忘れえぬ日
強い風によって散らされた紅葉が視界を遮った。
気付けば石段の上方に一人の尼僧が立っている。
彼女は涙を流しながら、つぶやく。
「どうして来てしまったの」
◆
紅葉が赤く染まる季節。
瑞希は長い石段を登ってその寺にたどり着いた。落ちた紅葉で滑らないように、慎重に足を運ぶ。門の前で紅葉と共に撮影する。
「遠くからよくおいでになられました」
出迎えた尼僧は由良と名乗った。この寺を一人で切り盛りしているという。
「御朱印集めで一人旅をしてるんです。動機として不純ですかね」
瑞希が頭を掻く。
「いいえ、仏の道は開かれています」
由良はそう言って微笑んだ。剃髪した頭を涼やかな風に晒し、尼僧でありながら、不思議な色気のある女性だった。
「よければ、旅の話でもお聞かせください」
「そうはいってもつまらないですよ。ああ、写真見ますか」
御朱印をいただき由良と話し込んでいたら、すっかり日が暮れていた。
「よければ泊っていかれますか」
「いえいえそんな、悪いですよ。今からでも宿を探します」
「夜中に女性の独り歩きをさせるなど気が気でなりません。ご遠慮せずに」
由良の手が瑞希に触れる。
「もう少し、旅の話も聞きとうございます」
瑞希は彼女に惹かれていた。
夜。
「お背中、流しましょうか」
風呂の戸越しに言われて瑞希は緊張した。
「お、お願いします」
戸が開く。指の隙間から見てみると由良は白い浴衣姿だったので瑞希は一旦安心した。しかし自分の裸は見られるのだと思い付き、今度は湯船から出られなくなった。
「瑞希様?」
「は、はい、今」
出ながらてぬぐいで前を隠して、椅子に座る。由良の繊細な手が彼女の背中をさすった。
「緊張なさってますか」
「ええ、あまりありませんから。人に背中を流してもらうことは」
「幼い頃はあったでしょう」
「二十年以上前ですよ」
由良が笑う。
石鹸を落として、由良が言った。
「では、お腹も流しましょうか」
「結構です!」
由良は笑いながら出て行った。
風呂から出ると精進料理が用意されていた。
「おいしい……!」
本当に美味で、瑞希は夢中で食べた。風呂場でのことを忘れようとしたのかもしれない。
夕食を終えて話し込んでいると、不意に由良の身体が掠れて見えた。
蝋燭の明かりに目が慣れていないためだろうかと瑞希は思ったが、由良は黙って首を振った。
「もう時が来たようです」
「なんのですか」
「あなたに話さなければなりません。私と私の夫のために命を絶ったあの人について」
由良は語り始めた。
「私は町娘の生まれでした。ある日奉公へ上がっていた私を斉興様が見初めてくださって、側室となったのです。斉興様は私を大変愛してくださいました」
由良の身体が掠れる。
「私のお子は三人生まれました。姫と唯七郎は若くして亡くなってしまったけれど、普之進は無事に育ってくれました。私は彼になんとか報いようと思った」
話している内容は瑞希にはほとんどわからなかったが、ただ聴いていた。
「奥様が亡くなったことで、私は勘違いをしたのでしょうね。我が子を次の藩主にしたいと思ったのです。そのために方々手を尽くした。夫とともにあらゆることをした。……それで」
由良は崩れ落ちる。
「それなのに……あれほど多くの人が、死んでしまった」
由良を支えようと瑞希は身を乗り出すが、彼女の身体は腕をすり抜けた。
「許してください。あなたにだけ許されても、この無念は晴れぬでしょうが、少しはマシになるでしょう」
由良はそう言って、消えていった。
瑞希は彼女が居たその場所に向かって、声をかけた。
「許します。許しますから、どうかまたお話をさせてください」
のちにこの話を祖母にすると、瑞希たちの先祖は島津の家老をしていたのだと知った。
密貿易に関与した主君の罪を一人でかぶり、毒を呷って死んだという。
由良がいた寺は廃寺だった。もう一度訪れた時には何百年も手入れがされていないありさまで、瑞希が泊まった場所も屋外と変わらない様相だった。
赤く染まる紅葉だけが同じだった。
「由良さん……」
先祖の家老は、彼女のことをどう思っていたのだろうか。ふと瑞希にそんな考えが浮かぶ。
瑞希は御朱印集めの旅を再開した。こうしていれば、また由良に会えるような気がしていた。
落ちた紅葉で滑らないように、慎重に足を運ぶ。
了