即興劇
佐藤健太郎は高校教師だ。その日はたまたま探し物をしていて、放課後、自分が担任を務めるクラスの教室に向かった。廊下を歩いてきた勢いのまま入ろうとして、健太郎は慌てて体をひっこめた。見間違いでなければ誰か居た。しかも…。健太郎は突然のことで混乱する思考を、一息の呼吸で無理やり押さえつけ、ドアの陰に隠れて中の様子をうかがった。
教室には確かに人がいた。このクラスの生徒(つまり健太郎の教え子だが)で、一人は宮沢、もう一人は河上。どちらも男子生徒だった。二人は窓際にいた。そこの窓だけカーテンが引いてあって、おそらく二人の姿は外から見えない。そこで二人は…キスをしていた。触れるだけだが、けっして短いわけではないキス。あまりの出来事に健太郎は放心した。しばらく固まってしまってから、健太郎はハッと我に返り、逃げるようにその場を離れた。やばい。何が、と聞かれても困るのだが、とにかく健太郎は、やばいを連呼した。落ち着いて、主語述語を組み立ててる場合ではない。職員室に戻っても動揺は続いて、体調が悪いのだと勘違いした同僚からは、早めの帰宅を勧められた。
家に帰るとだいぶ落ち着いていた。そもそも、放課後の教室でキスなんて、わりとある話じゃないか。健太郎自身、そういう経験がないわけでもなかった。彼らもなんら変わりない。男同士であったって、恋という意味では同じじゃないか。健太郎は、取り乱した自分が情けなくなった。教え子である彼らに申し訳ない。しばらく落ち込んでから、気持ちを切り替えるように、健太郎は自分の頬を両手で二度たたいた。…とはいえ、公共の場であのような行為はいただけない。たとえ日常茶飯事、かなりの頻度で行われているにしても、駄目なものは駄目。見つけてしまった以上は、注意をしなくてはいけない。「お前自身、やったことがあるだろーが」と言われると、ぐうの音も出ないが、教師とはそういう仕事だ。それにもし、仮にここで知らないふりをして、彼らが再び同じような行為に及び、それを、他の誰かに見つかったら…。男同士である彼らを受け入れてくれる者は少ないのではないか。あらゆる悪い考えが浮かび、健太郎はそれらを吹き飛ばそうと、勢いよく頭を振った。所詮人間は、自分の理解できない者には排除の姿勢をとる。狂泉の水、だ。
職員室のドアが開いた。重なる「失礼します」とともに、二人の生徒が入ってきた。健太郎はあくまで自然に、二人を迎える。近くまで二人が寄ってきた。
「先生、用事って何ですか?」
宮沢が聞く。
「うん、その前に…応接室、行くか」
二人が顔を見合わせた。
「どうしたんですか?」
「心配するなって。行ったら話すよ。な?」
二人を促して、応接室に向かう。この時点で健太郎の心臓は早鐘を打っていた。二人を座らせて、本題に入る。
「…最近、調子はどうだ?」
勇気がなかった。
「俺はいいっすよ」
宮沢はちょっとニヤッとする。
「俺も…まあ、良いですね」
河上は俺の意図を測りかねているらしい。不思議そうに、でもちゃんと答えてくれた。そうか、と相槌を打つ。
こうなったら少しずつ本題に近づいていこう。
「学校は、楽しいか」
「「はい」」
意外な返答に思わず目を丸くしてしまう。最近の子は達観していて、世間は面白いものであふれかえっているし、学校なんてつまらないと思ってるのではなかったのか。嬉しい返答に、顔が綻びそうになるのを我慢する。本題はそこじゃない。
「昨日の放課後、とか…何してた?」
「バイトしてました」
宮沢が間髪いれずに答える。健太郎の口から小さく「え?」という呟きが漏れた。幸い二人には聞こえなかったらしい。
「俺は部活です」
そんな!お前まで!?河上が引き継ぐように答えると、健太郎にはなす術がなくなってしまう。
仕方ない。本人たちが話したくないのなら、せめて、校内だけでも慎むように、それとなく諭してみよう。
「お前らがその時間、教室に忘れ物を取りに行ったとする」
「「はい」」
「そ、そこで、俺が、他の、男の先生と…き、キスしてたらどう思う!?」
「とりあえず写メってツイッターにアップします」
「先生はクビだね」
現代っ子怖い。
「てか先生、先生もそういうことすんの?」
「えっ、し、しないよ!」
「じゃあ、したことはあるんすか?」
「…学生時代なら」
河上が口笛を吹く。写メ発言と言い、この子意外とノリがいいんじゃないか?真面目な外見で剣道部で、文武両道な彼がこんなに悪戯っぽい笑みを見せるとは思わなかった。健太郎が河上に気を取られていると、向かいに座っていた宮沢が身を乗り出してきた。
「キスしたことあるんだ」
「う、うん」
「男?女?」
「女だよ!?」
「男はないんだ。でもファーストキスじゃないんなら、俺もイイよね?」
「何が!?え、ちょっ、近い!」
机を乗り越えてくる宮沢の下から、健太郎は必死に逃げだして距離を取った。何事もなかったかのようにこちらを見上げる河上と目があった。宮沢は健太郎の座っていた場所に腰を下ろす。わけがわからない。
「二人はっ、付き合ってるんだろ!?」
やっと声になって出てきたのは、今まで散々逃げてきた本題だった。
「「いや」」
またも重なった返答に唖然とする。
「だって、キス…」
「それね、俺が先生を妬かせたくて、河上に頼んだの。こいつ、顔さえ良ければ相手してくれるバイだし」
「そうなの!?」
「はい」
河上は授業中となんら変わらない様子で、さも当然のように頷いた。それが健太郎には異様に映る。宮沢が言った。
「先生、妬いた?」
「妬くわけないだろ」
「なんで?」
「だって、好きとさえ言われてないし」
「俺、結構アピールしてたよ?」
「嘘だ」
「本当だって。周りは気づいてるよ。知らないのなんて、先生ぐらい」
「うっそマジで」
教室には、なぜか三人で並んで帰った。話に夢中で時間を忘れていたが、窓からは夕日が差し込んで、校舎の中はほんのりオレンジ色に染まっていた。あんなことがあったなんて信じがたい、のどかな時間だった。不意に疑問に思って、隣を歩く宮沢に話しかけた。
「お前、俺のどこが気に入ったんだ?」
「可愛いとこ」
思わず顔が引きつる。
「か、可愛くはないだろ」
「可愛いですよ」
今度は河上が答えた。
「雰囲気ですかね?守ってあげたいというか…構いたい?」
甥っ子の顔が思い出された。彼は贔屓目なしに顔立ちが整っていて、性格は穏やかで、彼に好意を寄せる中には、少なからず男も含まれた。健太郎がそのことを心配すると、彼は笑って、心配しすぎだと健太郎をなだめた。
「別に、嫌じゃないんだ。俺なんかの中身を見て好きになってくれたわけだし。本人だっていろいろ悩んだと思うよ?」
甥っ子の言葉がスッと染み込んでくるようだった。二人を嫌に感じなかった理由が、何となくわかった気がした。
感想などありましたらぜひ書いてください。