カナの知らない町のこと
更新までだいぶん日が経ってしまいました。少し当初の路線とずれ始めているかもしれません。
今回は、グレアスのことについての結びなので、あまり進展はありません。
元々、あまり進む気配のない話なんですけど………
カナが町に来て早くも一ヶ月が経った。
引越し当初は、町中でカナの目立つ容姿と身元不明のこともあって、あれこれ噂をされたものの、町に仕入れる小麦の大半を担うというバズとドッシュの紹介であること(あの二人は、町でも人気者だった)と彼らの説明、何よりグレアスの下で働いているということがあって、今は噂は落ち着き始めていた。
それは、馴染み始めたということだろうか?
とりあえず、カナの一日は、ある程度決まったものとなってきつつあった。
町の朝は、早い。職人商人の多いこの町では、日の出と共に起きることは一般となっている。お世話になっているパン屋も同じなので、カナは日の出と共に起きて手伝いをすることとなっている。
それが、一文無しのカナが三食と寝る場所を確保してもらえる条件の一つだった。
「おはようございます」
部屋で近所の奥さんから貰った古い簡素な服に着替え、膝の裏にまで届く長い髪(かなり長い。最近は面倒くさくなってきたので、切ろうかと考えている)をとにかく邪魔にならないように結うのに苦闘してから、店に出てくる。
そして、最初に彼らに声をかけた。
「おはよう」
明るく優しい声が返ってきた。
店の入り口でパンを並べているのは、五十代前半の恰幅の良い女性。気の良い人で、年中笑みを絶やさず、パン屋の女将と一緒にお針子の仕事もしている。名前は、オリヴィア・パーマー。パン屋の女主人である。
「おうっ、おはよう、チビっこ」
その声と共に突然、カナは頭をぐちゃぐちゃに撫でられた。
苦闘して何とか結った髪(所要時間約二十分)を駄目にしてくれた犯人は誰か、と慌てて振り返ってみれば、予想通りそこには天井と拳一つ分くらいでしか間のないえらく背の高い人がいた。
背の低いオリヴィアとは対照的に、やけに背が高くがっしりとした体つきをしたその人は、ガネッソ・パーマーだ。昔随分鍛えたらしく、その似合わないエプロンをかけ、たくし上げたシャツから見える筋骨隆々の腕は、正直パン屋には無用の長物のように思えて仕方がなかった。
「どうだ? この町は。慣れたか?」
突然、焼けたばかりのパンを片手に尋ねて来たのは、ガネッソ。
割と乱暴で、顔ばかりやけに怖いくせに、こういうところの気配りはオリヴィアと同じくらい出来る人だった。
ガネッソにぐちゃぐちゃにされた髪をなんとか結いなおそうとしていたカナは、「はい、少しですが」と簡単に答えた。
「そうか、なら良いんだ」
彼の言い方には、少し何かの意味を含んでいるように思えた。
これでもか、と言わんばかりの強烈な笑みを閃かせている彼にしては、どこか大人しげだったからかもしれない。
オリヴィアも不思議に思ったのだろう。ガネッソとカナに背を向けてパンを並べていたはずの彼女が、振り返っていた。
予感は的中し、ガネッソはいつもとは全く様子の違う声でゆっくりと尋ねてきた。
「カナ、グレアスのことなんだがな……。どこかおかしな所はないか?」
「はい?」
カナは聞き返すしか出来なかった。
グレアス、と言われ、カナは即座に自分の働くカフェのマスターを思い浮かべた。
同時に、初日に出会った少女のことも思い出したが、彼女はあの日以来会うことはなかった。
「別に……おかしな所はない、と思いますけど?」
趣味の良く博識な彼は、相変わらずカナに多くの事を教えてくれる。田舎だけに客の少ない日の多い店なので、時間の合間を見ては仕事の事、この町の地理や文化、ちょっとした豆知識などを教えてくれていた。
バズやドッシュと同じく、カナがここに住めるように計らってくれた人で、カナの恩人だ。彼に何かあったのかと不安になるが、正直思い当たる節はない。
細かい年齢は知らないが、見たところ六十くらいのグレアスだから、歳が歳だけに体調のことが気になるが、彼は歳の割には結構健康な方だと思う。一ヶ月間見ていたが、甲斐甲斐しく働く姿や楽しげに趣味と混同した料理や園芸をするマメな様子からはボケる気配すらなさそうな感じがした。
「そうか、ならいいんだ……」
そのことを伝えると、そう一言だけ言って、彼は空になったパンを焼くための鉄板を片付けようと店の奥に戻っていこうとした。
「あんた、ちょっとお待ちっ!」
すると、それを止める声が店に響く。もしかすると、外まで聞こえたかもしれない。日の出からもうだいぶん経っていて、そこら中の家や店からそれぞれの臭いを含んだ煙が立ち上っているが、もし寝ていた人がいたなら、ごめんなさい、だ。
しかし、その大声には、その場にいたカナとガネッソが一番驚いた。
カナはオリヴィアを軽く見るだけだったが、ガネッソの方ははしばみ色の瞳をあらんかぎり見開いて、呆然としていた。普段が大人しげなだけに、オリヴィアの怒鳴り声というのはそれだけ威力があったのだ。
(女将さん?)
カナは、突如声を上げたオリヴィアに首をかしげた。
オリヴィアは、そのまま大きな声で続けた。
「中途半端はお止め! この子にも、ちゃんとグレアスさんのこと言っておいたらどうだい? この子はもうこの町の子だよ!」
言っている意味は分からなかったが、最後の一言にカナは軽く目を見開いた。
(この町の、子………)
それは、認められているということなのだろう。ここへ来てまだ一ヶ月。本来なら、身元知れずの赤の他人の小娘にそこまで言ってくれる人はいない。
カナは、目頭の熱くなるのを感じた。
「……わかった。カナ、ちょっとこっちに来い」
急に何かを納得したガネッソに手招きをされ、カナは正直に店の奥にあるリビングへと向って行った。
すると、ガネッソは唐突なことを言い始めた。
「長い話になるかもしれん。だけど、この町にいて、あいつの店で働くんなら聞いておけ。たぶん、今後嫌でも関わることになる」
ガネッソはそう言うと、椅子にどかりと座り、カナにも座るように勧めた。
手早くその側にあった鍋から熱い湯を取り出して、コーヒーを自分とカナの前によういすると、ガネッソはゆっくりと喋り始めた―――