苦しい温泉旅行
私が畳の上を転がっている間に、アオイは髪を纏めて浴衣に着替えていた。
「先行くよ」
「待ってぇ」
浴衣と帯を抱え、私は彼女の後をついていく。
私たちは桜島の温泉宿に来ていた。
とくにどちらから言い出したわけではないが、たまには身体を休めるのもいいだろうと。
脱衣所で二人は一糸まとわぬ身体になる。
などと書いてはみたが、周囲にはご年配や子供もいるので変な雰囲気になるわけではない。左手首にはコインロッカーの鍵も巻いてあるし。
まだ小さな男の子が背後を走っていく。
「転ぶよっ」
母親がその後を追っていく。
私たちは母子の背中を見て、顔を見合わせ、笑う。
洗い場で汗を流し、温泉に足先から浸る。
アオイは髪を洗っているので、私が一足先に。
海を望む風景は湯船との境目が消えて、巨大な温泉に浸かっているかのようだ。
学生だろう若い二人が、からからと笑いながら話し込んでいる。
耳をそばだてようとしたら髪を洗い終えたアオイが来た。
「よそ見しとう」
愛する人以外の身体など、どうでもいいのだけど。
「してないよ」
湯船の底でこっそりと手をつなぐ。青い指同士がからむ。
嫉妬する彼女がかわいかった。
彼女に付き合って、すこし長湯をしてしまったかもしれない。
私は浴衣の前をはだけたまま扇風機の風にあたっていた。
アオイが来る。
「ナプキン持っとうと?」
「あるよ」
私は答えた。月の物が来てしまったのだろう。
「余分に持って来ちょるし使い」
「あいがと」
巷でまことしやかに囁かれているが、一緒に暮らしていると周期が似てくるという現象がある。私は自分の尻を触ってみるが、湿った気配はない。
「なんしとう」
アオイが笑う。
「気になるやろ」
「変な格好なっとる」
彼女は髪の水分をタオルで落としながら、私の腕に背中をつける。
「くっつきすぎやない?」
私は言った。
「誰も見とらん」
私たちは扇風機の前でしばらくそうしていた。
それからドライヤーを手に取って、私はアオイの髪を乾かしてやった。
「髪、伸ばしちょるん」
ブラシで整えながら私はたずねた。
「ん。なんとなく」
「そうか」
部屋へ戻って夕食を食べる。
「うーん、お刺身おいしい」
アオイは無邪気に笑う。
「瀬戸内海の鯛には負けるわ」
私は意地の悪いことを言ってみる。
「なん? そんなおいしいん?」
「渦潮で鍛えられた魚やで、歯ごたえが違うけん」
「えぇー、食べてみたかぁ」
私は瞬きをして、その言葉を言う。
「いつかウチの実家、来たらええ」
アオイは微笑んで、刺身をもう一切れ醤油皿に運ぶ。
「そのうちな」
まだ、彼女との関係は両親に話していない。
とっくに気付かれてはいるだろうけど。
「外、散歩しよか」
私は提案した。
鹿児島市と桜島のわずかな間を繋ぐフェリーが夕日に照らされている。
公園を歩きながら、私は海を見ていた。
「本当はね、なんとなくとちごっ」
アオイが言った。
私は彼女を見る。
「なにが」
「髪、伸ばしとう理由」
彼女の顔が赤く色づいていた。
「長い方がミドリの隣に似合うかと、思うたと」
私は、思わず噴き出した。
「ないごて笑うとー」
「だって、あんまりかわいくて」
「気にするやろー、当然ー。そんなに笑わんでっ」
私は呼吸を整えて、空を見上げる。
「ウチも伸ばそうかな」
「いかんよ」
「なんでぇ、一緒にロングヘア―なろうや」
「ミドリはそのままでいいと」
へそを曲げた彼女に付き合って、少し湯冷めしたかもしれない。
公園にある足湯で身体を温めた。
夜。
布団の中で、アオイの横顔を見つめる。
「見すぎ」
「よそ見はいかんのやろ」
私は意地の悪いことを言ってみる。
アオイは点けっぱなしのテレビを観ていたけれど、布団にもぐってしまった。
「息苦しゅうないん」
「ミドリが見るけ」
私は布団の上から彼女をくすぐる。
「やめぇー」
うめき声をあげながら、アオイは身体をよじる。
布団の端から手が出た。その手を掴む。
青い指同士が絡む。
私はたまらず、布団を被ったままの彼女を抱きしめた。
「……苦しい」
アオイは呟く。
布団から頭を出して、ようやく彼女と目があう。
しばらく見つめ合った後、どちらからともなく目を瞑った。
唇に触れる感触。
目を開く。アオイは私を見つめていた。テレビの光が二人を照らす。
「……まだ苦しい」
「なんで」
「わからん」
私はもう一度、唇を重ねた。
朝。
私が布団の中に閉じこもっている間に、アオイは着替えて荷物を整理していた。
「もう行くよ」
「待ってぇ」
私はあわてて浴衣から普段着に着替えて、部屋に散乱した持ち物を集めて彼女についていった。
「忘れもんないね」
「ん」
二人の言葉はかつて阿波と薩摩で分かれていたが、今は少し混ざりあっている。
「なん」
にやついている私に気付いたアオイが振り返った。
「なんでもない」
「気になるわ」
私は黙っていた。彼女にも教えない秘密だ。
いつかは、実家に彼女を連れていこう。友達じゃなくて、恋人として。
宿をチェックアウトする。
了