19話 祝福の裏側で
「ピィ! ピーイ!」
可愛らしい鳴き声とともに、それは地面を蹴った。
小さな体が一直線にユウリへと駆け寄り、軽やかに跳ぶ。
「え――」
反応する間もなく、ふわりとした重みが肩に乗った。
その小動物は器用にバランスを取り、まるで最初からそこが定位置だったかのように収まる。
そして――
大きな欠伸。
「…………」
ユウリは、しばらく動けなかった。
肩に伝わる体温。
微かに感じる呼吸。
それは幻覚でも、魔力の残滓でもない。
それは――確かに、生きていた。
演習場の空気が、一瞬遅れて緩む。
「……え、なにあれ?」
「は? それ、降霊術……?」
次の瞬間、笑い声が弾けた。
「なんだそれ!」
「ギャハハ!」
「ビビらせんなよ! 派手に光るからさ!」
張り詰めていた空気は、嘘のように軽くなる。
誰かが肩をすくめ、誰かが腹を抱えて笑った。
――失敗。
――見た目だけの演出。
――役に立たないアバター。
そんな評価が、言葉になる前に空気として広がっていく。
「やったね、ユウリっ!」
その中で、ひときわ明るい声が響いた。
ミツルギ・リナが、ぱっと笑顔でこちらを見ている。
「ちゃんと顕現してるよ! すごいよ!」
その言葉に、ユウリは少しだけ救われた気がした。
だが――
セオドールは、動けずにいた。
演習場の端で、魔力制御用の術式を構えたまま、固まっている。
その額には、はっきりと汗が滲んでいた。
「こんな顕現、前例にない……」
誰にも聞こえないほど小さな声。
だが、確かにそれは戦慄だった。
魔力の総量。
消費効率。
魂の安定度。
どれを取っても、理論の外。
教師の視線が、ユウリの肩へと吸い寄せられる。
小動物は、気にも留めず、くるりと丸くなった。
ユウリの首元に鼻先を埋め、安心しきった様子で目を閉じる。
(……ここが、いいんだ)
ユウリはそう思った。
理由は分からない。
だが、不思議とそれが“正しい”気がした。
誰もが笑っている。
誰もが軽く見ている。
――だからこそ。
教師だけが、理解していた。
演習場の端。
誰も注目していない場所で、
一人の青年が腕を組んで立っていた。
――エジル。
先ほどまで展開していたアバターは、
すでに霧のように消えている。
「……ありゃ、なんだよ」
小さく、呟く。
冗談めかした口調。
だが、視線は笑っていなかった。
(あんな魔力で……このサイズ?)
(しかも、安定しすぎだろ……)
常識外れ。
ハンターとしての経験が、
それをはっきり告げていた。
「失敗じゃねぇな……あれは」
むしろ――
――完成形に、近すぎる。
その隣で。
リナが、静かにユウリを見つめていた。
さっきまでの笑顔は消えている。
唇を、きゅっと噛みしめて。
(……やっぱり……)
(アンディと、ずっと何かやってた……)
(偶然じゃない)
胸の奥に、
小さなざわめきが広がる。
不安。
心配。
そして――誇らしさ。
全部が、混ざった感情。
「……大丈夫なんですか」
リナが、小さく尋ねた。
エジルは、視線を外さずに答える。
「正直?」
「……めちゃくちゃ危ねぇ」
「でもな――」
一拍置いて。
「あれを“失敗”って言える奴は、
ここにはいねぇよ」
リナは、
もう一度ユウリを見る。
肩の上で眠る、小さな存在。
そっと、微笑んだ。
「……ですよね」
その時だった。
遠くで、
教師たちが集まり始めているのが見えた。
ざわめきが、
別の意味を帯び始める。
(……始まる)
エジルは、そう確信していた。
これは、
ただの実習じゃ終わらない。
これは、失敗ではない。
成功でもない。
これは――
前提そのものが違う。
「――本日の実習は、ここまでとする」
セオドールの声が、演習場に響いた。
一瞬の沈黙。
次いで、生徒たちの間にざわめきが走る。
「え?」
「もう終わり?」
「まだ始まったばかりじゃ……」
戸惑いの声が、あちこちから上がった。
「全員、教室に戻れ。以降は自習に切り替える」
「担当教員の指示に従え」
有無を言わせない口調だった。
その空気に、生徒たちも異変を察する。
誰も逆らわず、渋々ながら演習場を後にしていった。
やがて。
広い演習場に残ったのは――
数名の教員と、補助要員の青年。
エジルだけだった。
「……君も来い」
セオドールが、短く告げる。
「職員室だ」
「……はい」
エジルは、一度だけ演習場の中央を振り返った。
そこにはもう、何もない。
だが――
(あれは、絶対に“普通”じゃない)
胸の奥に残る違和感が、消えなかった。
◇
教室に戻った瞬間だった。
――空気が、弾けた。
「やったな、ユウリ!」
「マジで成功じゃん!」
「なにあれ!? 可愛すぎだろ!」
席に着く間もない。
四方から声が飛んでくる。
「なあなあ、もう一回見せて!」
「まだ肩にいるの?」
「触っていい?」
「ちょ、ちょっと待って……!」
ユウリは、完全に包囲されていた。
肩の上では、小さなもふもふした存在がむにゃりと身じろぎする。
「ピ……」
「喋った!」
「か、かわいい……」
一斉に歓声が上がった。
「なにそれ反則だろ」
「今までで一番当たりじゃね?」
「戦えなくても癒やし枠だわ」
笑い声が広がる。
誰も、失敗だなんて言わない。
誰も、見下さない。
ただ――
嬉しそうに、騒いでいる。
「……すごいな、ユウリ」
前の席の生徒が、照れくさそうに言った。
「今までずっとダメだったのにさ」
「いきなり、あんなの出すとか」
「いや、俺もびっくりして……」
ユウリは、困ったように笑う。
本当は、まだ実感がない。
でも。
胸の奥が、じんわり温かかった。
「てかさ」
誰かが言う。
「努力、無駄じゃなかったってことだろ?」
「……!」
その一言に、ユウリは言葉を失った。
努力。
今まで、誰にも評価されなかったもの。
失敗ばかりだった時間。
それを――肯定された。
「おめでとう、ユウリ!」
「ほんとだよ!」
「今日、記念日じゃん!」
拍手まで起きる。
冗談半分。
でも、確かに祝福だった。
その時。
リナが、そっと近づいてきた。
「……よかったね」
小さな声。
でも、とても優しかった。
「うん……ありがとう」
二人の間で、リスとウサギの合いの子がふわりと尻尾を揺らす。
「ピ♪」
「なに今の!」
「絶対わかってやってるだろ!」
また笑いが起こる。
教師の姿は、もうない。
注意する者もいない。
自習?
そんなものは、誰も覚えていなかった。
「ねえ、触ってもいい?」
「どうだろうな……」
ノートは閉じられたまま。
机の上には、開かれない教科書。
教室は、完全に“ユウリ中心”だった。
――初めて。
こんな風に囲まれたのは。
こんな風に、笑われたのは。
ユウリは、そっと肩を見る。
そこにいる、小さな存在。
(……ありがとう)
心の中で、そう呟いた。
その小動物は、答えるように――
小さく、鳴いた。
「ピィ」
それだけで。
今日は、もう十分だった。
◇
演習場の隅。
夕暮れの光が、地面を橙色に染めていた。
アンディは腕を組んだまま、小動物アバターとユウリを交互に見つめていた。
「……成功、しちゃったんだな」
ぽつりと零すような声だった。
「ピ」
小動物が小さく鳴く。
それを見て、アンディは苦笑した。
「まずは、無事で良かったよ」
「ピィ」
「教師から、何か言われなかったか?」
「ピィ?」
意味が分からず首を傾げる小動物。
「……だから喋れっての!」
思わず声を荒げる。
「ピッ!?」
びくっと跳ね、小動物は慌ててユウリの背中に隠れた。
「おい……急に怒鳴るなよ」
ユウリが呆れたように言う。
「……悪い」
アンディは後頭部を掻いた。
視線を戻し、小動物をじっと見る。
「で、結局……何なんだよ、コイツ」
「どこから話せばいいか……」
ユウリは少し考え込み、
「――って感じで、今こうなってる」
「雑すぎだろ」
アンディはため息をついた。
「つまり、実習は中止。
その後ずっと自習で――」
指を折りながら整理する。
「顕現は解除できない。
しかも離れない、と」
「そうだな」
「……普通、魔力切れで消えるはずなんだけどな」
アンディはしゃがみ込み、地面に指で線を引いた。
「ユウリって、そんなに魔力量あったっけ?」
「人並みだよ。
お前よりは多いけど」
「一言多い!」
即座に突っ込む。
だが、すぐに真顔に戻った。
「……となると」
顎に手を当て、目を細める。
「顕現維持のコストがゼロ。
もしくは、限りなく低いタイプか……」
沈黙。
風が、二人の間を通り抜けた。
「……どうしたらいい?」
ユウリが小さく聞く。
「……正直、分からん」
アンディは、視線を落とした。
「だから――」
ちらりと小動物を見る。
「ユウリは、どうしたい?」
耳が、ぴくりと動いた。
「俺は……」
ユウリは一度、息を吸う。
「コイツの意思を、尊重したい」
尻尾が、そっと揺れた。
「……そうか」
アンディは、少しだけ笑った。
「目立たない方法、考えてみるよ」
「助かる」
「どっちにしても――」
真剣な声になる。
「このまま放っとくわけには、いかないな」
◇
夜。
ユウリは、自室でベッドに腰掛けていた。
「お前は、どうしたい?」
その隣には、
あの小さな存在が、丸くなって眠っている。
「……ピクル、でいいか」
名付けると、小さく尻尾が揺れた。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
自分が何をしたのか。
それがどれほど異常だったのか。
――ユウリは、まだ何も知らない。
ただ一つ。
確かに分かっていることがあった。
(……やっと、成功した)
それが“何”なのかは分からない。
だが、確かな手応えだけが、そこにあった。
王都の夜は、今日も静かだ。
何事もなかったかのように。
◇
――半日ほど前。
実習中止後。
職員室に戻った教師たちは、
誰一人、すぐには席につかなかった。
立ったまま、
沈黙だけが流れていた。
沈黙を破ったのは、先ほどまで魔力遮断の構えを解かなかった男――セオドールだった。
「……記録を回せ」
短い指示。
補助教員が魔導端末を操作すると、空中に淡い光のスクリーンが展開される。
表示されたのは、ユウリ・カミナギの顕現データ。
魔力総量。
流量。
干渉位相。
魂安定率。
どれも、規格外だった。
「数値だけ見れば、暴走していないのが異常だな」
学科主任のエルドが低く唸る。
「いや……」
セオドールは首を振った。
「これは“暴走”だ。理論上は、な。
本来なら、今頃は結界が壊れてる」
空気が、僅かに張り詰める。
「補助のOBも、途中で介入しかけた」
「そうだな……エジル」
「だが、止めなかった。いや……止められなかったと言うべきか」
誰かが、息を呑む。
「術式が……途中で“変質”していた」
「書き換えられていた、という報告もある」
「小動物型アバター……あれは規格外だ」
「戦闘能力は?」
「現状はあの外見から想像するしか無いが……未知数だ」
沈黙。
誰かが、意を決したように口を開いた。
「あれは降霊術なのか?」
その瞬間、アルマリアの眠そうな紫の瞳が反応する。
「……その話題は慎重に扱え」
エルドの声は低い。
「少なくとも、あの生徒自身は何も知らない」
彼の脳裏に浮かぶのは、演習場で見た光景。
小さな顕現体が、当然のようにユウリの肩に収まり、眠りについた瞬間。
あれはただのアバターではない。
(まるで――自分の意思で、そこにいると決めていたようだった)
「報告はどうする?」
「成功扱いでいい。生徒たちには、な」
「正式記録は?」
「保留だ」
短く、断定的な言葉。
エルドは立ち上がり、窓の外を見た。
「……余計な波風は立てるな」
◇
王都中央区、一般市民の立ち入れない区画。
静謐な魔導結界に守られた一室で、一通の簡易報告が開かれた。
内容は短い。
学院一年、降霊術学科。
規格外顕現一件。
暴走なし、制御確認。
詳細は観測継続を推奨。
それだけだ。
報告を読んだ男は、しばし黙考し――
机の上に指を置いた。
「……なぜこの時期に」
傍らに控えていた者が、低く尋ねる。
「閣下、対応は?」
――は、報告書を閉じる。
「即時介入は不要」
「だが――」
男は、静かに言った。
「“失敗”した場合は、即座に処理する」
一瞬、空気が凍る。
「……了解しました」
「監視をさらに強める」
それだけ告げると、男は立ち上がった。
窓の外、王都の夜景に視線を向ける。
光は穏やかで、街は平和だった。
だが――
「封印指定霊の波長は……観測されていない」
独り言のように呟く。
王都の夜の空に、梟の鳴き声が怪しく響いていた。
ただ一つ確かなのは――
学院の片隅で起きた“ささやかな異常”が、
王国の上層にまで届いたという事実だけだった。




