人力車の娘
小豆色の袴を翻して、フミは自転車に飛び乗った。
坂道を降りていくと門から飛び出したケイが並走してくる。
「おはよう」
「おはよ」
女子師範学校へと続く道を二人は滑り降りていく。
桜島を望むこの道はフミの好きな風景だった。坂を降りきった麓から、一台の人力車が並走してくる。珍しく女性が引いている。額から汗が流れ落ち、後ろで一つ結びにした髪が馬の尻尾のようになびいている。
「………」
フミはその姿に見惚れて自転車の操作を誤った。崩れた体勢を戻そうとする。
「あわ、わ、わ」
「なにしよ、フミ」
ケイが笑う。坂の位置エネルギイを使って人力車を追い越して、二人はどうにか無事に校門へと辿り着いた。自転車を置いて校舎へ入り、教室へと滑り込む。
「みなさん、おはようございます」
生徒たちは先生に礼をして、今日の授業が始まる。
裁縫をしながらケイが呟いた。
「あーあ、あたい、自顕習いごちゃ」
「ないで」
「男になるわ」
なぜケイが男になりたがっているのか、フミには検討が付かなかった。
「ケイどんならよかにせになれそうじゃ」
声を太くして冗談を言う。教室からくすくすと笑い声。しかしケイは笑っていない。
「あんた、好きな子おらんと?」
じとり、とフミを睨みつける。フミはすこし考えて、ケイの肩に抱き着いた。
「寂しいこと言わんで、私ら、ずっと友達ったい」
「調子のいい子よ」
ケイがようやく笑ったので、フミは満足そうに彼女の頬に頬をこすりつけた。
今日は土曜日。彼女たちは体操着に着替えて体育館へと移動する。
ダンスを習ってめいいっぱい体を動かした後は、また教室へ戻る。国語と倫理の時間は眠気と戦う生徒が多かった。
帰り道。
フミとケイが甘味処に寄ると玄関口に人力車の娘がいた。彼女は含んでいた水を飲み込む。
「こんにちは、朝会うたね」
フミは自転車から降りて挨拶する。その後ろをケイがついてくる。
「あっちいき」
人力車の娘は言った。
「あんたらみたいな学生好かん」
「学生やないならいいと?」
フミは倒れそうになった自転車を立て直して言う。
「私、来年には卒業すっ。先生なるったい」
「なれるわけなか。嫁入り修行しかしとらんに」
ケイがフミの袖を引いた。
「学校は好かん。あっちいき」
結局二人はあんみつにはありつけず、自転車を押しながら帰路についた。
「怖かぁ、あんたフミ、無茶しよっと」
「どげん無茶ぁ。挨拶しただけったい」
ケイの言葉がフミは不思議だった。怖い子などではないと思うのだけど。
◆
学校のない日、フミは人力車の会社をたずねた。
「こんにちはぁ」
「はいはい」
声をかけると事務員の老いた女性が出て来た。
「おなごの車夫居っと? ん、おなごけ車婦かいな」
「ああ、社長の娘のフミカちゃん。もうすぐ帰るよ」
事務員は関西訛りで言った。
「フミカ……」
フミはその名を繰り返す。
仕切りを立てただけの応接室でお茶をいただいていると、フミカが戻ってきた。
彼女はフミを見て露骨に顔をゆがめる。
「なんしよ。帰っ」
「フミカちゃん、私の名前、フミいいます」
「嗅ぎ回ったと? げざらし」
「名前ほとんど同じや。わっぜ偶然」
「帰っ」
「友達なろ」
フミは右手を差し出す。フミカはそれを無視して給湯室で水を含み、また出て行った。
「気難しい子ですまんなぁ。お客の前ではああならんのやけど」
「……こいで、働くことってできます?」
フミの言葉に事務員は目を丸くする。
フミは支木を押した。
「お……もっ!」
放課後から門限までの二時間、フミはフミカの会社へ行き、車夫としての基本を習った。
「わっぜ重かぁ。すげなぁフミカちゃん」
「あの子も引けるまで苦労したと。一年かかったかねぇ」
「一年!? 私にゃ無理やぁ」
しかし毎日フミは通い、一週間後には空の車を引ける程度に上達した。
それからまた一週間後。車夫の法被をフミは貰った。
「お客取ってくると」
フミは外へと繰り出した。
いつもと景色が違って見えた。桜島が夕日を浴びて輝いて、鹿児島の街に命を感じた。
「こらこら、乗せてって」
呼び掛ける声がしてフミは立ち止まる。
「はいよ!」
その日はお客を3人、送り届けた。
「あ、フミカちゃん!」
甘味処の前で二人は鉢合わせる。フミカは含んだ水を噴き出して、口を拭う。
「なんしよっと」
「この仕事大変ねぇ、じゃっど楽しい!」
フミは法被を広げて回って見せる。
「好きでやっとうわけなか」
フミカはそっぽを向いて答えた。
「車夫も好かんと?」
「あたい、おっ母おらんとよ。家を支えて行かなあかんし、お父の真似して稼ぐことしか知らんと」
フミカはなんでもないことのように答えようとしていたが、その声は震えていた。
「同じ。私もお母さんおらんと」
フミは答えた。
「薩摩の娘、みんなお母さんから教養習うと。羨ましかばっ、学校ではお母さんおらん子も教えて貰えっとよ」
「………」
「たっで、私は先生なりたか。誰もが通える学校、作りたか!」
「勝手にし」
フミカはそう言って去ってしまったが、フミは悪い気はしなかった。
応接室でフミが軽羹とお茶をいただいていると、フミカが戻ってきた。
「こい、見ぃ」
フミカが帳面を置いた。そこには数式が書かれていた。
「こい、フミカちゃんが書いたと?」
「先生なる言うよか、教えられっと」
「フミカちゃん……!」
フミは思わずフミカを抱きしめそうになったが、避けられた。
「きっがわり」
それからフミはフミカの勉強を見るようになった。
フミカは独学だったが、学校に行っていれば中の上にはいられるほどの成績を残せるとフミは感じた。
◆
フミは裁縫をしながら言った。
「たっで、フミカちゃんが学校通えるように奨学金すすめたったい」
「ほうか」
ケイが答える。
「借りられたら、ううん、がっつい借りられるはず。短い間ばっ同級生なれるかも」
「ほうか」
「ケイ、どげんしたと?」
そっけない相槌に違和感を覚えて、フミはケイの顔を覗き込む。
「フミのそい無神経とこ、好かん」
「うんだぁー、嫉妬っとうとぉー?」
「やめ!」
ケイが叫んだ。
教室が静まり返る。
「そいフミカと、一度話つけったい」
ケイが言った。
放課後、フミカの会社へケイとフミはおとずれた。
応接室で軽羹とお茶を出されたが、ケイは腕を組んだままだ。
「ケイちゃん、喧嘩はいかんよ」
「喧嘩ちごっ、決闘じゃ」
「余計にいかんよぉ」
フミカが戻って来た。
ケイがわざわざ縫い直した手袋を投げつけようとしたその時、フミカは崩れ落ちた。
「どげんした、フミカちゃん」
フミが駆け寄る。
「……売上盗られた」
「え……」
よく見ればフミカの体のあちこちに痣が見える。フミカが膝を抱えて座る。
「あたいが男やったら……悔しいわ……」
彼女は呟いた。
それを聴いたケイは、外へと飛び出した。
「犯人どこ、今なら捕めらるかも」
「無茶やケイちゃん」
「どげん無茶! こげな理不尽あってたまっか!」
ケイはフミカを背負った。
「顔教えっ! 地の果てまで探す!」
「ケイちゃん……」
「………」
それから日が暮れるまで三人は街を走り回った。
泥棒は捕まらなかったし、門限を破ったことで三人ともこっぴどく叱られたが、フミは悪い気はしなかった。
◆
翌年の春。
袴を履いたフミカが女子師範学校の卒業式にいた。奨学金で入学を果たした彼女は目を瞠るほど成績を伸ばし、卒業生代表として登壇を許された。
「……この世に女子教育が広く行き渡ることを願って、挨拶とさせていただきます」
拍手。
卒業式が終わり、桜島が見える校庭で三人は再会した。
「忘れんで」
「うん、忘れん」
「忘れたら怒るよ」
三人は互いの顔を見合わせて、それから笑った。
◆
フミカは父の会社を継いだ。女性社長として社員を取り仕切った。
ケイはお見合い相手と結婚した。日本初の婦人警官が生まれるには昭和二十一年まで待たねばならない。
フミは東京へと渡った。そこで教師として生涯を生きたというが、記録には残っていない。
了