7
最近また図書館で本を読み始めたが、なかなか以前のライラのようには集中できなくなっていた。
この席に座って外を眺めるのは好きだが、本を読むのを菜々はそれほど好きではなかったかもなどと思う。
そんなことを思いながらぼんやり外を見ていると、リンドール公爵令息が現れる。規則正しい几帳面そうな足音がわかりやすい。
立ち上がって挨拶をすると盛大にため息をつかれたが、何か問題ある挨拶だっただろうか。
「すまないが」
「はい」
「この間くれた焼き菓子の店を教えてもらえないだろうか」
「え、な、何か問題が?!」
かなりしっかり確認しながら作ったのだが、まさか何か変なものでも入っていただろうか。慌てて身を乗り出して聴くと、リンドール公爵令息はそうじゃないと首を振る。
「殿下が気に入られて……」
「殿下?」
何故そこで殿下という単語が出てくるのか、ライラにはまったく理解できない。疑問符をたくさん並べたライラの様子にリンドール公爵令息は一から説明をしてくれた。
要するに紙袋を持ったまま王太子殿下のところに行ったら、中のお菓子を気に入られて店を聞いてこいと言われたらしい。
まさか王太子殿下の口に入ることは想定していなかった。リンドール公爵令息は王太子殿下とも仲がいいらしい。
私が作ったって言ったら問題になるのかしら。不敬罪とかひっかかる?
一気に青ざめる。
ライラになってから常々思っていた。お菓子は以前の方が美味しいと。特に焼き菓子は。
菜々はストレス発散も兼ねてよく焼き菓子を作っていた。似たような材料が揃っていたこともあり、こっちでも作ったところ美味しくできたため、どうせならお礼にと何度か作ったりしたのだが。
ライラに表情がなくなったせいか、リンドール公爵令息が慌てたように言葉を続ける。
「俺があれを持ったまま殿下を訪ねてしまったため、興味を持たれたんだ。お気に召したようで買いたいらしく」
残念ながらあれはライラの手作りだった。止めておけばよかったと思わざるを得ない。
「俺も美味しいと思ったから、可能なら教えてもらえないだろうか?」
リンドール公爵令息の言葉にライラは申し訳ないと思いながら答えた。
「ごめんなさい。あれは、私が作ったんです」
その言葉にリンドール公爵令息は視線をそらして何かつぶやいた。
「……、か……」
「え?」
よく聞こえず聞き返すとなんでもないと首を横に振られる。
「あ、いや、なんでもない」
「なので、お店では買えないのですが」
「そうか」
特に怒ることもなく、淡々とうなずく相手にライラは困惑する。どうすべきなのか思案するがわからない。
彼が次の言葉を発するのをまっていると、急に視線があってドキッとする。
「手伝って欲しいことがあると言ったのを覚えてるか?」
「え?はい、もちろんです」
頷いてみせると少し困ったような顔でリンドール公爵令息は言った。
「殿下は、甘いものが好きで、よく美味しいお菓子を持って来いって言われるんだ。良ければ一緒に選びに行ってくれないか。さっきの焼き菓子が持って行けないなら、他のお菓子を持って行きたい」
ライラは不思議そうに首を傾げた。
「そんなことでいいんですか?」
お菓子を選びに行くなんて、ライラにしてみればとても簡単なことだ。
「君には簡単かもしれないが、俺には苦痛で難解なことなんだ」
ため息をつきながら、遠い目をして言うリンドール公爵令息は実はいつもそれに困っているのかもしれない。
確かにそのように困っているのであれば、彼にとってはとても重要なことなのかもしれない。
ライラは頷いて了承した。
「わかりました、私で良ければお手伝いさせてください」
そう言ったライラにリンドール公爵令息は嬉しそうに微笑んだ。
し、心臓に悪い笑顔だ……!
そんな風に感じながらライラはなんとか笑い返した、ような気がする。それからあっという間に約束の日や時間が決まっていった。
***
そして、当日。
家から出たくなかった。
「お嬢様!いつまでそうしている気ですか!お約束の時間に間に合わなくなってしまいますよ!」
ライラはベッドの端にしがみ付いていた。かなり前から支度はできていたが、直前で家から出たくなくなりこの状態だ。
「むしろ行かない方が、リンドール様のご迷惑にならないんじゃないかと……」
昨日夜あたりから頭をもたげているのは、ライラがリンドール公爵令息の横に並んで歩くことによる彼への風評被害だ。自分が色々言われても今さらなんら困りもしないが、相手は未来輝かしい公爵令息だ。ライラと同じというわけにはいかない。
「今お嬢様が遅刻する方がよっぽどご迷惑に決まってるじゃないですか!さっさと行ってください!!」
強い侍女の言葉に部屋を追い出されてしぶしぶ馬車に乗り込む。違う行き先にすればいいのではなどと思ったが、この乗ってすぐに走りだした感じは行き先はとうに聞いていて、変えるなど以ての外、むしろ遅刻する気ですかと目で訴えられそうだ。
最大級にため息をつくと、逆に別の不安に駆り立てられる。
「でも私が婚約破棄されたなんて、リンドール様もご存知だろうし、近くにいたら変な噂がたつなんて想像できそうよね。ってことは、実はこれ自体が何かの罠……!」
しかし、ふとリンドール公爵令息の微笑んだ顔を思い出して、固まる。
あの顔をして騙してたらとんでもない悪人だけど、残念ながらそんな風に見えない。いっそその方が気が楽になりそうなのに。
そんな風に頭の中でぐるぐるしているといつの間にやら約束の場所までついたようだ。馬車の揺れが止まる。
「お嬢様到着しました」
外からの声に「えぇ」と返事をし、1つ深呼吸する。
大丈夫!伊達に30年以上生きていない。あの婚約破棄よりひどいことなんてない。
心の中で自分に言い聞かせていると、馬車の扉がノックされた。慌てて立ち上がり出る準備をすると、少し経って扉が開く。
そして差し出された手を掴もうとして、手前で固まった。なぜならその手はいつもの御者の手ではなかった。
すらりと伸びた形の良い手、その手の向こうに見えるのはとても端正な顔立ちの青年。
「リンドール様?」
驚きにその手を取れず固まったものの、体は降りる態勢に入っていたため、ぐらりと傾く。どこかに掴まろうと横に伸ばした手は虚空を掴む。
落ちる!
そう思って恐怖で目を閉じたが、いつまで経っても想像していた痛みはこない。かわりに力強い腕に抱きしめられていることに気づく。
あぁああ!やらかした!
全身一気に熱くなったのがわかった。目の前にいたのがリンドール公爵令息だったことを考えれば、助けてくれたのが誰かなんて一目瞭然だ。
ライラは慌てて離れようと腕を伸ばす。
「リ、リンドール様!申し訳ありません!」
必死になって顔を上げて謝ると、リンドール公爵令息に心配そうな顔で覗き込まれた。
「大丈夫か?痛いところは?」
その言葉に慌ててぶんぶんと首を横に振る。顔が熱くてしょうがない。心の中で再び深呼吸して、ゆっくりと離れる。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
そう謝るとリンドール公爵令息は申し訳なさそうに首を横に振る。
「いや、むしろ……。俺の方こそ面倒なことを頼んでしまってすまない」
「いえ!とんでもないです!これぐらいなんでもないですから」
慌てるライラにリンドール公爵令息は少し眉を寄せて微笑む。