9.お気に入り
婚約者か……。生理的に受け付けないだとか、よほどの馬鹿じゃなければこだわりは無い。結局のところ王になるのは私だから、相手には大して期待していないのだ。正直子供ができてしまえば必要のない存在だとも言える。いや、婚姻を結んでしまえばきちんと操を立てるつもりではあるが。
問題なのは、下手に野心があったり頭がよかったりすると厄介なことだ。
「レディシア乗っ取り計画……な〜んてね」
冗談混じりに口に出してみるが、あり得ない話ではない。下手をすればエストラーガの属国として扱われる可能性がある。
……なんかだんだんもやもやしてきた。
考えるのに疲れた私は、お気に入りの場所に向かうことにした。
レディシア国王城には、立派な時計台がある。レディプールの鐘と呼ばれる巨大な鐘が設置してあり、今でこそ音が鳴らないように加工されているが、昔はすばらしい音色を掻き鳴らしていたそうだ。
用があるのはその鐘のある鐘楼。さすがに王都すべてを見渡すことはできないが、街を一望できるくらいには高さがあるのだ。
さて、問題なのはそこに行くまでのルートである。
ここから通常の道を辿るとなれば、一度棟を移って何度も廊下を曲がり、階段を上る。さらに鐘楼に行くまでには果てしない螺旋階段も待ち構えている。
よし、ショートカットしよう。
そう決めるまで五秒もかからなかった。
近くにあった窓枠に足をかけると、そのまま外に出る。ドレスのスカートを捲ると脚に括りつけていた短刀を二本取り出して、一本の刃を石壁の隙間に突き刺す。抜けないことを確認すると、そのまま力を入れて短刀に体重をかけて身体を持ち上げた。足場を確認してもう一本の短刀をさらに上の方に刺し、先程の短刀は壁から抜く。それを交互に繰り返し、とりあえず城のてっぺんに到着した。
さて、ここからが正念場である。
ここから鐘楼のある棟までは、まったく足場の無い空間が存在する。そこを飛び越えなければいけないわけだが、その間約十五メートル。助走をつけても飛べるわけがない。さすがにそこまで人間離れはしてない。
さて、じゃあいつも通りにやるか。気分はすっかりアスレチック。
普段から隠し持っている道具を駆使して、意地でも鐘楼に登ってやることに決めた。
大した時間もかからずに鐘楼に着いた私は、ぼんやりと街を見下ろす。密集した建物。そこで生活する人々。
この街は生きている。父が守っている大切な場所。私は自分もその中の一部になりたくて、よく城下に降りる。
城に籠もっているとなんだか時間の流れが止まっているようで、取り残されていく気がする。
強い風に髪を巻き上げられて我に返る。やはり高い場所だからか、風が強い。
以前こっそり鐘楼に置いた棚を開けると、お気に入りの本が数冊出てくる。まだ戻る気にはなれなくて、その中から一冊を取り出して開いた。
なんだろう、気分が沈む。これが噂のマリッジブルー?
まだ婚約の段階で、しかも相手にも会ったことがない内からこれだなんて。
先が思いやられる、と他人事のように思った。
ふわりと暖かい物に包まれて、私は顔を上げた。
「風邪を引きますよ」
「兄様……?」
困ったように微笑むのは、暖かいミルクを持った兄だった。私を包んでいる毛布を掛けてくれたのも、どうやら兄らしい。
結構な時間が経っていたらしい。周りを見渡すと、薄暗くなっていた。どうりで本が読みづらくなってきたはずだ。そういえば手も冷たくなっている。
兄が渡してくれたミルクを両手で包み込むと、今まで気づかなかったが、身体が冷えていたんだと分かった。
「ありがとうございます、兄様」
「い、いいえっ」
思わず微笑みながら礼を言うと、兄がなぜか顔を赤くした。
「そういえば、兄様はなぜここに?」
「……殿下が城壁を登っていくのが見えたもので」
「……あら。それはお見苦しいものを」
「そういうわけではありませんが、心臓に悪いのでお控えください」
ぐったりと兄は言う。
初めて見た人はそりゃびっくりするわよね。昔から城で働いてる人間には今さらな光景だけど。
「先程も一度伺ったのですが、本に集中されていたようなので」
「そうだったんですか。わざわざ申し訳ありません」
不覚。いくら読書していたとはいえ、人の気配に気づかないとは。母が生きていたらものすごく怒られたかもしれない。
「私が勝手にやっていることなので。殿下はなぜこちらに?」
「昔からお気に入りの場所なんです」
そう言って城下に目を向けると、兄も私の視線を追った。
「ああ、確かに綺麗ですね」
暗くなり始め、街のあちこちで灯りが灯っている。暖かな光は、幻想的にゆらめいて街を照らしていた。王都はまだ眠りの気配も感じられない。眠らない街だと初めに言ったのは誰だったのだろう。
レディシア国の王都であるキャンベルは、真夜中になっても目まぐるしく動いている。そのため火を使わずに灯りを点ける技術が発達した。今では科学薬品を使用したライトやランプが主流になっている。スイッチで軽い衝撃を与えると、簡単に灯りが点く仕組みになっている。
様々な色の灯りが開発されたが、私はオレンジ色に近い暖かな色が好きだった。
「……ここから見ると、街が生きているみたいですね」
思わず兄を見上げる。
「城での生活は穏やかで危険もありませんが、やはりレディシアは街もすばらしいものだと思います。だから殿下は城下に降りられるんですか?」
「……そうですね。生きているって実感が持てるんです」
それから暫く街を見ていたが、兄は何も言わずにただ隣にいた。
ミルクはとっくに冷めてしまったはずなのに、私はどこかで暖かさを感じていた。
それがどこなのかは、分からなかったのだけど。