三一〜四〇
三一
海鳴りが聞こえた気がした。私の心の奥深くに沈んでいた記憶が蘇る。あの人と見た水平線。あの子と遊んだ水際に、波が寄せては返していた。あの日私は空を飛んでいた。この星の青さを全身に受け止めて、気流の中を軽やかに泳いでいた。地上の茹だるような空気を忘れ、その時の私は誰よりも自由だった。
三二
本を開くことは、扉を開くことだ。心を通して、文字に色が付く。行を目で追う仕草が絵筆となって、心の奥底にあるどこかの風景の色を移してゆく。頁を捲れば世界に風が吹き、人々の騒めきが耳に流れ込んでくる。文字と現実の交差点に立ち、私達は辺りを見渡す。これから共に歩く長い旅の相棒を探して。
三三
砂礫の中から見上げた空は、どこまでも遠く輝いていた。僕達を縛る見えない足枷は、孤独の檻を作り上げた。遠くから君の声がする。それは僕達に、自由のための試練を与えた。僕達は歩き出さなければならない。まだ見ぬ終わりを知るために、始まりを告げなければならない。この儚く残酷な世界に向けて。
三四
愛していた、のだろう。断定が出来ないのは、偏に私の目の前に居る少女に対して私が、あの女に抱いた感情とよく似たそれを抱いていたからだ。とはいえ、そこには僅かながら決定的な差も存在している。目の前の少女の髪に触れても、あの女のようにその匂い全てをこの身に閉じ込めたいとは思わなかった。
三五
私の唇を撫でる彼女の細い指が動きを止めた。「どうしてほしい」そう尋ねた貴女が憎らしい。私が何を望んでいるかなど本当は分かっているはずなのに、無垢なふりを装って、生娘の無知を理由に赦されようとしている。心の奥がちりちりと甘く痛む。それでも私は、彼女に全てを打ち明けてしまうのだろう。
三六
御神木の陰に逃げ込めば、暑さが少しだけ和らいだ気がした。茹だるような熱が天と地から降り注いで、舗装された車道には陽炎がこちらを伺うように佇んでいた。目を細めて見上げれば、葉の隙間から真っ青な空と白い積乱雲のコントラストが見えた。夏になるといつも、此処で子供の頃に思いを馳せていた。
三七
きっと僕たちは本質的に宇宙を泳ぐ孤独な惑星と同じなのだ。時折誰かと軌道を共にして規則的な運航を繰り返しながら、その身の内では常に進化の種を育んでいる。他者は周りで煌く星。雑踏の中を行くときも、僕たちは常に自らの軌道を歩いている。人々の群れが織りなす線上を、幾度も交差し続けながら。
三八
その日貴方は空になった
空気中の塵に反射し
青く滲む光の一部に
透明な液体のように
貴方のすべてを留めておけない場所に
私の手の届かない場所で
貴方は刻一刻と姿を変える
私の記憶のなかから
貴方へと伸びた道筋を
少しずつ消していく
愚かな私は失う怖さに
振り返ってやっと気づくのだ
三九
サァカスの派手なテントが大口を開けて僕たちを狙つてゐる。蠢めく魑魅魍魎を覆い隠し、一人々々に白粉を塗つてやつてゐるのだ。太腿を露わにした美女がニコニコと笑つて、見て行つて頂戴ヨ、と此方を手招いた。然し僕はこう云つた。「お姉サンの脚は、随分鱗だらけなんだねェ。まるで人魚ぢやないか」
四〇
僕が貴方の愛を享受できていたのなら、僕と貴方の夢の終着点は変わっていたのでしょうか。貴方の蜂蜜のように甘ったるく砂糖のように僕の心を蝕んでいく、あの不気味で恐怖さえ覚えるほど純度の高い想いを、僕が一雫たりとも溢すことなく受け止めて丁寧に飲み干していたら、幸せになれたのでしょうか。