10.迷子の末に
時は少し遡る。
その光景を見て、僕はぞっとした。
そこには、ドレスをはためかせながら城壁をよじ登る殿下がいた。
殿下はてっぺんまで登り切ると、どこからか長い紐状のものを取り出して隣の棟へ投げた。その紐がうまく城の出っ張りに巻き付くと、外れないことを確認して殿下はそのまま宙を飛んだ。
「な、な、な……」
紐にぶら下がってうまく隣の棟の屋根に着地した殿下は、何事も無かったかのようにまた城壁を登り出す。
「どうした、アルマ?……お?」
ドク先生が僕の視線の先に気づくと、呑気に言った。
「またか。リチェ様もまだまだ子供じゃのー」
それで済むんですか!?
「この城にいるからにはあの光景に慣れねばならん。ほれほれ、仕事じゃ」
あまりにあっさりした態度に拍子抜けするが、その後の仕事は散々だった。ドク先生には、仕事の邪魔だと言われてしまう。
「そんなに気になるなら行ってこい。まったく、明日もこの様子では適わんからな。リチェ様はたぶん鐘楼におられる」
呆れたように言われたが、ドク先生の言葉がありがたかった。
「すみません!行ってきます!」
「………………青春じゃのー」
すでに走り出していた僕に、ドク先生が生易しさを孕んだ声で呟いた言葉は聞こえていなかった。
まさか殿下のように城壁をよじ登るわけにもいかず、ひたすら城の中を駆け巡った。
正直僕が勝手に城をうろついてもいいものか迷ったが、咎められたら急患ですとでも言おう。……駄目だ。よく考えたらドク先生は王家専属の医師なのだから、急患が陛下か殿下ということで大騒ぎになってしまう。いやしかし、ケイトさんの例もあるしドク先生は患者がいれば王族じゃなくても助けるだろう。そもそも殿下から助けろという命が生じる気がする。
結論からして、僕は考えることを放棄した。
広い城の中、感覚だけを頼りに時計台の方向へ向かってみたが、見事に迷ってしまった。
どうしよう。誰かを探して聞くとか恥ずかし過ぎる。そもそもドク先生の弟子というだけの立場の僕が、基本貴族の出であろう侍女や騎士に話し掛けてもいいものか。
「……アルマ様?」
聞き覚えのない声に振り返る。
「どうされたんです?」
瞳に知性を湛えたその青年には見覚えがあった気がする。
必死で思い出そうとしているのが伝わってしまったのか、彼は静かに笑った。
「王女殿下の教育係を任じられております、レイロン・バスティーニと申します。以後、お見知りおきを」
「あっ、も、申し訳ありません。アルマ・ネイミストです」
そうだ、確か初めて殿下と会った時、彼も同席していた。
慌てて名乗ると、レイロン様はくすりと笑った。
「存じ上げております。アルマ様は、なぜこちらに?」
「ええと……その……お恥ずかしい話なのですが、迷ってしまって」
「どちらまで?ご案内しますよ」
「時計台です」
そう言うと、レイロン様は納得したように頷いた。
「……なるほど。時計台でしたら、そちらの角を右に曲がって階段をずっと上っていただければ到着します。螺旋階段を登り切れば鐘楼へ続く扉がありますので」
「ありがとうございます!」
深く礼をして鐘楼に向かおうとすると、レイロン様に呼び止められた。
「アルマ様」
「はい?」
「様々なご苦労があるとは思いますが、殿下のこと……よろしくお願い致します」
なぜレイロン様がそんなことを言い出したのか理解できずに言葉に詰まると、レイロン様は何かを隠すように微笑んだ。
「それでは、失礼いたします」
そのまま深く一礼すると、踵を返して行ってしまった。
首を傾げながらも、僕は鐘楼へと向かった。
鐘楼へ続く扉を開けると、強い風が吹き込んでくる。思わず髪を押さえると、髪の隙間から殿下の姿が見えた。
殿下は石の壁に寄りかかり、座り込んで読書をしていた。集中しているようで、僕に気付く様子はない。この強い風の音に気配も掻き消されてしまっているのだろうか。
殿下は寒そうな様子はないが、もうすぐ日も暮れる。そうすれば寒さも増してお身体に障るだろう。
僕は一度引き返し、毛布と暖かいミルクを持ってくることにした。




