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ストッキングは菖蒲の色

 明治三十三年、治安警察法により女性の政治参加が許されていなかった頃も機運がまったくなかったというわけではなかった。平塚らいてうらが結成した新婦人協会は改正の請願を議会へ提出しここで初めて女性の政治参加の自由を公に要求したと言える。

 大正十年にはキリスト教婦人矯風会にガントレット恒子らの婦人参政権協会が設置。二年後にはハヴロック・エリスの「女性間の同性恋愛」を訳した坂本真琴が参加した婦人参政同盟が結成された。関東の震災を助けるために結成された東京連合婦人会の呼びかけで大正十三年、婦人参政権獲得期成同盟会(のちに婦選獲得同盟と改称)が発足する。


「そいで、女性の権利いうのはあたいらに関係あるの」

 破れたストッキングを脱ぎ捨ててアヤメは言った。

 飛んできたそれを脛に受けて、マリアは身を固くする。

「客引きの邪魔しっ上に説教しとうと」

「私は、自らの身体を穢すような事はよくないと」

 マリアは食い下がった。が、アヤメの鋭い視線を受ける。

「自分の身体使って稼ぐこつ何が悪いんよ。皆しとう」

 アヤメは去っていった。

 時は昭和十九年。場所は鹿児島。今日はマリアは少し遠くの市場まで足を運んだ。その路地では多くの女性が男を誘って、蓆の下や廃墟の中で身体を売っていた。修道院で育ったマリアには、まだこの現実を受け止めることもできなかったし、説得する術も持ち得なかった。


 マリアは修道院で姉妹たちと共に、ガリ版刷りのチラシを整理していた。教会の前で配るための準備だ。

「ゆうやる」

 声がしたほうを振り向くとアヤメが立っていた。

「アヤメさん」

「ちょい居させて。警察に追われとう」

 アヤメは身を隠しに来たのだ。机に並んだチラシの束を覗き込む。

「なに配っとうと」

 チラシには『女性に参政の権利を』という文字がある。

「くっだらん」

 アヤメはチラシを叩いた。

「大事なことです。この国の未来のためにも」

「あっそ。あたいらには関係ないわ」

「関係あります。女性たちが自由になるために、この活動はあるのです」

 マリアは真直ぐにアヤメを見つめて言った。

「あたいが政治家決められるっ言うの」

「あなたも、政治家になれるんです」

 アヤメはしばし教会の天井を見上げ、頭を掻き、崩れたチラシを直した。

 それから教会の前で、シスターたちに混ざってチラシ配りをした。


 正午。

「主よ、今日の糧に感謝します」

 マリアは自分のパンをアヤメに与えた。アヤメは鼻を近づけて、小麦の香ばしい臭いをかぎ取る。

「半分でいい」

 アヤメは言うと指でパンを半分にちぎり、マリアの手に渡す。

「ありがとうございます」

「もともとあんさんのつろ」

 アヤメはパンを口に運んで、葡萄ジュースで流し込む。

 シスターたちは二人のやり取りを冷やかすでもなく、ただ黙々と糧を口に運んでいる。

「あなたに祝福を」

「そい言うのやめい。鳥肌といはだ立つわ」

 アヤメは腕を掻く仕草をしてみせる。

「一週間後、娼婦の一斉検挙が来ます」

 マリアは言った。

 廃娼を訴えるマリアの教会は県警とも懇意だった。

「いいこつ聴いた、ありがと」

「今からでも考えを改めて、神は許してくれます」

「国で稼げなくなったらカラユキサンにでんならぁ」

 アヤメは肩を竦めてみせる。

「それは本当に、あなたがしたいことなのですか」

 しわがれた声がした。シスター・テレサは席に着いたまま、良く通る声を発した。

「お答えなさい」

「あんた誰よ」

「主はいつも見ています。真に邪な行いとは、己の心に嘘をつき続けること。善き行いを邪魔する悪しき心と立ち向かわぬことです」

 食堂に静寂が満ちる。

「ゆめゆめ、お忘れなきよう」

 シスター・テレサはそう言葉を締めくくり、両手を組んだ。


 翌日、修道院に大勢の娼婦がやってきた。

 シスターたちは驚いて口々に祈りを唱える。

「主よ、この者たちに憐れみを……」

「哀れまれるために来たとちごっ」

 先頭に立つ娼婦が言った。

「アヤメ姉さんが政治家になれる言うたらしか。実現してもらおうやないか」

 娼婦たちは布を繋ぎ合わせた横断幕を広げた。そこには『薩摩アヤメ議員事務所』の文字が躍っていた。

 シスターたちは最初は戸惑っていたが、すぐに合点がいった。シスター・テレサが前へ出る。

「やりましょう」

 横断幕が教会の裏手に張られ、政治活動のための拠点が作られた。

 アヤメとマリアは公約の原稿作成にとりかかる。

「アヤメさん、公約……実現したい事などはありますか」

「まず警察の娼婦虐めをやめさせるこつ。それから子供のおる家に粉ミルクとおしめの配給。それから無駄な戦争を止める」

 羽ペンを振るっていたマリアの手が止まる。

「戦争を?」

「無駄も無駄。後に引けんのはわかるけどな」

 アヤメは笑った。マリアは深く頷いて、原稿に彼女の公約を書き入れた。

「私もかならず、あなたの力になります」

「今成っとう」

 文字の書けないアヤメにとってマリアの手は大事なものだった。


 薩摩アヤメの後援会はストッキングの色を揃えた。彼女の名前にあやかって青い菖蒲の色で染めた。「勝負ごとに勝つ」という願掛けもここには込められていた。

 街頭でチラシを配り、主に祈る讃美歌を歌い、貧困にあえぐ女性たちを助けた。彼女たちは地道に社会へ呼び掛けていった。所詮、娼婦のやることだと見向きもしない者もいたが、アヤメとマリアは活動を続けた。

 街頭演説中の事だった。

「アヤメさん、避けて!」

 群衆の間からモツ煮の残飯が飛んできたのだ。マリアがアヤメを押し倒し、代わりに残飯を被った。

「なにしよっと! マリア、大丈夫か」

「ええ、アヤメさんこそ怪我は」

「残飯で怪我するほど柔ちごっ。気にせんでよかに」

 騒ぎを聴きつけた人々がざわざわと寄ってくる。これを機会とみたのか、アヤメは声を張り上げた。

「薩摩アヤメ、薩摩アヤメをよろしく! たとえ残飯程度のもんでも、社会の役には立つんです!」

 マリアの頭にかかった御椀を自分の頭に載せて、薩摩アヤメは演説を再開した。


 修道院の寝所は娼婦たちを迎えてすし詰め状態だった。しかし彼女たちは楽しそうに身を寄せ合って眠った。

「こいなこつで政治家なれっとね」

「信じましょう」

 アヤメとマリアも一つのベッドに身を寄せ合っている。

「……もっとくっつき。今日寒いわ」

 雨の降りしきる、梅雨の夜だった。


 突然の轟音にアヤメは飛び起きた。

 空襲警報は鳴っていないはずだった。しかし轟音は続く。

 修道院の屋根に赤い光が入り込んで、焼け落ち始めた。

「逃げっ!」

 アヤメは叫んだ。

「起きて、早よっ、皆逃げっ!」

 シスターと娼婦たちを叩き起こして回るが、火の手は広がる。マリアがついて来た。

「アヤメさん!」

「あたいのこつよか、皆を外へ!」

 最後の一人を出口へと誘導する。その時、天井が崩れ落ちる。退路を塞がれた。

 アヤメは燃え盛る修道院に取り残された。

「もう誰もおらんな、よかこつじゃ……」

 炎の中でアヤメは呟き、よろめいた。

 その身体を受け止める者がいた。

「シスター・マリア……」

「私がここにいますよ。きっと、助けが来ます」

 炎に包まれながら、二人は抱き合う。

「ほったら、主にお祈りでもしてみるか」

「ええ……私たちは生きるために祈るのです。忘れないで」

「ああ、忘れん」

 炎が二人を飲み込む。


 昭和二十年六月十七日、鹿児島市内一円を襲ったこの空襲から二か月と二日後に日本は終戦を迎えた。

 その後十二月の衆議院議員選挙法の改正により、女性の選挙権が認められることになる。翌年の昭和二十一年四月十日には最初の女性参政権行使により三十九名の女性議員が誕生することになる。




  了



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