初めての敵
二匹の遠吠えを聞き、すぐさま逃げの一手を決断した冬道。
しかし、問題は何処に逃げるかだった……。
「逃げるにしても、どうするか……」
呟きながら自身の頭の中を素早く整理する。
右側は崖伝いに岩肌が続き、足場が悪く逃げるのには悪手と思える。
後方の森は論外だろう……遠吠えの主が後ろの森に隠れ潜んで居るのを思えば当たり前だ。
となれば、左側に見えている無理をすれば上れそうな岩壁か、もしくはそのすぐ側にあるの下り坂か……逃げるのであれば後者だろう。
だが、すぐに首を左右へ振る。
(無理だろうな……森を抜けるにはまだ距離もあるし、狼と人間の脚力じゃ勝負にならない……クソッさっさと森に向かえば良かった……)
逃げたとしても追いつかれると理解し、先程までの自分を叱責していた冬道は重大なことに気付いてしまう。
「追い払うしかないか? あっ! 忘れてたぁぁ!!」
不意に何かに気付き、苛立ちぎみに叫ぶ。
冬道は、現在何の装備も持っておらず、あるのは薄い繊維で作られた服と合成樹脂によって作られた頼りない鞄だけ。
ここに至るまで女神アイギスから授かった盾や造型魔法をどう使うかを全く試していなかった。
このまま襲われでもしたら……最悪の事態が待ち受けており、正に絶体絶命と言えた。
それを理解したからこその叫びだった。
「盾をあげるって言われたけど、気付いた時には何処にもなかった……ならアニメや漫画みたいに身体の内にあるとかそういうのか?」
そんなことがあるのかと非現実的な思考に駆られるが、ファンタジーの世界を思えばあながち間違いでもない気がすると、その時の冬道は真面目に感じていた。
「どうやれば出る? 何か台詞か!? いやいや、ありえないだろ!」
激しく首を横へ振り、余りにも馬鹿な考えを消し去る。
先程までの冷静さはどこ吹く風、逃げるのが難しいと分かってしまった時に焦りが頭を支配してしまった。
冬道が思いつくのは、魔法も同様にテレビや漫画で見たようなやり方と藁にもすがる思いで試すことだった。
それが決定的な誤りとは知らずに……。
「魔法だ! 魔法はどう使うんだ? はああぁあぁぁぁ……って使えるかよ!」
気合を入れて叫ぶが当然効果は無く、寧ろ今の裂帛の気合で遠吠えの主を呼び込んだ可能性が高い。
冬道は、焦燥感と不安感で汗が噴出し、様々な方法を試すが一向に出ない魔法。
もっとも、産まれてから一度も魔法という不可思議で非現実的な物を見たことがなく、故に使い方を知らないことが普通だった。
後日、知ることになるが今の冬道では、どう足掻いても魔法を使えなかった。
勿論、女神の再構築は確実に成功し、結果身体能力や五感は向上した。勿論魔力といった物も体内に存在しており、他にも様々な耐性を微力ながら授かっていた。
されど、この世界で何かしらの魔法を使うためには『魔力腺』と呼ばれる物が必要だった。
それは、汗を出すための『汗腺』に近い物で、例えば汗とは皮膚の下を走る管のような腺を通して体外に水分として分泌されると知られている。魔力腺のイメージとしてはこれが近いだろう。
そのような体内機構である魔力腺が作られて初めて魔力を用い魔法で体内外に干渉できる。
では何故魔力があるのに魔力腺がないのか。
魔力は本来人間や一部の亜人には備わっておらず、過去に環境の変化に合わせて無理やり取り込んだ物であって現在でも魔力を持っていない人間は多く存在する。
例え魔力も持って生まれても、魔力腺は後天的に何がしかの魔法や魔力の干渉を受けなければ発達はしない。
当然冬道には、魔力はあるが魔力腺はなく魔法を使える筈がなかった。
ただし、女神アイギスがこんなところに転移させなければ、町なり誰からなり魔力の干渉を受け、自然とある程度の時間は掛かるが魔力腺を持ちえただろう。
それを意図してしなかった女神アイギスには、冬道をこの場所に送る必要があったのだろうが、それは女神アイギスのみが知り得ることだ。
そうこうしている内に冬道の右後方の森から脅威が迫る。
「グルルウゥゥウウウゥ」
「くそっ! 来たか……」
姿は見えないが唸り声は、すぐ側の木々の隙間から漏れている。
幸い聞こえる声は一つのみであるが油断はできない。
冬道はジリジリと後方に後ずさりながらも目は声の方向へ向けており、反射的に背を見せなかったのは褒められて然るべきだ。
「グルルゥウ……ガアァァアア」
「やっぱり狼か……」
そんな冬道の前に姿を見せたのはニホンオオカミと同じぐらいの小型の狼。
狼は、冬道へと唸り声をあげて大きく牙を剥き出し飛びかかる。
冬道は無我夢中で持っていた鞄を前に突き出し牙の一撃を防ぎ、一瞬の隙を見て一目散に駆け出す。
なんとしても助かりたい一心で、左側に見える高い岩壁に駆け出す。
その様は正しく敵前逃亡と言えた。
「なっ! もう一匹かよ!!」
安堵するにはまだ早い……逃げる冬道の瞳に別方向の森から飛び出すもう一匹の狼が映る。
最初の狼と同じく襲い掛かろうと鋭利な前足を振るう。
冬道は焦りかサイズの合わない革靴のせいか……いや、両方だろうが足を滑らせてダイビングヘットを決めるように胸から地面へと落下してしまう。
幸か不幸かその急激な変化に狼は反応できず冬道の頭上を掠めるように飛び越えていく。
うつ伏せた状態で痛みに堪える冬道は辛くも岩壁まで辿り着いた、が……。
「ぐあぁああぁぁあ!」
胸の痛みなどお構いなしに起き上がろうとした冬道を鋭利な激痛が襲った。
痛みの方を振り向くと、右脹脛には鋭い牙を突き立てられており、血が泉のように噴出している。
食い千切ろうと頭を振るわれる度に突き刺すような痛みが襲い、思考はそれに耐えることのみに使われる。
「ぐ、ぐぞがあぁ」
つぶれた声で叫びながら右手を裏拳ぎみに狼へと大きく振る。
腕の力のみを使った一撃だが、それを感じさせない速度と威力を有した裏拳が狼の頬へと吸い込まれるように決まり、深く咬みついていた牙が脹脛を更に裂きながら大きく吹き飛ぶ。
「ぅがああぁあ」
「キャヒィィイン」
余りにの痛みに再度絶叫が出てしまうが、同時に狼の泣き声を聞くと、激痛が襲う足に力を込めて岩壁に凭れ掛かるように立ち上がる。
痛む右足を地面から話すように庇いながら周囲を一瞥する。
最初に襲ってきた狼は、今ので少しはダメージを負ったのか吹き飛ばされたままたが、別方向から出現した狼が、再度冬道を狙おうと左斜め前に佇んでいた。
傷を負った冬道を見て好機と感じたのかもしれない。
「グルルゥウウ、グラァアアァァアァア!」
「……来る」
周囲を咆哮が支配するが冬道の耳には全ての音が消える。
聞こえるのは、五月蝿いほどに高鳴る鼓動のみ、最早殺意が込められた唸り声など何処にも存在しない。
その刹那の時を食い破るかの如き、狼の強靭な身体がバネのように弾む。
冬道は、人生の中で今この時が最も集中していたかもしれない。
(なんだ? 思ったよりも早くない……これならいけるか!?)
実際は、助走速度が少なかったが冬道に瞬時に迫るだけの速度を持ち、とてもではないが遅いと感じるような速度ではない。
それでも、様々な視力が向上した冬道の瞳にはとても速いとは思えなかった。
高一から六年間をボクシングで鍛えていた冬道は、咄嗟に歯を食いしばり、痛む右足に力を入れて踏み抜き、体重を乗せた鋭く、重い、渾身の一撃とも呼べる右ストレートを無意識に放っていた。
カウンター気味にその一撃は、狼の牙と何かを砕く感触を拳に伝えていた。
そんな狼は目の前の下り坂へと続く茂みに、吸い込まれるように飛んでいく。
途端に周囲を包む自然の声が聞こえ、冬道は荒い呼吸をしながら、何度も脈打つ心臓を右手で押さえていた。
「伏せろ!」
その時、辺りを貫く鋭くもあり透通った高い声が響き渡った。
何が起こったと思う暇もなく突き動かされるように蹲む冬道。
その頭上を切り裂くような鋭い音共に何かが通り過ぎ、ブシャアァという嫌な擬音と解けかけた雪の上を転がる音が響く。
「え?……はっ!?」
誰かの存在を認識した冬道はそれに視線を向ける。
そこには、長い黒色の外套で全身を包み、白銀の髪を靡かせて佇む一人の背中が見えた。
外套の大部分を覆う長い白銀の髪は、光を反射し眩しいほどに輝き、それはどこか女神アイギスを彷彿とさせる。
自身より高い身長を持っており、漠然と男なのに綺麗な髪だなと思いながら見ていたが、ある物に目を奪われ、そして大きく見開く。
その人物の足元には、灰色の体毛を持ち、頭部を綺麗に斬り飛ばされた首元から大量に血が噴出し、地面を赤く染めている。
(俺が殴った狼じゃない。きっと俺の脹脛に噛み付いたやつだな……)
その理解すると、瞬く間に顔を青ざめる。
「まさか……危なかった、のか?」
自分の首元を鋭利な牙が穿つ姿を想像した冬道は、死の恐怖によって身体をガクガクと震わせた。
ここまで読んで頂き有難う御座います。
異世界ってどんな世界でしょうね。小説を書いていて色々想像しますが、私はやっぱり辛く苦しい世界を想像してしまいます。ただ、地球には無い、濃い充実感もあって魅力的だとも思いますね。
さて狼との戦闘ですが、サクラが勝って気ままに動きすぎて困りました……特に最後の右ストレートなんて構想に入れてませんでしたし……皆さん的にはどうでしたでしょうか?
それでは、また次回も頑張りますので宜しくお願い致します。