見に対する反論も当然のように狂っていた。すべてを消すのはあまりにも勿体ない。
だから犯罪を起こすに至った理由を、記憶をすべて消して更生させることに決まった。
しかし現在30万人超存在する犯罪者の子供たちの記憶を消すには圧倒的に予算が足りない。
どちらにせよ資源を生み出すに足る存在でなければ生かす価値はない、ならば。
子供たち同士で殺し合わせ、生き残った300人だけに記憶処理を施し未来を与えよう。
───────
母さんを殺したあと、すぐに警官が来て──おそらく父さんが通報したのだろう──俺はぼんやりとしたまま警察署に連れてこられ気付いたらこうして聴取を受けている。
気だるげな顔を隠そうともしない若い警官が俺の顔を見つめ動機は何だと何度も同じ質問を繰り返している。思わずつられ同じ表情をしてしまった。
「…ですから、何度も言ってるじゃないですか」
「いやね、カッとなってやったってさあ、君みたいな子みいんなそういうからもうそれじゃ調書通らなくなっちゃったのよ。もうこの際でっち上げでも何でもいいからさあ、適当に理由…」
言いかけたその言葉を遮って、部屋の隅の方でこちらの様子をうかがっていた一回り上の警官が若い警官の頭を殴りつけた。
「いい加減にしろ」
「…はい、すみません」
…俺が言えた義理でもないが、これで本当に警官なのか?今まで積み上げてきた正義漢的なイメージが崩れていく……。
呆れる俺をよそに、殴りつけられしょぼくれた警官が──本当に反省しているのか?──ペンを回し片手間に俺に対する質問を再開した。
「…えー、カッとなってやったって、具体的にはどういう経緯でカッとなったんですかね」
「……どういう経緯で…と言われても。…母さんまで俺を可哀想な目で見てきて…それで頭にきて…ですかね?」
「質問に質問で返すかあ…」
より一層気だるげな顔になった警官がため息をついた。
そんなことを言われたって、俺にだってわからない。
カッとなってやった、以外の言葉がどうしても見つからない。
もちろん胸の奥にはもっとぐちゃぐちゃと生温い感情はある。それを他人にどう伝えればいいんだろう。
そんな様子でも察したかのようなタイミングで、狭い部屋の扉が開いた。
見ると、堅苦しいスーツを着た中年の男たちが二人。雰囲気は正直目の前にいる男よりもずっと威厳があるが、部屋の端の警官のいぶかしげな顔を見るにどうも同じ警官だとは思えない。コツリコツリ革靴が音を立て、テーブルの横に来ると俺の目の前の警官に何やら耳打ちした。
すると先ほどまで気だるげだった警官の様子が一転、パッと目を開き背筋を伸ばしたかと思えばそのまま立ち上がり「それではこれにて失礼いたしますっ!」なんて言ってもう一人の警官を連れて部屋の外へ出て行ってしまった。
一体なんだっていうんだ。
「ごめんね。君に話があって代わってもらったんだよ」
呆然としていた俺の目の前、先ほどまで警官が座っていたパイプ椅子に気付いたら黒スーツのうちの一人が腰かけている。子供をあやすような言い方が少々鼻についたが、そこに突っ込んでも仕方がないだろう。
「話って」
「これから僕たちについてきて、あることをしてもらえたなら君を無罪で解放してあげる」
男はなんでもないことのようにさらりととんでもないことを言ってのけた。
無罪で解放するだと?母さんを殺した俺を?
馬鹿馬鹿しい。殺人をして無罪になるようなことがあってたまるか。
一瞬固まって、ひと呼吸おいてから悪い冗談なんだろうと思い、「人体実験か何か?」と薄く笑う。
「まあそんなものだね」
またさらりと言う。
軽い調子で言う割に真剣な男の顔を見て、今度こそこいつは本気で言っているのだと察する。だが本当にそんなことができるのか?そこでふと先ほどの警官のことを思い出す。こいつが話しかけてすぐに様子がおかしくなったが、よもやこいつらは警察にも圧力をかけられるほどの何かを持っているのか。
もしかしたら本当に俺を無罪で解放することもできるかもしれない。
俺は極力真剣な顔をして目の前の男に言う。
「申し訳ないけど、断る」
目の前の男が面食らったように動きを止めた。まあ想像に難くない反応だ。
でも俺は人を殺してそれでも能天気に生きていけるような人間じゃない。それに、この腕が思い通りに動かなくなった時点で俺の人生は終わったも同然だったんだから……
そのとき、動きを止めた男の様子を見て、もうひとりの黒スーツが口を開いた。
「協力するならお前のその腕も治せると言ったら?」
心臓が止まったように思った。痛くなるほど目を見開く。
「…………………」
この腕を治せるだって?そんなことできるもんか。どんな有名な医者にかかったって治せなかったんだ、絶対に治せない。それなのにこいつはいたって冷静に、簡単に言い放った。
「治すあてはある。問題はお前が協力するかどうかだ」
再び冷静な声で男は言う。
……冷や汗が止まらなくなった。
どうしよう。
償わなきゃいけないとは分かってる、母さんを大事に思ってなかったわけじゃない、だからこそ最後に縋りついたんだ。だから殺してしまったことに心底後悔してる。
それにこんなうさん臭い奴らを信じるなんて馬鹿げてる。話してもいない俺の腕のことを知っている時点で疑ってかかるべきだ、利用されるだけでは済まないかもしれないぞ。
でも野球は俺の唯一だった。今でもそうだ、もしそれが取り戻せるなら。
もう道はひとつしかなかった。