峻厳なる霊山の死闘
一週間の休養を経て、一行は気球の旅に出発した。
目指すのは遥か北東にあるという虎猿山だ。
初めのうち空は快晴で、仄かに温かい爽快な風が吹いていた。眺め下ろす先には、雄大な自然のパノラマが多彩な色紙のように映え広がっている。何種もの鳥が一行を飛行仲間と認識したのか、綺麗な鳴き声を発して戯れにやって来る。
「夢心地ね。こんな日がいつまでも続けばいいのに」
「ケイトは夢想家だからな。これから辛苦の旅が始まるっていうのに」フェルナンはセレブ気分の抜けない陽気な同僚に辟易して揶揄する。
移動するにつれて大気が冷やかになり、風も乾燥した嘯風になって来た。
幾つもの山や谷を過ぎ、やがて前方に峻厳な山脈がたち現れた。
麓のふさわしい場所を見つけて、一行は山地に着陸した。
「地図が正しければここですね」フェルナンが詳細を確かめながら気球を降りる。
「虎猿山に相違ない。行くぞ」ラッセルは休む間もなく速足で歩く。
「教授、待ってください」
「ちょっと二人とも。乙女を置いていくなんて失礼ね!」
山道は幾重にも曲がりくねり、登山者を苦しめる難路になっていた。足場の不安定な砂利道がさらに体力を消耗させる。
「毎回きつい旅だな」フェルナンが息を弾ませてボヤく。それをケイトが蔑むように嗜める。
「当たり前でしょ。私たちは死を恐れない名だたる冒険家組合の精鋭なんだから」
「精鋭って。まだ僕らは初心者だろう」
助手の口論に無頓着なラッセルは、黙々と前進する。
三人の歩調が惰性的になって、しばらくした時。木陰からけたたましい足音が聞こえてきた。「出た!」フェルナンがリュックから例の魔法のランプを引き出した。
「大勢だわ。野生の臭いがするし」ケイトは男子二人の背中に隠れる。
叢から目が赤く光った。同時に、殺気立った動物の集団がぞろぞろと現れた。
「コヨーテか」ラッセルが脚に力を入れる。
「僕らはエサじゃないぞ」
「お願い。見逃して」
するとコヨーテの一匹が言い放った。
「この山は俺たちの聖域。まして邪な人間。丁度いい。生捕りにして、食糧にしてやる」
「頼むよ、魔法のランプ。いでよ!」フェルナンが唱えてランプを翳した。
見るとランプから煙が現れ、それが人型になった。それはどうやら、禿頭の小柄な老人であった。
「なんじゃ。いきなり呼んでからに」老人は眠そうな声で目を掻く。
「こ、こいつらを退治してよ!」
「はあ?なしてまた?」惚けた口調で無気力に問い返す。
「なしてって?あなたは魔獣じゃないんですか?」
「誰が魔獣じゃ。著名な魔法使いに向かって」
一同はすっかり狐に抓まれた心持ちになってしまった。頓珍漢な空気を察知したコヨーテが嘴を入れた。
「お前も人間の味方か。なら、お前も生捕りだ」
「ほほう。コヨーテではないか。随分拗ねた面だな」そう言って老人は鼻で笑った。
「黙れ、腰抜けジジイが!」コヨーテの群が老人に襲いかかった。
しかし次の刹那。一同は目の覚めるような光景に驚嘆した。
コヨーテの素早い突進を、老人はさらに早い獣のような身のこなしで悠々とかわした。
そして次々と空気弾を放ち、コヨーテを撃ち落としていった。
「ほれほれ。ノロイノロイ」老人は人間とは思えない軽々とした秀逸な体の捌きを見せつける。
「あらま。大したおじいちゃんだこと」ケイトが賛辞を表す。
コヨーテ一団は手強い魔法使いに痺れを切らして、飛びつくのを止め、ぐるぐる迂回しながら隙を伺う戦法に変えたようだった。
「すばしっこい老いぼれめ。舐めるなよ」コヨーテは数匹ずつ団子状に重なり合って、連隊を組んだ。
「食らえ、集団殺奏!」コヨーテの連合体が弩弓の如き集中砲火で喰いかかってきた。
「変わったことをする化け猫だな」老人はそれでも冷静に技を見極めて、その反撃を軽やかにいなして掻い潜る。
「すごい機転だね。勝つのも時間の問題だ」
しばし攻防が続いたが、一寸先は闇とは言ったもので、事は意外な結末を見せた。
「あー、疲れた。後は自分たちでやってくれ」突然、老人は戦いを放棄して地面に胡座をかいてしまったのだ。
「はあー!何だー!疲れただってー!」フェルナンは期せずズッコケてしまった。
「なんなの?どうしたのおじいちゃん?」ケイトもすっかりはぐらかされた面立ちでしゃがみ込む。
「ちゃんと戦ってよ!ぼくたちは戦えない非戦闘要員何だから!」
「やめたやめた。タダ働きはせんのが流儀なんじゃ」老人が両腕をバンザイして白旗を上げる。
「そんなー。あと一歩だっていうのに。あの覆面商人。とんだアイテムを売りつけやがったな」
「まあそう失望することもないようだ。敵の戦意はもうない」ラッセルが言う。
見ると、コヨーテたちは老人が何か秘事を企んでいると考えたのか、恐れをなして立ち竦んでいる。
「クソッタレジジイが。体力を使えば、腹が空くだけだ。貴様らなど所詮美味い食糧でもない。勝手にしろ」
コヨーテ一団は悔しそうに叢へと退去していった。
「やれやれ。敵わぬと見たか」老人が天狗になって、勝利の高笑いを洩らした。
「よかったわね」
「あーあ。逃げてくれなかったら、とんだハズレ籤だった」助手二人は座り込んで胸を撫で下ろす。
「最後は戦わずして勝った。兵法万般の心得があるようだな」ラッセルが老人に歩み寄る。
「そなた。少しは哲学を持っておるようじゃな」
「御老体。貴方はどこの生まれで?」
「わしか。わしは南へ数千里を隔てた根露山の生まれじゃ。退屈しのぎに昼寝を満喫していた時、偶々ムルジンの音が聞こえたので、ここへワープしたのさ」
「危ない所を忝い。少ないが受け取ってくだされ」ラッセルが持金の貨幣を差し出す。
「わしは見返りを求めん。だが、世の中あらゆる物事にはお代がつく。ぶしつけながら、頂戴仕る」にっと笑った老人は、そそくさと駄賃を懐に仕舞った。
「ちゃっかりした奴。本当に名魔法使いなのか」
「いいじゃないフェルナン。第一関門は無事通過できたし」
ややあって、老人はゆっくり起き上がった。そしてくるりとラッセルを振り返る。
「それにしても世界は物騒になったもんじゃ。このままでは、人間と魔物の世界戦争が起きるじゃろうて」
「まったくですな。しかし全力で防がねばなりません」
「水晶か。目的は」
「よくご存知で」
「わしも昔はその類の神話に憧れてな。一攫千金を夢見たものじゃよ。しかし利己的な夢というものは儚く散る。つまり人間は利他で生きねばならんという教訓を得たわけじゃがな。なかなかこれが実践できぬまま年を重ねてしまった。いやいや、詰まらん説教だったな。すまんすまん」
「私も同感です。他者のために生きることは存外に大変なもの」両者人生の本質を悟りかけた者同士、自ずから会話の馬が合った。
「まあ頑張りたまえ。大方、世界救世の冒険者といったところじゃろう。幸運をな。わしも自分のできる事に身を捧げる」
「またお会いできれば幸いですな」
すると老人の周りに光が集まり、鮮やかに包み込んだ。次の瞬間、光の玉となって空間に吸い込まれて見えなくなった。
一行を阻む難路は、さらに奥地へと繋がっていた。そんな中、適当な地点で小休憩を挟んだ。
「教授、この旅が終わったらどうやって運営資金を稼ぐんですか?」
「龍の水を売るしかないんじゃないの」
「それかパトロンを探しますか?」
「まだ分からんとしか言えぬ」ラッセルが缶詰の冷凍卵を咀嚼しながら小声で答える。
「教授はいつも見切り発車だからな。気楽で羨ましい」
山の中腹には高木林が生い茂り、時折マイナスイオンを彷彿とさせる薫風が吹き、汗に火照る身体を涼める。
一同はさらに山路を登り、やがて植物の育たない森林限界に達した。
これより上は岩石だらけの険しいルートになっている。
「度重なる波乱の連続か。これを楽しめなきゃ冒険家には向いてないかも知れないな」
「あら、私だって楽しむのは難しいわよ。でも行く手には世にも貴重な宝物が待ってると思うと、心が躍るわ」
「いいなケイトは豪胆で。まるで僕たち、性別が逆みたいだからね」
その時、崖道の先で何かがゴロリと動いた。そして陽光は雲間に隠れて翳っているにもかかわらず、なぜか光が反射したように見えた。
「何だ?またモンスターかな」
「見て。岩が動いてるわ」
何事かと、一同は静止して注意深く眺める。
すると、どこからともなく声がした。
「帰れ。これ以上進んではならん。何人も虎猿山の聖気を穢すこと能わず」
「誰だ!」フェルナンがリュックの中のムルジンを発作的に掴む。
「どこなの?誰もいないけど」ケイトは視界を隅々まで観察するが、何も見当たらない。
「岩だ。鉱物が喋っているぞ」ラッセルが直感を研ぎ澄まして言う。
「岩が?まさか」
「生きているの?」
反応するように岩から声が木霊す。
「人間が山を荒らし尽くした。これ以上の暴挙は許さぬ。立ち去れ。さもなくば、山の藻屑として葬るまで」
「荒らす気はない。世界平和のために、水晶の力を借りたいのだ」
「なるほど。やはりそれがお前たちの強欲な本能であろう」
「そうではない。まともな人間は、魔物と人間は助け合うべきと考えている。我々もそうだ」
「信用できぬ。人間はこれからも自然破壊を遂行するであろう。もう和解などできぬわ」
岩は怒ったように発光すると、壁から剝がれて爆弾のように一同めがけて転がり落ちて来た。
運良く岩石の弾丸は反れて崖下に落ちたが、休まず次々と大小の銃弾が霰石となって転がって来る。
「よし、ならこっちも。いでよ幻獣!」フェルナンが魔法のランプを掲げ唱えた。
白煙が辺りを覆い、そこに人型が出現した。
それは翠色の妖精のような、背に羽根のある女だった。
「まあ、危ない!石ころで嬲り殺しなんてフェアじゃないわねえ。可哀想に」その調子外れな物言いに一同は啞然とする。
「何だ?また変な助っ人が出てきたぞ」
しかし妖精は体から緑の蔦を発射すると、転がる岩を壁際に縛って結び止めてしまった。
「もう安心よ。私の植物ムチはこの世で最も頑丈なんですから。ホホホ」妖精は口を抑えて上品に笑う。
「へえ、やるね、おばさん」
「あら、坊ちゃま。わたくしまだ若いんですのよ」
岩のモンスターはなおも落盤攻撃の手を緩めない。だが、それも悉く蔦で搦め捕り、縛りつけて無力化してしまう。
「やるわね。ギリギリの勝利だわ」ケイトが言うと、妖精は機嫌を損ねたように言い返した。
「ちょっとあなた。ギリギリじゃないでしょ。圧勝でしょうが。ねえ、そこの紳士殿」
「ま、まあそうだな。見事な勝ちっぷりに感服しましたぞ」唐突に振られたラッセルが、詰まりながらも絶賛して言った。
「そうでしょそうでしょ。若い女は礼節を知らないから困るわねえ」
言われて、ケイトはムッと膨れて反論する。
「そんなつもりで言ってないわ!まだ勝負だってわからないじゃない!」
「ケイト。もう決まってるよ」宥めながらフェルナンが苦笑する。
するとその時。
「まだ終わってはおらん。本体は私だ」
声を発したのは巨岩だった。大きさは妖精の五倍はあろうかという巨大さだ。
「あら、まだ反抗する気?諦めが悪いのね」妖精がフワフワと羽ばたきながら蔦を構える。
「この衝撃に耐えられるか!」巨岩は目を射るような激しい瞬きを放つと、隕石のような猛烈な勢いで妖精に突進した。
岩の尖鋭が妖精の身体にぶつかった。
「あ、やばい」
「言わんこっちゃないわね」
妖精が軽い悲鳴を上げた。しかし同時に蔦のムチが巨岩をぐるぐる巻きにして封じ込めた。
「ホホホ。どんなもんざましょ」妖精の雄叫びが閑寂茫洋とした岩床大地に響き渡った。
「あっぱれですな、マダム」ラッセルが妙に持ち上げて褒めそやす。
「もうあの魔物は数十年身動きできませんことよ」
「ありがとうございます。爆勝ですね」
ケイトは一人捻くれて無言無表情のままだ。
「お二人とも頑張りなさいませね。旅は男の道ですからねえ。女がいるとさぞ足枷でしょうに」
「足枷になんかなってません!」ケイトが堪らず怒号する。
「では、私はここまで。ごゆるりと楽しい旅を」妖精はそう言って煙に変化した。
「まったく。最悪の幻獣ね!」ケイトが小石を爪先で蹴り飛ばす。
「女どうしって上手くいかないんですね」フェルナンが面白可笑しい口調でラッセルに言う。
「女性は褒めるに限るぞ、フェルナン」
男二人の笑い声が人跡未踏の大地に鳴り渡った。