空に星は
さて。薩摩藩は源頼朝様の時代より領内に暦を導入しておりましたゆえ、江戸とは違う薩摩暦というのが使われておりました。
島津重豪様が暦作成のために作られた研究所は明時館またの名を天文館と名付けられました。
この天文館に、女性が務めていたなどと誰が信じましょうか。
◆
天を見て暦を作る仕事というのは古くは陰陽師が行っていたが、特別な才や霊験が必要というわけではない。目が利いて勤勉であれば誰でも出来る仕事だ。ソラは思っていた。
そうでなければこの天文館で、女が天文望遠鏡を覗き星の運行を記録している理由があるだろうか。
太陽を見るための煤ガラスを手にソラは立ち上がる。
「あの」
ソラに声をかける者がいた。
「ご一緒に」
ホシという新人であった。ソラは頷いて、彼女を伴って外へ出た。
ススキをかき分ける。
太陽の軌跡を紙に記録しながら、ホシは言った。
「ソラさんはなぜこのお勤めへ」
「私に選択肢があったとお思いですか」
ソラは答えた。ホシの声が詰まる気配がして、しばらくの沈黙があった。
「生きるためです。天を見て飯が食えるなどこれくらいだったので」
ソラはしかたなく続けた。
「ここへ来る前はなにを」
「寝覚めのいい話ではありませんが、それでも聴きますか」
「……やめておきます」
天文館で働く女は藩士の娘や嫁が多く、皆手習いのつもりで天文地理と暦法を学んで去っていく。
ソラはこの天文館で唯一の古株であった。
日の入り前。
ソラは望遠鏡を覗いていた。月のすぐ近くで金星が輝いている。
「お先に」
他の女達と共に帰り支度を済ませたホシが言った。ソラは手振りで答えた。
「あの、ソラさんは帰らないので」
「夜も星は動いています」
本当はこのあと交代で夜の担当がやってくる。ソラはただ、ここの他に帰る場所がないだけだ。
「私も手伝います」
ホシが言った。ソラは手振りで答えた。
「それはどういう手振りですか」
「帰ってよろしい。という意味です」
ソラは望遠鏡から目を離さなかった。
翌日。
「ソラさんは星が好きですか?」
ホシが聴いた。
「嫌いではありません」
「では、好きということですか」
ホシが身を乗り出す。
「好きでも嫌いでもありません。ただの飯のタネです」
ホシは肩を落とした。
「星の話ができるかと思ったのですが」
「ちなみに、どんな話ですか」
「星の爆発をご存じですか!」
ソラがたずねると、ホシは興奮した様子で語り始めた。
「命を終えた星は爆発するそうなんです! 私が個人的に調べたものですが天の川では爆発した星の痕跡が年に十ほどあって、平家星なんかは爆発がちかいと言われてて!」
大きく手を振ってホシは星の爆発を表現する。
「星が好きなんですね」
ソラは微笑んだ。
「そうなんです。ここでのお勤めができると聴いた時は、本当にうれしくて」
「代わってほしいくらいです」
ソラは言った。沈黙がおとずれる。
「冗談です」
記録された資料を検分しながら、ソラはホシにたずねた。
「ここを出て行ったあとはどうするのですか」
ホシは戸惑い、詰まり気味に答えた。
「もう十分好きなことをさせてもらいましたから、どこかへ嫁入りに行くでしょう」
「気が進まないようですね」
「星の話ができるならよいのですが、私って話し出すと止まらないので、はしたないと思われるかも」
「ここでは気になさらなくていいですよ」
ソラは月の満ち欠けをなぞりながら言った。
「好きなだけ星の話をしてください」
「はい……!」
ホシは毎日ソラを相手に星の話をした。最新の研究からホシが考えた星座の話まで話題は多岐にわたった。
一人、二人とお勤めを終えた者が去り、新たな者が入ってくる。
白くぼんやりと浮かぶ真昼の月を眺めて、ソラは言った。
「今日は、月が綺麗ですね」
位置を記録していたホシが顔を上げた。
「なんですか?」
「いいえ、聴こえなかったのならそれで」
「月はいつでも綺麗ですよ」
ホシが答えた。
「見え方が変わるのは、空気の澄み方の違いです。それがどうかされましたか?」
「いいえ、あなたの言う通りです」
ソラは観測に戻った。
ホシが荷物をまとめた。
「それでは、短い間でしたがお世話になりました」
「ええ、あなたはよく働いてくれました」
ソラは言った。
「もっと星の話がしたかったのですが」
「そうですね」
「いつかまた遊びに来ます。島津様がお許しになればですが」
「待っています」
「それではこれで」
「行かないで」
「……ソラさん」
「まだ、行かないでください。あなたはきっと忘れてしまう。ここで共に星を見たことも、私と話をしたことも、新しい日々に塗り替えられてしまう。そのようにしてきたのですから」
「………」
「そのようにしてきて、それでよいのだと思えればよかったのに。今の私は、あなたに忘れられたくないのです」
「忘れませんよ」
「忘れないで」
「忘れません。空を見る度にソラさん、あなたを思い出しますから」
ホシは出て行った。
暦を作るのに特別な才は必要ない。
そうでなければこの天文館で、女が天文望遠鏡を覗き星の運行を記録している理由があるだろうか。
太陽を見るための煤ガラスを手にソラは立ち上がる。
「あの」
ソラに声をかける者がいた。今年入った新人だ。
「ご一緒しても」
ソラは頷いて、彼女を伴って外へ出た。
ススキをかき分ける。
ホシは天文館をおとずれることはなかったが、ソラは星を見る度に彼女の声を思い出していた。
了




