蜜柑の木
「おなごが道の真んなけ歩っな」
母の声が囁き、私は腕を引かれて側溝の蓋を踏んだ。
遠く道の向こうを見ると、橋の頂点からお武家様の青い月代が見えた。最近手入れをしてないのだろう。散切り頭にするために伸ばしている途中かもしれない。格好が悪いと私は思ったが、言えば母親に口をふさがれるので黙っていた。それから馬の足音が通り過ぎるまで自分の白いささくれが伸びた爪先を見つめていた。
お江戸では幕府を倒した大久保様らによって新政府が立てられて、新しい世がはじまるという。しかし、私にはその実感がなかった。
◆
大ぶりの蜜柑を掴んだ。母が私を呼ぶ。
「来っ」
私は枝からするすると降りて、取ってきた蜜柑から形と見た目の良いものを選別した。ごろごろと風呂敷包に置いて平包みにする。入りきらなかった分は縁側に置いたまま、母を追って玄関を出た。雪が降っていたが、風呂敷は蜜柑を包むのにつかっていたので雪除けをすることはできなかった。
母にとっては兄夫婦の住む住居まで、道の端を歩いて行った。裏口の戸をくぐって母は声を発する。
「ごめんなんし、おさいじゃすか」
「うんだもうゆくさおさいじゃした」
母と兄嫁がふわふわと挨拶をする。私は風呂敷から蜜柑をふたつ取り出して土間を抜けて庭に出た。縁側には縫いかけの刺繍が置かれていた。生垣の側に座ってじっと影を見つめていたアキちゃんを探し出して、私は言った。
「遊ぼう」
「…………」
アキちゃんは答えなかった。黙ったまんま地面に線を書くので、絵遊びがしたいのかと私は思って枝を探した。
「すもとい」
振り返ると、円の中でアキちゃんが四つん這いになってこちらを見ていた。
「すもとうと?」
「ん」
男の子のような遊びが好きなのか。私は思ったが、袖と裾をまくって果敢に彼女へかかっていった。帯に指をかけて揉み合っているうちに、彼女の脚がすこし外に曲がっていることに気が付いた。そんなことに気が逸れているせいで土俵の外へ投げられた。
「アキちゃんつよかねぇ」
ふたりとも十三になる女子だが、私たちは汗と雪が混ざるまで遊んだ。
「休も」
私は縁側に座ると蜜柑をアキちゃんに投げ渡した。自分の手の中の蜜柑の皮を剥き、房の一つを口の中へ放り込む。アキちゃんはそれをまじまじと見つめて、真似をしようと蜜柑をこね回していた。
「しっあぐる」
私は赤い指先から蜜柑をとりあげて皮を剥いてやった。するとアキちゃんは、ああ、と口を開けて目を閉じた。私は房をひとつ分けると、彼女のちいさな口に放り込んでやった。アキちゃんはむっと唇を閉じて甘酸っぱい蜜柑を味わいはじめた。
いとこのアキちゃんと初めて会ったのは三日前だ。それより以前の彼女を私は知らない。最初挨拶をした時は一言も声を発さず逃げてしまったので、人嫌いの子なのかなと誤解していた。慣れてしまえばとても気立ての良い少女だった。
「そい」
「ん、なんね。あ……」
右腕を上げてみると袖がほつれていた。随分暴れ回ったから当然だ。
「しっあぐっ」
縁側に置いてあった裁縫道具、針山から一本の縫い針を取ってアキちゃんは糸を通し始めた。三回ほどの挑戦で刺繍糸は針の穴をくぐり抜け、つぅ、と彼女の手の間を渡る。そして袖を引っ張るので、私は腕を抜いて右袖を預けた。アキちゃんの手の中で刺繍糸が形を作っていくのを私は蜜柑を味わいながら見つめていた。
彼女の手捌きはそれは見事なもので、あっという間に袖のほつれは繕われてしまった。
「すげかぁアキちゃん」
「なんでんなか」
アキちゃんの言葉は訛りが強くて、父と兄が話している言葉に影響されて東訛りが入ってる私よりよっぽど薩摩おごじょのように見えて羨ましかった。
◆
桜が咲く頃にアキちゃんは言った。
「かげふい」
私たちは互いの影を追いかけて庭を走り回った。走る時のアキちゃんの足取りはおぼつかなくて、それでも体を動かしたがるのが奇妙だったが、私は彼女が望むままに遊んだ。生垣の影は以前のようには私の影を全て覆い隠してはくれなかった。
遊びが終わると冷たい水を飲んだ。春の日差しの中で、こぼれた水が伝う喉がくるくると動くのを、私は不思議な物でも見るように眺めていた。
桜模様の刺繍を教わった。薄紅色の糸が形になっていくのを真似したが、私の桜は膨らんで梅花のようになってしまった。
「あたい、十三になるまで床下で育ったとよ」
アキちゃんは言った。
「裁縫と絵ばかりしっ、そいほかなんも知らんと」
「ふうん」
私は相槌を打つ。
私の視線が彼女の爪先に注がれていたのに気付いたのだろう。そっと裾の中に仕舞った。
「来っ」
母が呼びに来た。私は帰り支度を始める。刺繍した襟元を隠して立ち上がる。
「今日は楽しかった」
「ん」
帰路の途中、もう少し言うことがあったのではないかと悔やんだが、この時の私にはあの言葉に対する返答を何も思いつかなかった。家へ帰ると母が夕餉の支度を始めたので、私は菜花を洗い包丁で切り始めた。
「アキちゃん、あの家の子やなかよ」
竈の番をしながら母が言った。
「田中様からの貰われ子よ。廓に売るも夢見が悪っけ兄様の家に預けたとよ」
「ふうん」
私は相槌を打つだけだった。
◆
お日様がカンカン照りになった頃、アキちゃんは熱を出した。
母と共にお見舞いに行った。途中ですっかり散切り頭になったお武家様が通ったので、私は逸る気持ちを抑えて自分の爪先を見つめていた。馬が通り過ぎていったのを見計らって、駆け出した。裏口をくぐると母と兄嫁が挨拶をする。
「ゆ、みめにおさいじゃした」
「そんないでよしゅごあんで」
その横を通り抜ける。
土間を抜けて畳の上で寝ている彼女を見つけ出す。寝道具などは当然使われていない。ごろりと転がった彼女に私は声をかけた。
「無事かい」
「ん、生きとう」
アキちゃんは小さな声で答えた。私は少しだけ安心した。
風呂敷から夏の蜜柑を取り出した。枕元で皮を剥いてやっているとやはり、ああ、と口を開けて房が入ってくるのをアキちゃんは待っていた。その口に房を入れてやると、彼女は少し乾いた唇を閉じて酸い蜜柑を味わっていた。
母が呼びに来た。
「来っ」
「こっおる」
私は答えた。
「なを言うや」
「あたい、アキちゃんの看病しっあぐる」
「夕餉の支度もしっけ来っ」
「お母だけでやりよ」
わっ、と母が泣き出した。バタバタと廊下を走る音が近付いてくる。
「うんだもしたん」
兄嫁がなだめにくる。
「あたい、あたいもう疲れたわ」
「うんだないがあったとよ、ああ、そんないでそんないで」
廊下で崩れ落ちる母と兄嫁の横を、すう、と男性が通り過ぎていった。私の叔父だ。わあわあと嘆く母が見えていないかのようだった。
私はずっと黙っていた。
母は、私を置いて家へと帰っていった。私はアキちゃんの近くに座っていた。
「こい、たもいもん、かすっ」
兄嫁がアキちゃんと私の分の御膳を持ってきてくれたので、アキちゃんの唇がやけどしないように粥を冷まして、ああ、と開けた彼女の口に運んだ。
「うまか?」
「ん」
アキちゃんは頷く。私は粥を繰り返し彼女の口に運んで、すっかりなくなった頃に彼女が眠ってしまったのを見届けたので、自分の分の湯漬けと漬物をかき込んだ。観世音菩薩様に祈って彼女の隣に体を横たえた。
縁側に月が映っている。私はアキちゃんの額に手を当てて、自分の額を当てた。そうした時に唇同士がぶつかりそうになったけれど、私は、すい、と顔を横に向けて唇を避けた。
彼女の神聖な不思議に触れるのは、善くないことだと思っていた。
それから、気が付かぬうちにうとうとしていたのだろう。夢を見た。
温い青い空気が私を包んでいた。目の前には畳があるばかりで、アキちゃんがいない。私は立ち上がって走った。どこまでも畳が広がっている。ぐにぐにと揺れてうまく走れない。足元がおぼつかない。どうやら彼女の脚と同じように、外側へ折れ曲がっている。なんだ、私がアキちゃんになっていたんだ。気が付いて安心した。あたりが明るくなった。夏の日差しの中、目の前に大ぶりの蜜柑が鈴なりになった大木があって、私はそれに登った。曲がった脚でもするするとあっというまに頂上まで行けた。頂上からは薩摩の地を見渡せた。お武家様の青い月代を見下ろして「かっこうわりかよ」と私は叫んだ。大きな蜜柑を剥いて今は私の口でありアキちゃんの口でもあるそこに房を放り込んだ。甘酸っぱい味が広がった。
夢から覚めると私はアキちゃんの隣で寝ていた。
目の端が冷たい。どうやら泣いていたらしい。
アキちゃんの額に手をやると、熱はすっかり下がっていた。
「夢ん見た」
彼女は目を瞑ったまま呟いた。
「どがん」
「木登いしっ、お侍様からかって、蜜柑くた」
私たちは同じ夢を見ていたのかもしれない。
指先で彼女の髪を整えてやった。彼女はわずかに身動ぎをして、くすぐったそうにしていた。
◆
私が十五でお嫁に行くまで、毎日のように彼女と遊んだ。
前日、嫁入りの着物のまま彼女とすもうを取ったら、木に袖をひっかけた。
「しっあぐっ」
彼女の手の中で刺繍糸が形を成していく。山吹色の袖に白い桜模様が入った。
「あいがと」
「ん」
アキちゃんは頷く。
「あたいのこと、忘れんで」
私はそんなことを言った。どうして言ったのだろう。つらくなるだけなのに。
「ん、忘れん」
それでもアキちゃんは頷く。
箪笥の中に眠っている彼女の刺繍を思い出しては、私は日々を過ごしている。
了