ケンムン少女
奄美大島にはケンムンという妖怪がいて、時に人間の魂を抜き取るという。
◆
フユが海辺を歩いているとその子供は居た。真っ二つに割れた粗末な舟を引っ張って、なにがしたいのかわからないが、とにかく頑張っている少女にフユは声をかけた。
「どげんし」
少女は振り返ると、はっ、と驚いたような顔をしていた。
「きょむらん」
フユには聴き馴染みのない言葉だった。極端に細い手足で腹が膨れている。栄養失調の特徴を備えていた。
フユは少女を抱えて家へ連れていき、父に診せた。
「奄美から渡って来たろ」
フユの父はそう言った。麦飯と漬物を与えて様子を見た。
「まぁさん」
言葉はわからないが喜んでいるようだった。
「ありがっさまりょうた、きょむらん」
少女は匙を器用に使い、綺麗に食べ終わると頭を下げた。食堂から病室へ案内する。
「しばらくこいで暮らし」
「はげー」
布団を整えて枕に頭を置くようにフユはうながした。少女はおそるおそる布団にはいり、そして歯を見せて笑った。
「ありがっさまりょうた、きょむらん」
「フユです。私の名前、フユ」
フユは自分の名を教えた。
「フユ、ありがっさまりょうた」
フユは今年二十一になる。嫁には行かず、父の医院を手伝って日々を過ごしている。海辺のこの医院は彼女が来るまで彼女と父と、亡くなった母だけの世界だった。
少女の名はわからなかった。ひとまずユキと仮の名をつけて呼ぶことにした。
ユキはよく笑い、あらゆるものに興味を持った。火鉢に手を突っ込みそうになったのを慌てて止めた。
「火だよ。火っ」
「ひー、ひぐるさんふえつこうね。ちゅぶるいい」
ユキは歯を見せて笑った。
病院着だけでは寒かろうと、フユは半纏をかしてやった。
「ありがっさまりょうた、フユ」
感謝の言葉だけはフユはわかるようになった。ありがっさまりょうた。ありがとうございます。
フユは言葉を理解しようと、音を手帳に書き込む。
子供がする手遊びをユキに教えて、体の部位の呼び方を調べてみた。
「ちゅぶる」
頭に手を乗せる。
「みぅ」
自分の目を指さす。
「ちぃぅ」
手を握ったり開いたりしている。
「ちゅぶる、頭。みぅ、目。ちぃぅ、手」
「あたま、め、て」
ユキは言葉を復唱する。これは彼女が覚えるためでもあるのだと、フユはその時気付いた。
「わた、いひひ」
腹を太鼓のように叩いて笑う。
「わた、腹」
「はーら」
ユキは言いながら、手帳を覗き込んだ。さらさらとした髪がフユの鼻をくすぐった。
「はくしゅんっ」
「はくしゅん? はくしゅん!」
フユのくしゃみを真似てユキが言う。それから、歯を見せて笑った。
ユキの手がフユの胸に触れる。
「もねぅ」
彼女は言った。
「フユもねぅ、わるさ?」
フユは幼いころから肺を患っていた。母親譲りの病だ。なぜ彼女がそれに気付いたのか。
「だいじょっ」
「だいじょ、ん、だいじょっ」
頷いてユキはまた笑った。
ユキが入院して一か月後。
フユが書類を整理していると、とたとた、と廊下を走ってくる音がした。
「外!」
ユキはこちらの言葉も理解し使い始めていた。窓の外を見ると、ちらちらと雪が降っていた。
「雪だ」
「我?」
「いいや、外に出てみ」
フユはユキの手を引いて庭へ出た。頬に冷たい気配が当たって、溶けていく。
細かな結晶が白く集まり、地面へ吸い込まれては、消えていく。
ユキは庭を走り回り、落ちて来た雪を口の中へ迎え入れた。
「腹くだすよ。わた、くだす」
ユキの言葉で忠告するが、彼女は悪戯めいて笑って、雪を食べ続けた。
多少なら免疫になるだろう。期待通り、彼女の身体は頑丈で入院中どこかを悪くすることはなかった。
桜島が噴火した。噴煙と落石はあちこちに被害を出し、医院にも怪我人が運び込まれた。
「ユキ、すまんけっ部屋貸しやんせ」
彼らを世話する様子をみて、ユキはなにを思ったのか包帯の上から傷口に両手を当てた。
「だいじょっ、だいじょっ」
怪我人の表情が穏やかに変化していく。
それから怪我人が運び込まれる数は落ち着いたので、皆ほっとした。ユキの部屋にいた者たちは不思議に回復が速かった。
ユキがこちらの言葉をほとんど覚えてしまった頃。
「ユキ、看護学校へ行ってみんか」
父は言った。ユキは頭をかしげていた。フユは彼女の肩を抱く。
「厳しい所だ。無理には言わん」
「そうやユキ。こんに居っていいよ」
ユキは父の顔と、フユの顔を見比べて、それから言った。
「いく。いってみたか」
好奇心を止めることはできなかった。
フユは彼女にコートを貸した。前を合わせてやると彼女は歯を見せて笑った。
「ありがとう」
「聴きたいのだけど、きょむらんてどげん意味」
訊ねると、ユキはもじもじと両手を揉み合わせてフユに囁いた。
「きれいな人、会うた時から思っとうと」
気付けば、フユはユキを抱きしめていた。ユキはフユの頭を優しくなでていた。
「ユキ、忘れないで」
「忘れんよ、フユ、いつも思っとうと」
駅までユキを見送る。車窓から手を振り続ける彼女に手を振り返した。
フユは、ユキが来る前のフユに戻れなかった。魂はユキに取られてしまったのだ。
三年が経った。
フユは伏せることが増えて、その日も自分の部屋で寝ていた。
天井を眺めていると、板をすり抜けて白い粉雪が落ちて来るような気がした。それを彼女が口で迎え入れる。
「ユキ……」
父はもう長くないと言っていた。母譲りの病で、元より二十を越えて生きていたのが奇跡だったのだ。ユキのためにフユは生きていたのだろうか。それでもユキを見送らなければならなかった。あの時、自分のエゴイスムのために彼女を引き留めることはフユにはできなかった。
ふと、ユキが怪我人にやっていたことを思い出す。
フユは胸に手を当てて、機能を失いつつある肺を意識した。
「だいじょっ、だいじょっ……」
フユは呟く。
ユキが近くにいる気がして、フユは眠った。
◆
小高い丘の上にある墓地に、ひとりの女性が立っている。
看護学校を卒業したばかりの制服姿で、ユキは一つの墓に寄り添う。
「ただいま」
線香を上げ、花束を置き、彼女は手を合わせる。
「マネマネナキャバウガディ、カミヌヒキアワセニ……」
線香の煙が高く上る。
ユキは天を見上げて、歌いはじめた。
ユキの故郷に伝わる歌だった。恋しい人を想う歌は、墓地に響き渡る。
歌い終わって、彼女は墓石の記名に指を這わせる。
「けもどっ」
彼女を呼ぶ声がする。以前より皺の濃くなった医者の男だった。
指を放し、ユキは墓地をあとにする。
了