脱獄開始!
更新がだいぶん遅くなってしまって申し訳ありません。不定期になるでしょうが、出来る限り書き進めたいと思います。
足音の主は、ゆっくりと影から姿を現した。
がっしりとした巨漢がまず目に入る。白髪の目立ち始めた金茶の髪を短く刈り、髪より少し濃い色の瞳が勝気そうな眉の下で笑っていた。
「ゼクルス・グレイガー……」
「あぁ、そうだぜ。久しぶりだな、お嬢ちゃん」
盛大に顔を顰めて吐き捨てた。嫌味の意味もあるが、本当に嫌だったからだ。
全く自分の不運さを嘆くしかない。
一番会いたくない相手に会ってしまった。
「何? あんた、知り合いなの?」
明らかに疑った口調。全うな一庶民なら出会うはずのない相手と顔見知り口調で話しあっているのだ。パトリシアの態度と口調は正しい。
「過去に私を誘拐した人買いですよ。六年前、ですかね?」
六年経って確かに老いた感じはするが、それでも以前と変わらず、否以前にもましてその眼光の鋭さが厳しい。きっと、もう四十歳を過ぎているであろうにも関わらず、その巨体はよく鍛え抜かれている。
カナリアは、速度は遅いがそれでも音を立てないように魔方陣を描き始めた。
「―――あぁ、そうだったなぁ。お嬢ちゃんも随分大きくなった。どうやら値を吊り上げられそうだ。勿論、そっちのねぇちゃんもな」
にぃーと下品な笑みを浮かべ、人買いのゼクルス・グレイガーはパトリシアの方へ視線をやった。
「あ、あたしを売るっての!」
「何言ってんだ? 俺は人買いだぜ。当然だろ?」
動転したパトリシアにゼクルスが、残酷な言葉で返す。
パトリシアは困った様子だったが、そこで何かを思い出したのか、ハッと顔を締まらせた。
「こ、コレットはどこよ」
「コレットだぁ~? あぁ…あいつか。あの餓鬼なら、他の牢にぶち込んでんよ。そこら辺にいそうな月並みな餓鬼だ。大した値にもなんねぇ。―――まぁ、こんな田舎でお前等みてぇな上玉の方が珍しい」
口調からして、コレットは無事だと悟ったカナリアは一時安心した。が、こういう界隈の人間と喋ること自体初めてなパトリシアはそうもいかないらしい。ゼクルスが笑みを浮かべるたびに、ぞっとした表情を一々浮かべている。
(まぁ、仕方ないと言えばそれまでですけど……)
カナリアのように慣れてしまっている方が問題なのだ。
しかし、ゼクルスなど本当に問題ではない。本当に怖いのは―――
思い出しかけて、カナリアは内心首を振る。考えすぎだ。
カナリアは、パトリシアとゼクルスの会話(?)と自分の今すべきことに気を回した。
「しっかし、弱ったなぁ……。お前がいるんじゃあ、魔封石が必要じゃねぇか。今は、大したのを持ってないんだがな」
((!))
全くのゼクルスの独り言に、カナリアとパトリシアは震えた。
今、魔封石はカナリアの首に掛かっている。それはカナリアの魔力のほとんどを押さえ込んでいるのだ。これ以上魔封石を使われれば―――例えそれが左程力のない魔封石でも―――カナリアの魔法は一切発動しなくなってしまう。
カナリアは慎重に、しかし一刻でも早く魔方陣を完成させようと急いだ。
「んあ?」
不意におかしな声が上がる。
完璧な酔っ払い声だ。しかし、顔を見ただけではわからない程度の酔い。
もしかすると、素面かもしれない。
「ねぇな……忘れてきたか? まぁ、良い。ちょっと待っておけよ」
待っておけと言って本当に待っている者などいない。カナリアは、ゼクルスの忘れ物を天運としか考えられなかった。
あまりの嬉しさに魔方陣を描いていた手を止めてしまったほどだ。
しかし、ゼクルスが牢の壁で見えなくなると、また直ぐに、さっきよりも急いで描くのを再開した。
「おっと、一言言うの忘れてたぜ」
全く忘れ物の多い男だ。ただ、今回はいい事に向いたこともあって、カナリアもそのことを口には出さなかった。
「今のうちにそこのねぇちゃんと《お別れの挨拶》でもしておけよ。お前は《あの方》がもう予約済みだからな」
(――――――――!)
カナリアは、自分の瞳が極限にまで開かれるのを感じた。
去り際の「愛されてんなー」というぜクルスのふざけた言葉も、耳には入ってきたが、脳にまでは届かなかったほどだ。
カナリアは、ぎゅっと唇をかみ締めた。
(あの男が………)
会ったことは一度しかない。名前も知らないが、その不気味な程整った容姿と声を奪われそうなほどの壮絶な迫力はよく覚えている。
カナリアは泣き出したくなった。
あの威圧感と射抜くような鋭い瞳が、カナリアを今も捕えようとしていると思うと、この場から脱出しようとすることが不可能のように思えて仕方ない。
コン、という音がする。カナリアが手放した小石の音だった。
「カナリア! 大丈夫?」
『―――カナリア』
不意に、声が脳を過ぎった。
低い男物の声。うっとりするくらい魅力的なのに、どこか寂しげな、しかし誰よりも優しげに「私」の名を呼ぶ声。
「! カナ、リア……」
「何言ってんのよ! あんた、カナリアでしょう?」
「名前! そう、名前!」
「本当に何言ってんのよ! 頭やられていたりしないわよね?」
本当にどうかしていた。
「あの男」がいるからと言ってどうなのだ。
ここから脱出しなければ、三人とも危ない。特に、コレットは今も泣いているかもしれないのだ。
カナリアは、今一度顔を引き締め、小石を強く握った。
「本当におかしかったみたいです。すみません、トリシャさん」
「良いわよ。そんなこと。それより、さっさと魔方陣描いたら」
ふんっ、とパトリシアはそっぽを向いてしまったが、それでもカナリアのことを心配してくれていたであろうことはよく理解できた。
たぶん、彼の事があって正直になれないだけで、本当はずっと優しい人なのだろう。
少しとは言え、二人きりで喋ることとなった時から、カナリアはパトリシアをそう判断していた。
「―――出来ました」
「え?」
―――ぷつん。
「切れましたよ、トリシャさん」
「早!」
いつの間にか切れていた縄に、パトリシアは驚きを隠せないでいるようだった。
だが、カナリアからしてみれば驚くようなことではない。ただ、魔方陣から小刀を呼び出し、それで自分の縄とパトリシアの縄を切っただけだから。
「って、肝心の格子が外れていないじゃないの! どうすんのよ!」
パトリシアは目の前に鎮座する太い鉄の棒を睨んだが、カナリアはそれに対して笑みで返す。そこにカナリアについて回っていた儚げな印象はない。
妖艶さが無い分、いたずらする子供のような顔つきではあったが、それでも今までの彼女とは全く違う表情であった。
「愚問ですよ、トリシャさん。魔女にただの牢なんて、玩具と大差ありません」
カナリアは、胸に下げてある雫型の魔封石を下ろす。薄暗い牢では、少し不気味に光を反射した緑が美しい。
そして、カチャン、という音を一つ立てて、その強固そうな牢は開いてしまった。
「では、行きましょうか?」
魔法で変形させた鍵を片手にぎぃーと音を立てる牢を開ける。
急がないと。
カナリアはその気持ちでいっぱいだった。