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第1話 沈黙の香水

灰色のビル群の隙間に、ひっそりと佇む小さな店があった。


その扉には「香りの調べ」と手書きで書かれた木製の看板がかかっている。

扉を開けると、そこには無数の小瓶がずらりと並び、甘いバニラ、スパイシーなシナモン、そしてどこか青臭いハーブの香りが漂っていた。


調香師・涼音の美しいその顔立ちは、まるで磨き抜かれた大理石の様。

どこかこの世界のものではないような印象を与える。

長い黒髪は乱れひとつなく、白衣の袖口から伸びる指先は一本一本が緻密に計算されたかのような滑らかさを持っている。

彼女は香りを嗅ぎ分けることに関しては他の誰よりも優れていた。

それは人間離れした吸血鬼としての嗅覚によるものだった。


「失礼します。」

静かな扉の音と共に、若い女性が店に入ってきた。

20代半ばだろうか。

深緑のカーディガンをまとったその女性は、どこかおどおどした様子で店内を見回す。


涼音は、カウンター越しに彼女を一瞥した。

「どうぞお入りください」


女性は小さくうなずき、震える声で答える。

「母の香りを、探しているんです。小さい頃、母がつけていた香水の匂いを再現してほしくて……。」


涼音は、その言葉を聞き、わずかに眉を動かした。

香りが記憶と結びつく力を彼女は知っていた。

そして、その依頼がどれほど困難であるかも。


「その香りについて、覚えていることを詳しく教えていただけますか。」

「はい。とても柔らかくて、少し甘いけれど、何か青い花みたいな香りが混ざっていたと思います。」


涼音は軽く頷き、メモ帳を取り出した。

「どんな場面でその香りを嗅いだか、覚えていますか。」

女性は目を閉じ、少しの間、沈黙する。

「母が、私を抱きしめてくれた時です。いつもあの香りがしました。」


調香室の奥に移動した涼音は

壁一面に並んだ小瓶から

いくつかを選び取り

調合を始めた

手慣れた動きで香料を

混ぜ合わせるたびに

空気中に

さまざまな香りが立ち昇る


しかし、香りを一つ一つ嗅ぎ分ける中で、涼音の脳裏には、自身の過去の記憶がよぎる。


温かな記憶を手に入れることもなかった自分。

それでも、香りに宿る人間らしい温かさが、ほんの少しだけ彼女の孤独を癒していた。


数時間後、涼音は調香を終えた。

試作品を手渡しながら、静かに言う。

「これは、いかがでしょうか。」


女性は一滴の香水を手首に落とし、香りを嗅いだ。

すると、目を大きく見開き、涙が頬を伝う。

「これです……。まさに、母の香り……。」


涼音はその様子を見つめながら、心の中で呟いた。

香りが記憶を蘇らせ、感情を揺さぶる力は本物だ。

それでも、この香りが彼女自身をどこまで救うのかは、まだわからない。


その夜、涼音は依頼人が置き忘れた一本の古い香水瓶に気づく。


惹きつけられるように

その香りを嗅いだ彼女の目に

一瞬の不安がよぎった


この香りには、自分の吸血衝動を抑える可能性があるかもしれない――。

しかし、それは同時に、自分自身の過去と向き合うことを意味していた。


涼音は古びた瓶を見つめながら、再び調香を始めることを決意する。

香りの中に、未来を変える鍵があると信じて。



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