楓の日々
カエデは自顕流道場の娘だった。
男の子を欲しがった父によって三歳まで男として育てられた。
そのせいかはわからないが随分なきかん坊に育った。
カエデが四つの頃、餅つき大会。
「ないごて女が杵持ったらいかんと」
参加できないカエデは駄々をこねた。
「危ないよ」
「危のうても持っごちゃ!」
カエデは地団駄を踏んで母を困らせた。
カエデが五つの頃、宮相撲の日。
「ないごて女が出たらいかんと」
参加できないカエデは駄々をこねた。
「皆男の子ばかりよ。カエデ男の子好かんつろ」
「好かん! じゃっど出ごちゃ!」
カエデは泣いて母を困らせた。
実家の道場では女として唯一打ち込みに混ざるのを許された。手加減されることが大嫌いで、男の子たちを痣だらけにして泣かせていた。カエデも毎日顔や体に怪我をこさえたが、かえって誇らしげだった。
世の女たちがデモクラシーやモダン文化に熱を上げていた頃に、カエデは自顕ばかりを極めていた。
十の頃。カエデに義姉ができた。兄と結婚したのはケイという女性だった。
真っ白な服に真っ白な顔に、赤い唇と襟元だけが浮かんでる。カエデは嫁入りに来たケイを妖怪のように怖がったが、遠巻きにずっと見つめてもいた。
「兄も物好きじゃ」
カエデは赤飯を摘まみ食いしながら思った。
それからケイは道場の家族の一員になった。と言えればよかったのだが、母に祖母に小間使いのように使われて日に日に衰弱していった。
化粧を落として働くケイと、嫁入りの日のケイとがカエデの中では一致しなかった。
十一の頃。カエデが顔を洗っていた時だ。
ケイが、ふらり、とカエデの前に現れた。
「どげんし、幽霊の姉さん」
カエデはあだ名でケイを呼んだ。ケイは幽鬼のごとき立ち姿で、呟いた。
「自顕教えてくじゃすか」
「姉さん、自顕習いごちゃっ?」
「ああ。自分の手で……」
あかぎれだらけの手を差し出して、ケイは言った。落ちくぼんだ目でカエデを見つめている。
カエデの中に眠る、薩摩おごじょの魂に火が付いた。
「自顕の前に、体じゃ!」
カエデはケイの腕を掴んで医者の所まで走っていった。栄養失調と肌荒れに効く薬を調合してもらい、それをカエデの寝床に隠した。代金はカエデの小遣いを奮発した。
「仕事の合間みて毎日おいの部屋に来っ。自顕叩き込むど!」
カエデが言うと、ケイは微笑んでいた。
毎日カエデはケイに薬を飲ませ、ついでに自分が食べ残した芋や蜜柑を差し入れた。ケイはみるみる良くなって、仕事をしていても木刀が握れなくても自顕の話ができるだけで嬉しそうにしていた。
「そろそろ木刀持つど」
カエデは厳しい顔つきで言った。
「じゃっど、道場には立てん」
ケイの表情が曇る。
「裏庭で稽古つける。見つからん」
二人は裏庭に出た。
道場が男たちでいっぱいになるのを待って、裏庭で稽古をつけた。大声を出してもそれより大きな猿叫が響くため、気付かれなかった。
厨での、カエデの母と祖母の会話。
「カエデ、最近稽古に来んね」
「よかよか。あれもおなごらしう成ったいうこつじゃ」
カエデの母と祖母はそんなことを言っていた。
それを聴いていたケイは木刀を隠して厨に戻る。
「ケイさん、なにしてたの」
「すいもはん」
ケイは小言も気にならなくなっていた。
ケイの自顕は上達していき、一息で二十も丸太を叩けるようになった。
十二の頃。カエデが言った。
「腹が変じゃ」
ケイはカエデを抱えて医者の所まで走っていった。カエデの脚に赤い血の筋が流れていた。
「月のものですな。栄養をよく取って大事になさい」
医者は月経帯をすすめた。代金はケイの財布から出した。
「お母には言わんで」
帰り道、カエデが言った。
「ないで」
「あてがまだ男になれる思っとうと」
「ほがなことないよ。喜んでくれつろ」
ケイに説得されてカエデは母と祖母に報告した。その日の夕食はまことに旨い赤飯だった。
翌日の裏庭でのこと。
「………」
「どげんし、カエデちゃん」
カエデはもじもじと指をこねている。
「もう幽霊の姉さんではなか」
たしかにケイの顔色はすっかり良くなって、嫁入りに来た頃の美人に戻っていた。
「ケイでいいと」
「恥ずかしか」
「呼んでくれっと、嬉しいわ」
「わかった」
カエデはケイと呼ぶようになった。
ケイの自顕は上達していき、一息で三十も丸太を叩けるようになった。
十三の頃。道場破りがやってきた。
国中を周って剣術を試して回っているという武蔵気取りの若者であったが、道場の男たちは誰も敵わなかった。看板を持っていこうとする武蔵気取りの背後に、ケイが現れた。
「手合わせ願う」
割烹着を着た女優髷の女に、武蔵気取りはしかし油断することなく構えを取る。
「キェエ!」
大上段からの鋭い一太刀、避けられてももう一太刀。さらにもう一太刀。武蔵気取りは脇を狙うが、ケイは柔軟に避けて攻撃の手を止めぬ。息を切らすことなく五十太刀、振り切る頃には武蔵気取りは諸手を上げて倒れていた。
道場の男たちは口をあんぐり開けてケイの自顕を見ていた。
道場破りの一件で、ケイは家には居られなくなった。
「私はねえ、自顕を習えば男になれる思うとった。好いた子を娶れる思うとったとよ」
最後の夜にケイはカエデに言った。
「じゃっどちごった。そいが解っただけでん良か」
カエデは黙って聴いていた。
「あてが行っても忘れんで、カエデちゃん」
ケイの言葉に、黙ったままカエデは頷く。
ケイは実家へ戻っていった。美しい顔のまま。
カエデは心に空洞ができたことに気付いた。三日三晩大きな声で泣いて、母を困らせた。
了