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 パーティーで躓いて、気持ちがめそめそとしてしまって、二週間ほどになる。幾分回復したけれど、まだふとしたときに、気持ちが重くなる。それでも締め切りが気持ちを察して動いたりはしないので、気持ちが塞いだまま、原稿を書いている。軽やかで愛らしい短編小説、というのを書くつもりなのだけれど、何しろ気持ちが塞いでいるので、書いているときに気持ちを無理に持ち上げなくてはならず、疲れる。ピンクの服を着たり、木崎に買ってきてもらったピンクの小さな薔薇を飾ったりして、どうにか軽やかで愛らしい気持ちに、なろうとしている。

「ゆすらさん」

 ぼんやりしていたところに声がかかって、びくりとする。

「なあに」

 怠けているのが気まずくて、姿勢を正そうとして、だがそれも癪なので、組んだ腕から顔を上げずに尋ねる。どのみち、戸の向こうの木崎に私の姿は見えないのだが。

「お茶しませんか」

 木崎の声は、どこか得意げな響きを持っている。私は起き上がり、戸を開いた。


 スコーンはレーズンが入ったものと、何にも入ってないもの。添えられているのは、クロテッドクリームとイチゴのジャムだった。台所は、バターと砂糖の焼けた匂いで満ちている。気づかなかったのが不思議なぐらいだ。うっとりするような、香ばしく素敵な匂い。

「焼いてたんだ」

「焼けるかな、と思ったので、ちょっとやってみました」

 木崎の顔は、やっぱりどこか得意げだ。紺色の地の厚い大きなカップに、揃いのポットから紅茶を注いでくれる。円い水面に、夕日色の波が立つ。

「これ、素敵なティーセットですね」

「母がイギリスで買ってきたやつだと思う」

「へえ。それはそれは」

「あんまり使ってなかったけど」

 久しぶりに見たので、そんなものがあることさえ私も忘れていた。

「あまり紅茶は飲まなかったんですね」

「そうだね。父はコーヒーのほうが好きだった」

 母は時々ケーキを焼いてくれた。生地のずっしりとした素朴なチーズケーキや、チョコレートケーキ。焼くのはいつも夕食の後で、焼けたら家族四人で食べた。そういうときも父に合わせてコーヒーだった。幼い頃は、牛乳と混ぜて。高校生になる頃にはブラックで。私も弟は特にコーヒーが好きだったわけではないが、父と同じものを飲む、ということに意味があった。私も弟も、父が好きだった。大好きだった。

 湿った気持ちがまた戻って来そうになったので、手を合わせていただきます、と言った。木崎も席についている。スコーンを手で割ると、湯気が指に当たった。何もつけずに一かけら口に入れる。ざくざくと生地が、あたたかく甘く崩れていく。

「おいしい」

「よかった」

 クロテッドクリームをたっぷり乗せて、もう一口食べる。つめたいものとあたたかいものを一緒に食べるのには、何か刹那的というか、儚い奢侈を感じるので、好きだ。甘くなった舌に、紅茶の苦味が快い。

 あっという間に、私の皿は空になる。その間木崎は半分ほどスコーンを食べただけで、面白いもののように私を眺めていた。目線が合うと、小さく微笑んで、カップにもう一杯紅茶を注いでくれた。

「まだありますけど食べますか?」

 誘惑されたけれど、首を振った。

「夕飯、食べられなくなるから」

 木崎は頷く。

「今日は肉じゃがにしようと思って。新じゃがで」

「あとは?」

「あとは、おたのしみです」

「はい」

 楽しみだ。

 紅茶の香りを吸い込んで、胸郭を満たす。お腹と鼻と舌が満ちていて、幸福だな、と思った。幾分軽やかで、愛らしい気分にも、なった。夕食まで原稿を頑張ろう、と、柄にもないことを思った。

「木崎さん」

「はい」

「がんばるね」

 木崎は微笑んで、

「じゃあ、僕も頑張ります。料理」

 と言った。楽しみだ。

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