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火の中でも

 人の流れとは逆向きにふらりと歩いていく影があった。

「先いっきゃん」

 ウメは乳をやっていた甥を妹にあずけ、頭巾の紐を引き締め直してその女を追った。この空襲警報が鳴り響いている時に登山客などではないはずだ。

「なにしよっと」

 女は振り向いた。見た目には二十後半かそこらで、顔に生気はなくやつれていたが、ぞっとするほどの美人だった。

「会いたかよ」

 女は呟いた。涙の筋が両頬に光って見えた。

「来っ」

 ウメは女の手を引き、防空壕へと走った。

 隅の隙間にウメとその女はどうにか入り込んだ。やがて轟音がして、身を寄せ合う。

「あての子、皆いきやったぁ」

 彼女は子供を亡くしていたようだった。

「ないごて逃げん」

「お山さ登れば会えると」

「会えるわけなか。こい食っ」

 ウメは懐に忍ばせていたふかし芋を女の手に握らせる。女は芋を握ったままさめざめと泣き始めた。

「子供なんぞまた産めばよか。名前は? どこの生まれたい」

「ハナ、生まれは桜島」

「わしはウメ。生まれは愛媛よ。海ば渡って嫁にきたぞね」

 里言葉を混ぜて言った。それからウメは夫とのなれそめを語って聴かせてやった。

「温泉宿で飯盛りしよったわしを今ん夫が見初めたんよ。今思えば他の女知らんかったんやろなぁ。軍人さんやし嫌とはいえんかったけんど、わしも悪い気はせんざった」

「軍人さん」

「せや。内地やけどな」

「そう……」

 ハナは膝を抱えている。

「あんさんは? 夫とはどう知りおうた」

「渡って来たんよ、海を、あの人は」

「なんね、わしのとこと同じや」

 やがて空襲が収まり、ウメたちは地上へ出た。

「ハナ、わしの家すぐ近くやけん、いつでも来てよ」


 ウメが竈の番をしていると、ハナが野草を抱えてたずねて来た。

「ごめんなんし」

「よう来たねぇ、ハナ」

 煤だらけの顔でウメはハナを出迎える。

「迷ったとちがう? わしがろくな案内せんけ」

「すぐわかりもした」

 ハナは頭を振る。

 それから竈の番を交代交代、二人はやった。ハナが時折、ぼう、とするのでウメは彼女の横顔を見つめる。

「火ぃ怖いん?」

 ウメが言った。竈の炎を瞳に映して、ハナは答える。

「思い出しとう」

「そうか。夕飯食ていきよ。うちは余裕あるけん」

 ウメはそれ以上聴かなかった。

 大根葉を混ぜた麦飯、野草の味噌汁、漬物、それからふかし芋を二人は皿に並べる。

 子供たちを見ていたウメの妹が戻って来た。

「うんだウメちゃん、今日は豪勢やね」

「お客様の前よ、こいがいつもね」

「こんにちはぁ」

「……こんにちは」

 ハナは委縮して答えた。

「遠慮せんでよかで。助け合わな」

 それからハナは大根や茸を持ってウメの家をたずねるようになった。


 ハナが泊まったその夜、ウメは子供たちを寝かしつけてから、話した。

「実家へ挨拶行ったその日にね、うちの人ったら『妹も欲しい』言うたんよ」

「え」

「よっぽどうちの顔好きみたい、トメも一緒に面倒見る言い出しよった」

 ウメにとってはどこででも通じる笑い話だ。しかしハナの反応は違った。

「いいなぁ」

 彼女は吐息を吐くように言う。

「そんなにいいぞな」

「あても、姉さんと一緒がよかった」

「よほど仲が良かったんやねえ。わしらなんか喧嘩ばかりよ」

 一方的にウメは話し続け、ハナの相槌が返ってこなくなったころに眠った。


 ウメは目立つようになった腹を抱えて、竈の番をしていた。

「赤ちゃん」

 ハナが呟く。ウメは笑う。

「なにもこんな時にこさえんでもよかよね」

「ううん、生まれてくる子に罪はなか」

「それもそうやね」

 彼女に諭されて、ウメは竈の炎を見つめる。

「あんたん家、燃えたん?」

 ウメはたずねた。しかしハナは、窓の外を見つめて言った。

「ううん、あてが言うたとよ。燃やしやんせ、と」

「……なんや、剛毅な話ぞね。あんさんよう頑張ったよ」

 ウメはそれだけ言った。


 雨の降りしきる梅雨の夜、その空襲はあった。皆寝入っていて警報もろくに鳴らなかった。

 市内一円を焼き尽くす焼夷弾が降り注ぎ、ウメの寝床も被害に遭った。

 たちまち炎に巻かれる。気付いたウメは子供たちを抱えて布団を飛び出したが、すでに退路は炎に塞がれている。

「大丈夫や、大丈夫やけん」

 声すら出せずにいる子供たちの背中をさする。

 ふと、炎の向こうから人影が見えた。ハナだった。

「来っ」

 水に濡れた手はウメの手を握った。二人と子供たちは燃え残った廊下を走る。

「危ないっ」

 柱が倒れてハナの顔を襲った。彼女はそれを左手で払いのける。

「はやく」

 ハナは腕を引く。ウメはそれに従った。

 二人は炎の中を抜け出した。別の部屋で寝ていたトメが我が子を抱えて雨に打たれながら待っていた。

「よかったぁ姉ちゃん、タケシ、カズオ、よかったぁ」

 トメは子供たちを抱き上げる。ウメは荒れた息をおちつかせながら、ハナのほうを向いた。

「ハナちゃん、あんた顔……」

 ハナの額から右頬にかけて、大きな火傷跡がついていた。

「あなたのまことのこであれば……」

 ハナは糸が切れたように、気を失った。

 火の粉と雨がまじりあって降る。


 ハナを抱えたウメたちは命からがら防空壕に入って、そこで彼女を医者に診せた。

「生きよるのが不思議たい」

 ハナの全身をみて医者は言った。水ぶくれがそこかしこにできて左手も焼けただれていた。ぞっとするような美しさは影も形も消えて、ただ命が尽きるのを待つだけに思えた。

「どうかお願いします。お願いします」

 ハナが目を開いた。

「ああ、まだいかれん」

「ハナっ、ハナ、いったらいけんよ、ハナっ」

 ウメはハナの右手を握る。自分を、子供たちを助けてくれた腕をしっかりと握る。

「ああっ……」

 ウメは自分の腹を抑えた。

「うんだもしたっ、こげんときにお産かっ」

 医者はわたわたと慌てて、壕の中から助産師を探しはじめた。

「赤ちゃん」

「そうや、赤ちゃん生まれるんよ。ハナも生きなあかんよ」

「赤ちゃん……」

「生きるんよ、ハナ、生きるんよ」

 二人は手を握ったまま声を掛け合った。



 それから二か月後、玉音放送が流れた。ウメたちには難しい言葉だったが、戦争の終わりを知らせるものだというのはわかった。

「ごめんなんし」

 顔に火傷を負ったハナが、ウメの家をたずねて来た。

「よう来たねぇ」

 ウメは生まれたばかりの子に乳をやりながら、ハナを出迎えた。

「赤ちゃん、生きとう」

「そうぞな。生きとうよ」

 まだ名前のない子供はハナを見た。火傷跡を怖がる様子もなく、小さな手にハナの指を握る。

 ハナはくすくすと笑い、あの日の言葉の続きを呟く。

「あなたのまことのこであれば、ひのなかでも」

 ウメにその言葉の意味はわからなかったが、子供の成長を祝うものだというのはわかった。


 ハナとウメはその後も交流を続けて、ウメは我が子に『ハナ』の名を貰った。


  了


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