9話 苦悩の日々、気晴らしの狩り
顕現実習から、数日が過ぎた。
授業は、何事もなかったように進んでいる。
理論。
魔力制御。
次の実習に向けた準備。
誰も、あの日の失敗を話題にしない。
ユウリの顕現が「なかった」ことも、
特別な出来事として扱われることはなかった。
それが、この学院の正常運転だった。
◇
演習場。
補助術式の円が、床に淡く浮かんでいる。
「今日は同期練習のみだ」
セオドールが言う。
「顕現は行わない。
魔法陣を展開し、同期を維持しろ」
ほっとした空気と、
少しの落胆が混じる。
ユウリは、静かに自分の位置についた。
魔法陣を描く。
線は、ぶれない。
魔力も、安定している。
数値は、問題ない。
同期――成立。
端末に、緑の表示が並ぶ。
「よし、問題ないな」
教師の声。
次。
また次。
誰も止められない。
誰も注意されない。
ユウリも、同じだった。
――できている。
少なくとも、
“できていることになっている”。
(……それだけだ)
同期は、開く。
維持も、できる。
だが、その先がない。
顕現しない。
呼びかけても、返らない。
あの日と同じ。
いや――
何も起きない分、あの日よりも静かだった。
◇
昼休み。
「ねえユウリ」
シャオが、軽い調子で声をかけてくる。
「次の実習さ、ちょっと楽しみじゃない?」
「……そうだね」
「私、昨日より数値上がったんだよ!
このままいけば安定しそう!」
リナも頷く。
「確実に慣れてきてる。
最初より、ずっといい」
二人とも、悪気はない。
むしろ、気遣っている。
だから――
ユウリは、それ以上何も言えなかった。
「ユウリは?」
シャオが首を傾げる。
「特に、変わらない感じ?」
「……うん」
嘘ではない。
変わっていない。
何一つ。
「まあ、焦らなくていいって」
「先生も言ってたし!」
その言葉に、ユウリは小さく頷いた。
焦ってはいない。
焦る理由も、ない。
失敗は、評価に影響しない。
追試もない。
補習もない。
だからこそ――
(……じゃあ、なんで)
胸の奥が、こんなに重いのか。
◇
夜。
自室で、端末を開く。
顕現理論。
同期条件。
過去の研究事例。
何度も読んだ内容。
――一致しない。
自分の体験と、
書かれていることが。
(同期は、成立していた)
数値もある。
記録もある。
(拒否も、なかった)
暴走もない。
反発もない。
ただ――
何も、来なかった。
端末を閉じる。
胸元に、指が触れる。
御守り。
静かだ。
何の反応もない。
それが、
今は一番、気に入らなかった。
(……おかしい)
理由は、分からない。
けれど、
「分からないまま進んでいい」気がしなかった。
◇
それからも、日々は淡々と過ぎた。
授業。
演習。
王都での生活。
慣れないはずだったものが、気づけば当たり前になっていく。
それでも――
ユウリの中の違和感だけは、消えなかった。
その日も、理論の授業があった。
アルマリアの理論授業。
相変わらず、気だるげな声。
「……で、同期が成立しない理由は――
教科書通りなら大きく分けて三つ」
投影された文字。
ユウリは、目を伏せた。
全部、当てはまらない。
「でもな」
アルマリアが、欠伸混じりに言う。
「現実は、例外の方が多いのものさ」
一瞬だけ、
教室の空気が止まる。
「そういうのをな」
「いちいち気にしていたら――
先に進めないよ」
誰に向けた言葉でもない。
名指しもない。
それでも。
ユウリは、無意識に顔を上げていた。
アルマリアは、
こちらを見ていない。
黒板の方を向いたまま、
淡々と続ける。
「できない理由が分からない時は」
「できるフリをするな」
チョークが、止まる。
「さもなければ真実は、
永遠に闇の中……」
それは、
指示なのか、
警告なのか。
ユウリには、まだ判断できなかった。
ただ――
自分は、
今まさに、
そこに立っている。
そう思えただけだった。
「今日の授業はここまで」
アルマリアは足早に教室から出て行った。
授業が終わり、学生たちが席を立つ。
ガルドが軽く拳を握って跳ねるように言った。
「よっしゃ!みんな一週間お疲れさま、明日から連休だぜ!」
ユウリは小さく息を吐き、まだ胸の奥に重みを感じながらも、うなずく。
ラグナは後ろで苦笑する。
「……相変わらずだな」
ラグナは小さく息を吐いた。
「俺、明日外に出るんだ」
「一人でもいいんだけどさ」
一拍、置いて。
「なあユウリ、週末は予定あるか?」
何も無いと即答する。
「そうか、じゃあ狩りに付き合えよ」
「……気分転換になるかもしれない」
(……気分転換)
「――ああ、ありがとう」
「じゃあ明日の早朝、正門前に集合な」
ラグナなりの気遣いだったが、ユウリにとって悪くない話だった。
「"久しぶりだな"」
明日の狩りに思いを馳せていると、遠くからガルドの話声が漏れ聞こえてきて現実に引き戻された。
「王都で豪遊――」
「はじめての給金――」
「流行の店――」
……気楽なやつめ。
◇
夜。
寮の部屋は、静まり返っていた。
窓の外では、王都の灯りが遠く瞬いている。
人の声も、馬車の音も、ここまでは届かない。
ユウリは、明日の準備を終えて寛いでいた。
ベッドに腰を下ろし、ゆっくりと短剣を取り出した。
鞘から抜く。
鈍い光を帯びた刃。
柄には、細かな幾何学模様が彫り込まれている。
――故郷で作られたものだ。
儀式を終えた時、
鍛冶師の老人から渡された。
『この村じゃな、一人前の証だ』
『昔から、そう決まっとる』
『この刃と、この印を持って――』
『生きて、戻ってこい』
『……それだけで、ええ』
理由は、それだけだった。
ユウリは、刃を布で拭きながら、
もう片方の腕に視線を落とす。
ローブの袖を、少しだけまくる。
手首から、肘の方へ伸びる黒い線。
絡み合う紋様。
肌に刻まれた、消えない印。
刺青。
――村の風習だった。
体が“大人”になった時、
男も女も、皆これを刻まれる。
戦う者の証。
大人になる儀式。
守りのおまじない。
そんな風に、教えられてきた。
理由を詳しく知る者はいなかった。
ただ――
昔から、そうしてきただけだ。
火を焚いた広場。
煙の匂い。
太鼓の音。
痛みに歯を食いしばった夜。
そばで、父が言った言葉を思い出す。
『これで、お前も一人前だ』
『魔物に喰われずに、生きて帰れ』
それは、祈りのような声だった。
ユウリは、指でそっと刺青をなぞる。
少しだけ、温かい気がした。
――気のせいかもしれない。
でも。
狩りの前。
危険な場所へ行く前。
いつも、こうして触れていた。
そうすると、不思議と落ち着いた。
(……効いてるのかな)
自嘲気味に、心の中で呟く。
科学的な根拠もない。
理論的な説明もない。
ただの迷信だ。
そう言われれば、
否定できない。
それでも――
これがあったから、
生き延びてきた。
獣に追われた夜も。
吹雪の山も。
血に塗れた狩り場も。
この印と、
この短剣とともに、
越えてきた。
ユウリは、短剣を鞘に戻す。
そして、静かに呟いた。
「……頼むぞ」
誰に向けた言葉かは、
自分でも分からない。
刺青か。
短剣か。
それとも――過去か。
布団に横になる。
目を閉じる。
明日は、魔海。
未知の場所。
未知の敵。
それでも。
胸の奥には、
微かな確信があった。
――戦える。
理由は、分からない。
けれど、
そう思えた。
◇
正門前。
朝の空気は、まだ冷たい。
ユウリは無意識に、
短剣の柄を親指でなぞっていた。
――生きて、戻ってこい。
昨夜の声が、微かに蘇る。
程なくして、足音が近づいてきた。
「早いな」
ラグナだった。
◇
王都中央駅のホームは、朝から騒がしかった。
学生らしき人の姿。
旅人らしき人。
作業服姿の人間。
いつもと変わらない風景。
「まさか私が狩りに行く日が来るなんて!」
列車の座席に深く腰掛けながら、シャオが言う。
「誰だよ連れてけって五月蝿いやつは」
向かいに座るラグナは、気楽な調子だ。
「大丈夫なのか?」
「浅瀬なら問題ない」
「魔海とはいえ、王都外縁部は管理区域だしな」
“魔海”。
その言葉が出た瞬間、
ユウリは窓の外に視線を向けた。
魔海。
魔石が手に入る場所。
ユウリの認識はその程度だった。
列車は、王都の石造りの街並みを抜け、
次第に低い建物と畑の広がる景色へと移っていく。
「ラグナはさ」
シャオがふと思い出したように言う。
「なんでそんなに狩り好きなの?」
「魔石だよ」
即答だった。
「魔石猟師になりたい」
「安定して稼げるし、需要もある」
「夢、現実的だね」
「悪いかよ」
ラグナは笑わない。
ユウリは、その会話を聞きながら、
胸の奥に残る重さを誤魔化すように息を吐いた。
――顕現できなかった。
それだけのことだ。
誰も引きずっていない。
引きずる理由もない。
(……だから余計に、逃げたい)
そう思ってしまったのは、事実だった。
「ユウリは?」
シャオがこちらを見る。
「なんで来たの?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……気晴らし」
それ以上は、言えなかった。
列車が減速する。
車内アナウンスが、目的地到着を告げた。
駅を出ると、空気が少しだけ変わる。
匂いが違う。
音の響きも、違う。
「ここから歩きな」
ラグナが先導する。
舗装路はすぐに途切れ、
土の道になる。
草が増え、
木々が密になり、
視界が、じわじわと狭くなる。
「ねえ」
シャオが声を落とす。
「この辺、まだ魔海じゃないよね?」
「かもな」
「魔影がいるところが魔海っていうのが、俺の認識だ」
ラグナは振り返らずに言う。
「境界は曖昧」
「魔影が出始めたら、そこが“そう”だ」
「……嫌な言い方」
「事実だ」
ユウリは、足元の土を踏みしめる。
感触は、確かだ。
木の匂いも、風も、ある。
それでも――
(……静かすぎる)
自然の音はあるのに、
どこか“余白”が多い。
生き物が、少ない。
「なあ」
ユウリは、思わず口を開いた。
「魔影ってさ」
「ん?」
「……生き物、なんだよな?」
ラグナは少し考えてから答えた。
「狩るまでは、な」
シャオが顔をしかめる。
「その言い方やめて」
「じゃあ、どう言えばいい」
「……普通に生きてる“みたい”」
その表現に、ユウリは小さく頷いた。
普通に生きている。
普通に傷つく。
普通に、死ぬ。
――ただ、残らない。
その違いだけが、
決定的なのだ。
ラグナが足を止めた。
「この先だ」
霧が、谷のように溜まっている。
空気が、湿っている。
風は、ある。
音も、ある。
でも――
音の抜けが、悪い。
空気が、少しだけ重い。
「……ここ、やっぱ気持ち悪い」
シャオが、ローブの襟を引き寄せながら言った。
「浅い層だって。まだ安全圏」
ラグナは気にした様子もなく、弓を背負い直す。
「安全って言葉、信用できないんだけど」
「魔影が出るんでしょ?」
「出るよ」
「でも、倒せば消える」
あっさりした答え。
ユウリは、谷の奥を見下ろした。
草木は生えている。
風も通る。
けれど、どこか“馴染んでいない”。
世界が、ここだけ少しズレているような感覚。
「……魔石猟師目指してるんだよね?」
シャオが呆れた声を出す。
「だから来てる」
ラグナは笑った。
「魔海は嫌いじゃない」
その直後だった。
靄の向こうで、影が揺れた。
「来るぞ」
ラグナが足を止めた。
霧の向こうで、何かが動く。
低い唸り声。
草を掻き分ける音。
四足獣だった。
狼に似ているが、毛並みは黒く、ところどころが不自然に長い。
鼻先が、ひくりと動く。
――匂いを嗅いでいる。
「……普通じゃん」
シャオが息を詰める。
「普通だな」
ラグナも同意した。
四つ足の獣は、こちらを認識したらしい。
耳を伏せ、地を蹴る。
速い。
ユウリは反射的に前へ出た。
踏み込んだ瞬間。
腕の奥が、じんわり熱を帯びた。
――刺青。
まるで、目を覚ましたみたいに。
意識したわけじゃない。
ただ、身体が先に動いた。
短剣が、脇腹を裂く。
確かな手応え。
刃は肉を断ち、骨に当たって止まった。
血が、飛ぶ。
温かい。
生臭い。
「……っ」
シャオが顔を歪める。
魔影は悲鳴を上げ、距離を取る。
傷口から血が滴り、地面を濡らす。
――生きている。
そうとしか思えない。
「……やっぱりな」
背後で、ラグナが短く言った。
「辺境育ちは伊達じゃないってか」
「修羅場くぐってる動きだ」
「来るぞ、もう一匹!」
ラグナの声。
背後から、同じ個体。
連携している。
ユウリが身構えた瞬間、
矢が喉元を貫いた。
獣は、その場に崩れ落ちる。
……倒した。
そう思った、次の瞬間。
身体が、ほどけた。
肉が、骨が、血が――
霧のように散っていく。
「……は?」
シャオの声が裏返る。
地面に残ったのは、
さっきまで血で濡れていた草と――
淡く光る、小さな石。
魔石。
もう一体も、同じだった。
致命傷を受け、呻き、倒れ――
次の瞬間には、形を失う。
死体は、残らない。
「……だから嫌なんだよ、ここ」
シャオが腕を抱える。
「普通に生き物だったじゃん」
「血も出たし、鳴いたし」
「そうだな」
ラグナは魔石を拾い上げる。
「でも、残るのはこれだけだ」
ユウリは、さっき自分が斬った場所を見た。
草は、倒れている。
しかしそこにあるはずのものがなかった。
「……魔獣とは、違うな」
自然と、そう呟いていた。
「魔獣なら?」
「残る」
ラグナは即答した。
「全部」
シャオが顔をしかめる。
「それもそれで嫌だけど……」
「でも、分かる」
ユウリは、魔石を見つめる。
確かな重さ。
確かな存在。
――世界が、回収した。
そんな感覚が、胸をよぎった。
「……魔獣……か」
思い出すように、胸の奥がざわついた。
「戦い慣れてるんだな」
ラグナが、ぽつりと言った。
その一言で、意識が現実に引き戻される。
「――ああ」
「故郷じゃ、狩りは日常だった」
そう言って、ユウリは短剣を軽く持ち上げる。
柄と鞘には、見慣れない幾何学模様。
装飾というには実用的で、
儀式用というには使い込まれすぎている。
一目で分かる。
飾りじゃない。
「……へえ」
シャオが、まじまじと短剣を見た。
「カッコいいなぁ」
「でもなんか、変な感じ」
「変?」
「うん」
「“ただの狩りの道具”では無い感じがする」
ラグナが小さく笑う。
「褒めてるのか?」
「褒めてない!」
ユウリは何も言わず、短剣を収めた。
少し間を置いて、
「よしっ!」
シャオが、ぱんと手を叩く。
「浅瀬だし、まだまだ行けるよね?」
「せっかく来たんだし!」
「……お前、さっき嫌って言ってなかったか」
「嫌だけど!」
「慣れるしかないでしょ、魔海なんだし!」
ラグナは肩をすくめる。
「じゃあ、もう少し奥まで行ってみるか」
霧の向こうへ、視線を投げる。
ユウリも、それに続いた。
ざわつきは、まだ胸の奥に残っている。
けれど――
足は、自然と前に出ていた。
◇
狩りを終えて、王都の駅に着く頃には、街はすっかり夜だった。
街灯の灯りが石畳を照らし、昼とは違う静けさがある。
「魔石、今日の収穫は……まあまあか」
ラグナがぽつりと言った。
数字にこだわる様子はなく、自然体の調子だ。
「でも、あの魔影は……怖いね」
シャオが小声でつぶやく。
ユウリは頷くだけで、言葉が出なかった。
ユウリは短剣を軽く握り直す。
まだ心のざわつきは残っている。
けれど、狩りの経験は確かに、何かを残していた。
「……帰ってきたな」
ラグナが小声で言った。
視線は夜の街に向けられている。
シャオは軽く笑う。
「ふう……とりあえず無事でよかった」
ユウリは、短く息を吐く。
胸の中のざわつきを、夜の王都の空気が少しだけ落ち着かせてくれる。
――明日から、また学院での日々が続く。
なんとかなる。
……そう、思いたかった。




