高天原にて:あるいは伝説の後日談
機織女が死んでしまった。
アマテラスはもう限界だった。
力ある神が皮の剥がれた馬を担いで始末する。機屋の天井を塞いでいく。
しかしかわいい機織女はもう戻ってこない。
アマテラスは天岩戸へと籠ってしまった。
スサノオは深く反省していた。と言いたいところだが、これがまったくだった。根の国へと行く前に高天原の姉上に別れの挨拶をしようとしたら侵攻と間違われ、身の潔白を示す誓約がうまくいってすこし調子付いただけではないか。田んぼを壊したり溝を埋めたり御殿に糞をまき散らしただけではないか。それを姉上は許してくれたから、今度は機屋の天井に穴をあけて、皮をひっぺがした馬をちょっと投げ入れただけではないか。なのに姉上は籠ってしまった。スサノオは神逐に納得していなかった。
それはそうとアマテラスは籠ってしまった。
太陽の神である彼女が籠ってしまっては、世界は真っ暗だ。
神々は大いに困っていた。
天安之河原でオモイカネが言った。
「これで誘き出しましょう。名付けて、高貴な神作戦」
オモイカネは頭が良かった。
天の岩戸の前で鶏を何十と集めて鳴かせた。捧げものを並べて祝詞を上げた。そして桶の上でアメノウズメを踊らせた。神々は歌い始めた。
世界は真っ暗闇で何もわからなかったが、皆大いに楽しんだ。勿論酒も大いに入っていた。
「なぜそんなに楽しんでいるのですか」
アマテラスが岩戸の向こうから呼び掛けた。
この軽快で繊細なステップはアメノウズメのものだ。彼女の芸術的な肢体が舞い踊るさまが見れないなんて、とアマテラスは悔やむ。
「アマテラス様より高貴な神がいらっしゃったので、皆でお祝いをしております」
岩戸が少し開いた。岩戸の近くにいた神はすかさず鏡をその隙間に向けた。
はて、この美貌は誰だろうか。アマテラスは驚いて岩戸をもう少し開く。
「それ今だ!」
タジカラヲがアマテラスを引っ張り出した。
世界に光が戻り、神々は大いに喜んだ。
アマテラスは呟いた。
「我、こんなに美人だったなんて」
◆
アマテラスは日がな一日、鏡を見て過ごしている。
「姉上、仕事は大丈夫なのですか」
ツクヨミが話しかけた。アマテラスは鏡を見たまま答える。
「父上が黄泉国の穢れを漱いだ時に生まれた我が、これほど美しいとは思わなんだ」
「条件は皆一緒です。馬鹿なことを言ってないで仕事をしてください」
アマテラスには高天原を治める大事な仕事がある。
「ツクヨミ、やっておいて」
「なりません」
「また岩戸に籠りますよ」
「それもなりません。しかたないですね」
ツクヨミは姉に甘かった。
二柱分の仕事を任されたツクヨミは、案の定、過労で倒れてしまった。
アマテラスは大いに嘆き悲しみ、鏡を持ったまま天岩戸に籠ってしまった。
天安之河原でオモイカネが言った。
「これで仕事をして貰いましょう。名付けて、外の者作戦」
オモイカネは博識だった。
天の岩戸の前で鶏を何百と集めて鳴かせた。捧げものを並べて祝詞を上げた。そして二重の桶の上でアメノウズメを踊らせた。神々は歌い始めた。
世界は真っ暗闇で何もわからなかったが、皆大いに楽しんだ。酒も前回以上に入っていた。
岩戸が少しだけ開く。
「うるさいのだけど」
そこへ差し入れられたのは一輪の水仙の花。
捧げ物かと思われたその花が、口をきいた。
「χαῖρε、お嬢さん。私はナルキッソス。自分を愛するあまり花となってしまった悲しき美少年です」
自分で美少年と言い切ったこの水仙は、己の悲しき顛末をアマテラスに話し聴かせた。
自分の美貌を過信するあまり神々の怒りを買い、多くの者を傷つけ、ついには泉で見た自分の姿に一目ぼれして何も食えずに死んでしまった、と。
「ですから、お嬢さん。自己愛もほどほどに」
「それもそうね」
アマテラスは岩戸を開いた。タジカラヲが腕を掴んで引っ張り出した。
「痛いのだけど!」
アマテラスは少し怒った。
◆
アマテラスは仕事をするようになった。鏡を見るのも一日に少しだけ、自分へのご褒美程度だ。
「姉上が戻って来てくれてよかったです」
ツクヨミは自分の分だけの仕事を抱えてそう言った。
「すぐ鏡を見るクセはどうかと思いますが」
「なによ、だったら何を見たらいいのよ」
「私とか」
ツクヨミは言った。アマテラスは思わずツクヨミを見た。
「冗談です」
――さて、皆様はご存じの通り、天岩戸伝説の元と言われる日食が起こるのは、地上から見て月が太陽を覆い隠すためである。――
天岩戸は注連縄が張られたが、時折アマテラスとツクヨミの姉妹が籠って仕事をしているのを見たという神がいる。
了