プロローグ. 宴
辺りを埋め尽くしていた波の音に寄り添うように流れ出した一つの調べ。
やわらかで伸びのある、とても美しい歌声が夜闇に響く。
それは、いつ頃からか始まった、かの人のための、恋歌——
ある細い月の晩。広大な海原の一角に浮かぶ巨大な船舶で壮大な宴が開かれていた。
各国でも有数の貴族達が集められたその宴は、夜の海の中にも煌々と明かりが焚かれ、船内にもかかわらず様々なごちそうが次々と振る舞われるひどく豪奢なものだ。
月に二度の頻度で必ず開催されるその船上パーティーの開催主は、数々の国の王と関係を持ち桁違いの並外れた財力を持つひとりの豪商だった。彼の名はマーカス・リノー。
マリネアラという港町を拠点に世界各国を飛び回る彼は一世一代で巨万の富を築き上げた実力者であり、その手腕とともに憎めない自慢屋として有名だった。
「私が築き上げた財をさらに確固たるものに仕上げてくれているのは私の愛息子でね。実力があるくせに、優しくて倹約家だから、少々できすぎて困ってるんだ。その息子が珍しく船上パーティーを開きたいと頼んできてくれるものだから、ついついやりすぎるくらいに手を尽くしてしまうんだ。そうそう、パーティーには私の家で手配した世界でも選りすぐりの食材を使ってこれまた世界でも選りすぐりの料理人が作ってくれているんだが……」
この通り、彼の自慢話は止まること知らず延々と続いていく。
意気揚々と語られ続ける息子から料理にまでわたる自慢話に対し、ある者は精一杯の賞賛を、ある者は穏やかな相槌を向ける。
彼を囲うのは彼に取り入りたい者もいるが大半は商人という仕事を通じて知り合った友人たちだった。
「彼らは最近見つかったにも関わらないコルルットという食材をとても美味な料理にしてくれてね、調理にはとても手間がかかるんだが、もうこの世のものとは思えない味なんだよ。私の友人の作るそんな極上の料理たちを是非とも足を運んでくれたあなたたちに振る舞いたいね」
延々と続く自慢話はうるさいけれど、彼の話は自分の周りを賞賛するもので、話の中には商人として有益な情報も織り込まれていたりする。
憎めないしついつい聞かなければいけないような内容を自然と選んでしまう彼は、なればこその腕利きの商人なのだ。
しかしながら述べさせてもらうのであれば、彼の話に出た通りに今回の船上パーティーの開催主には彼の息子もいるのだが、その場の主役になっているのは自慢話の花を咲かせる彼だけだった。
船上には大きな塊は一つだけで、他はぽつぽつと個人的な話をしながら波の音や御馳走を楽しんでいる。彼の自慢の息子の姿は甲板にはないが、父親である彼が気にしておらず、さらに彼自身が注目を一手に集めていたので特に何ということもない。
何よりも彼らはもうパーティーに夢中だった。
「これは本当においしいな」
「本当に。少し癖がありますが、それがうまく調理されていますわ」
「調理が難しいということですが、そこをどうにかできればいいモノになりますね」
「後で話を聞いてみましょうか」
「そうですね。とりあえず、私は次はこちらをいただきましょうかね」
「では私はこちらを。……ふふ、やっぱりマーカスは流石ですわね」
「波の音というのは思っていたより心地のいいものですわね。それとも、あなたが隣にいるからそう思うのかしら」
「おや、珍しいことを言いますね」
「ふふふ。お嫌ですか?」
「いいえ。変わらず、どこかに連れて行ってしまいたくなるくらいに魅力的ですよ」
「それは、まだお預けですわ」
「……お二人の世界はまた後にしてほしいのですが」
「それは申し訳ない。独り身には辛かったかな?」
「……うるせえ、海に放り込むぞ」
「まったく君は……だからだめだって言ってるのに」
料理に舌鼓を打ち、穏やかな海を眺め、親しいものと船上の華やかな空気を堪能する。
「そういえば、スタンレー氏の所は娘さんが婚約されたんでしたね」
「ええ、あまり目立つのを好まないやつなので公にしていなかったのですが。今日も来ているんですよ」
「仲がとても睦まじく、お似合いのお二人ですね」
「仲が良すぎて困るくらいですよ」
「いいことですね」
「そうですね。少し、寂しいですが」
「おやおや、それはそれは……」
「この規模のパーティーを毎月二度も開催されるなんて、リノー氏はさすがですね」
「本当に。あの才覚・人柄・行動力は真似したくてもできません。尊敬します」
「あなたも宝飾品に関して素晴らしい才をお持ちではないですか。真似をする必要はないと思いますよ」
「そんな、私なんてまだまだですよ。けれどあなたにそう言ってもらえるととても嬉しいです。先日もわがままを聞いてくださって、心から感謝しています」
「あの程度わがままでも何でもないですよ。同じ分野の仲間として、これからもどうぞ仲良くしていきましょう」
「是非、これからもよろしくお願いします」
段々とマーカスの話を聞いていた客達もが彼から離れて色々なところで花を咲かせ始めれば、いよいよ船上が賑やかになっていく。
――そんな中。
喧騒と炎に囲まれた船上を見つめる、一対の瞳があった。その瞳は、夜の海と同じ色をしていた。
恋い焦がれるように一点を見上げるその瞳は船の外……つまり、海の中から上を見ている。
黒にも近い藍色の瞳のその少女は、原色のように鮮やかな青色の髪と透き通るような白い肌、そして、海の中にはゆらゆらとたゆたう桃色の尾ヒレを持っていた。
人とは異なる、その姿。
船上をひたすらに見つめているのは、一人の人魚だった。