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一四〇字掌編集  作者: 夏川綺行
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二一〜三〇

二一


貴方の心に溺れて埋もれてしまえたら、なんて思うけれど。貴方と私の間にはどうしようもない膜が一枚あって、触れても決してその芯には辿り着けないと分かっているの。実際の貴方の心は澄んだ青い海を抱えているわけではないでしょうし、私だって貴方の思う様な軽やかな空を持たない。それだけの話よ。





二二


緋色に染まる世界は泣いているように見えた。それが悲しみ故か喜び故かは判らない。遠くの空は少しずつ宵闇に蝕まれていて、直に星が瞬き始めるだろう。この美しい景色を見る者は自分以外に存在しない。コンクリートの森は全て薙ぎ倒され、ガスも騒音もない。これが僕の望んだ世界。全てが平らな世界。





二三


太陽と青空と大地のコントラストが目に眩しい。涼しさが見え始めたその日、彼は眠るように死んでいた。彼の骸は夏にも関わらず腐臭を放っておらず、周辺に散らばる百合も相俟って、彼が描いた絵を見た気分だった。そっと屈んで触れた頬の冷たさに現実に戻された。以来彼の死に顔が目に焼きついている。





二四


カチ、カチ、と意味もなくジッポの蓋を鳴らすのは彼女の癖だ。口寂しいときは飴を舐めて誤魔化せているのに、これは治せないらしい。きっと、治す気がないの間違いだろう。そのジッポが贈り物であることも、彼女の胸ポケットには贈り主が好きだった銘柄が入っていることも、僕は運悪く知っているのだ。





二五


彼はどこまでも善意に溢れた人だった。例え独りきりになるとしても君だけは生きろと、そんな呪いを当然のように口にしてしまう人だった。死に行く定めの彼には決して分からないだろう。彼という希望を亡くした私の悲しみを、助けの望めない世界に一人放り出される苦しみを、彼は一生理解しないだろう。





二六


春の雨は柔らかく

あの子の肩に降り注ぐ

丸い柔い温もりが

凍えた心に降り注ぐ

屋根を伝い雨樋を下くだり

甘露が大地を養うように

あの子の脆く美しいところを

優しく撫でてゆくのだろう

言葉よりも雄弁に

瞳よりも密やかに

僕の気配を隠して告げる

春の雨は柔らかく

ふたりの肩に降るのだろう





二七


君の心は蒼穹よりも高く深く青く澄んでいた。太陽の眩しさと夏のじんわりと肌を覆う暑さの中で、君の言動の一つ一つは軽やかな風のように僕の心を吹き抜けた。向日葵のように直向きで、その強い香りにいつもくらくらした。君に振り回されるのも悪くないと思った。君の手を取る理由はそれで充分だった。





二八


「見ておくれ、きみ、きらきら輝いている」青年は笑った。思わず鏡の破片を持ち上げていた手に、きゅっと力が籠った。「痛っ。ああ、切ってしまったね」私の手首を伝い肘を伝い流れる血を、彼は痛々しそうな、けれど少しだけ情欲を孕んだ瞳で見つめていた。それに気がついた時、心の底が微かに震えた。





二九


その一瞬を、あたしは一生忘れないだろう。ディフェンスを振り切り渾身の力で踏み切った彼の身体は、重力に逆らって宙を舞う。骨張った手はボールと共にリングを捉え、しっかりと掴み、大きく空気が振動した。静寂、そして割れんばかりの喝采。あたしは忘れない。彼の背中越しに見えた世界は広かった。





三〇


天鵞絨のモラトリアムは過ぎ去った。月の満ち欠けと陽の伏せた睫毛が出会うとき、これからは新たな波紋が生まれるのだろう。許されていた楽園の模倣は解体され、星の軌道をなぞりながら、個は全に取り込まれる。外に開かれた輝きの裏で、太古から続く鼓動が、息吹が脈打っている。全てが始まりを知る。

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