とあるメイドの悩み
いきなり舞台がとんでいますが、間違いではありません。
わかりにくいかもしれませんが、ちゃんとつながっています。
「コーヒーが入りましたよ」
そう声を掛けられて、彼は手を止めた。
癖の無い漆黒の髪を鬱陶しそうに払いながら、縁の薄い眼鏡を外す。すると、それを合図に紫水晶の瞳を和らげられる。それは、彼の癖。
その表情は、もう“仕事中”から“通常”へと切り替えられていた。
「あぁ、トリシャか……ありがとう」
そう言って、コーヒーを持ってきたメイドの彼女からそれを受け取り、口に含むと―――飲み干した。その間、一秒。それは俗に言う一気飲みというもので、主に酒で行われるものである上、労働階級の人間がすることだけに、自分の主である彼が一気飲みをしたことに驚いて、トリシャと呼ばれた少女-―――パトリシア・J・インディスカは顔を顰めた。
「疲れているなら、お止めになってはいかかですか?」
丁寧なのに、どこか不機嫌さが出てしまって、慇懃な感じがする口調でパトリシアは言った。それは、彼の疲れている理由を少なからず知っているからだろう。
(なんて可愛くない。けど……)
それでも、嫌なものは嫌なのだ。
パトリシアは、たっぷりとしたこげ茶色の髪の先をくるくると弄った。いらいらした時にしてしまうパトリシアの幼い頃からの癖だった。
パトリシアは彼の返事がわかっていた。わかっていても、言わずにはいられなかった。
だから、返事を聞いた時も「やっぱり」と口に出したくなってしまうのを抑えなければならなかった。
「出来ない。やることはすべてやる。それが出来ることなら、当然のこと」
昔からの口癖を繰り返す。諦めるのも負けるのも嫌いな彼らしい回答であったが、それでも疲れがたまって痛々しい彼をそのままにしておくのは、メイドとしても幼馴染としてもパトリシアは許せなかった。
「―――失礼します」
パトリシアは、大きく息を吸い込んだ。
そして、一気に吐き出すように全て言いたいことを言った。
「無茶するのも良いですが、基本夜型な貴方がいくら昼間から頑張ろうとも、その効率の悪さは今の状況が結果として現れているのではありませんか? 頑張るのは良いですけど、加減を間違えてはいけません。どうかせめて夕暮れまでお眠りになることをお勧めします」
たぶん今まで言ってきた中でも、歴代トップ10に入る無遠慮な言葉だろう。没落貴族のパトリシアが、大貴族の嫡男である彼にここまで言える理由は、彼女の長年の働きと信頼、そして何より彼の身が心配していることを彼はわかっているからだ。
でないと、何の力もないパトリシアが今まで不敬罪をかけられなかった理由が、わからない。
(これで駄目なら、諦めるしかないわね……)
彼の頑張る理由は、よくわかっているつもりだ。切羽詰るように、睡眠も食事も忘れて苦手な昼に仕事する理由も知っていた。
探し物が、直ぐ側にあることも―――
(どうして、そんなに遠くを探すのかしら?)
今だって広げている地図は、この地域のものではない。勿論、この地域のものは、普段から仕事の関係上見ているので暗記しているのだろう。だからと言って、田舎のこの町から都へ続くルートの町や村全体を調べていく理由がわからなかった。
何か、アテがあるのかもしれない。
けれど、そのアテが外れることもパトリシアは知っていた。
だからパトリシアは、そんな彼を見て辛そうに形の良い薄い砂色の瞳を持つ目を細めた。
「ねぇ、どうせ眠るつもりはないのでしょう? なら、一緒に町に出かけませんか?」
「出来ない」
「気分転換も必要ですよ。《ギルハル・イラ・エステロ》で、紅茶でも飲みませんか?―――え? いいですって。そうですよね? そうこなくちゃ! それじゃあ、行きましょう」
半ば無理矢理に主の腕を掴んで、パトリシアは走り出した。
その間、「放せ」とか「行かない」とか言う彼の言葉を全て無視する。
パトリシアは、馬車置き場まで急いだ。