6(ハイスネス視点)
あの噴水での婚約破棄の宣言を見る1ヶ月ほど前のこと。
それは学園の図書館での出来事だった。
それほど行くわけではなかったが、その日もたまたま来ており、視界に入ってくるのはいつもの令嬢。お気に入りの席なのか、その日も同じ窓際の場所で、座って本を読んでいるようだった。
なんとなく来るとそこにまたいるなと認識するレベル。
ただ、何かいつもと様子が違うように見えた。いつもなら、1つの本を開いてそれをゆっくりと読み続けているのに、いくつかの本を机に積んでいた。
そして、何やら手元の紙と見比べたり、書き込んだりしている。普段と違う様子が気になり、ハイスネスは自分の用事もそこそこに、こっそりと眺めていた。他に誰もいないし、相手も彼の視線に気づく様子はない。
一体何をそんなに熱心に見ているんだ?
本を読んでいるフリをしながら、ぼんやりと眺めていると、急に令嬢が立ち上がる。椅子が大きな音をたてて倒れて、本人も驚いたようだった。
キョロキョロと周りを見渡し、誰もいないことを確認するとホッとした様子で、椅子を直していた。
まさか見られてるとは思わないよな……。
ちょうど彼女からハイスネスのいる場所は死角になっている。
「やっぱり、私は……」
そうぽつりと呟いた彼女の声は、安心と絶望と諦めを混ぜ合わせた奇妙な声色だった。それをどんな意味で言ったのか、ハイスネスにはわからない。
椅子に座り込み直した彼女は、テーブルに両肘を着くと、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
穏やかな風が開けられた窓の外から流れてくる。
気持ちよさそうに令嬢の長い髪が揺らめく。夕方の日の光に、亜麻色の髪が黄金色に煌めき、緑の明るい瞳は黄昏時を映し出していた。
その姿はとても美しく、綺麗だった。
ハイスネスもそのまま彼女を眺めていたが、彼女のその姿勢が次第に崩れていく。ずるずると頭が下がっていき、どうしたのか心配になって思わず立ち上がる。ハイスネスの心配も他所に、彼女の頭は机まで落ちた。
不安になり慎重に彼女に近づいてみると、小さな寝息が聞こえる。
「なんだ、寝たのか……」
まさか何かの病気で発作でも起きたのかと思ったがそうではなかったようだ。疲れているのか、彼女の目の下には隈が見えた。
普通の令嬢であればこんなところで寝られないだろうにと思い不思議に思う。
季節的に風邪はひかないだろうが、窓も開いており風が流れてくる。
そして足元に紙を一枚見つけて拾い上げる。何か書かれているようだが、彼女が書いたものなのだろうか。突然誰かの足音が聞こえて、慌ててポケットに紙をしまってしまう。
近づいてきたのはこの図書館の司書だった。名前はわからないが、いつも見る人の良さそうな女性だ。
「リンドール様、どうかこのことは他の方に内緒にしてくださいませ」
そう言ってゆっくりと彼女の背に暖かそうなストールをかけてやっていた。
「ライラ様、ノルガン伯爵令嬢は、この数日ずっと人が変わったかのようにこの調子で調べ物ばかりして。夜は寝られないのか、顔色が悪くて、とても心配なのです」
だから、寝かせておいてあげてほしいというのが司書の女性の願いだった。
もちろん起こすつもりも、誰かに話すようなつもりもない。
ハイスネスは初めてこんな様子の彼女を見たが、数日ずっとこの状態なのかと思うと普通じゃないように思えた。
「何かに駆り立てられるようにずっと調べているんですよ。日常的なことや、歴史まで幅広いんですけど。以前はずっと静かに本を読んでいらしたのに……」
彼女は心配そうに令嬢を見ていた。
「こんなところで寝るなんてよくないんでしょうけど、こんな様子ではいつか倒れてしまいます」
だから寝かせて差し上げたい。どうか黙っていて欲しい。そんな声が聞こえた気がした。
とくに拒否する話でもないので、ハイスネスは軽く頷いた。
次の日もなんとなく図書館に行ったが、彼女はいなかった。彼女が寝ていた席を見ていると、司書の女性が声をかけてきた。
「もう調べ物は終わったそうですよ。疲れたような表情をされてましたが、迷惑をかけてしまい申し訳ありませんとわざわざ来てくださいました」
そう言って彼女はハイスネスに何かを差し向けた。
「リンドール様もどうぞ。私が頂いたものですが、よろしければ」
昨日のことを黙っていてくださいねと暗に言われているような気がした。誰にも言ったりしないが、これを受け取ることで安心できるということなら。
そう思い受け取ると彼女はとても嬉しそうに笑った。
「令嬢の手作りのお菓子ですよ。先に頂きましたが、とても美味しいのです。その辺りの菓子屋よりよっぽど」
令嬢がお菓子を作るなど聞いたことがない。手作りと言いながら、お抱えの料理人が作ったのかもしれない。
そんな事を思いながら、捨ててしまう気にもなれず、家でお茶を入れて食べた。そんなに甘いものを好んで食べないハイスネスにもとても美味しく感じられた。
お茶の葉が入った、甘さの控えめな黄金色の焼き菓子は、なんとなく彼女の姿を連想させる。
もう関わることはないだろうと思いながら、ゆっくりと焼き菓子を味わった。
***
そう思っていたんだが……。
多少の縁があったのだろうか。
驚いた。
とにかくその一言に尽きる。
あの日はやけに学園内が騒がしかったため、早々に煩わしさから逃げ出すと、自分のお気に入りの場所に誰かが倒れていた。何か事件かと思いゆっくり近づくと、それは倒れていたのではなく眠っていたのだ。
長い亜麻色の髪が緑の庭に広がり、一瞬死体かと思ったがどうやらそうではないらしい。
そして、その姿を見て、図書館の彼女なのだと気づく。
貴族の令嬢ともあろう者がこんなところで寝てていいのか?何かあったらどうするんだ?
疑問に思いながら、少しだけ彼女の顔を覗き込む。すると、その頬に涙が流れたのが見えた。
ハッとして慌てて目を逸らす。
寝ているからと言って女性の寝顔を覗きこんで良いわけではない。どうしようか迷い立ち尽くす。
ここは起こして文句を言うべきか?
俺の場所だから立ち去れ?
いや、そもそも気に入ってたけど、学園の一部なのだから俺の場所だとは言えない。
やや混乱し考えるのが面倒になると、少し離れた場所に腰を下ろす。いつも通り1人で休むために来たのだが、亜麻色の髪の女子生徒が気になって寝られない。
安眠妨害だ。
などと思いながらも、ゆっくり横になると暖かい日の光でうとうとして、気がつけば予定通りの昼寝をしていた。
そして、気持ちよいタイミングで目が覚め体を起こすと、少し離れたところではまだあの女子生徒が眠っていた。
亜麻色の髪を再び見ると図書館以外の出来事を思い出す。
今日はこの亜麻色の髪をよく見る。噴水広場でのあの気分が悪くなるような婚約破棄宣言。
後ろ姿しか見ていないが、背筋をピンと伸ばし、堂々と婚約者を見据えていたのは彼女に違いない。
あんな生徒がたくさんいる場所でやるなんてと思いながら、自分も成り行きを密かに見守っていた。彼女があっさり了承して去っていったのを見たが、まさかここで会うとは。
「ん……」
カサリと芝の上を動く音がして焦る。しかし、起きたわけではなく、寒そうに体を丸めただけだった。その瞳はまだ固く閉じられていることにホッとする。
そろそろ戻る時間だと思い立ち上がる。そのまま立ち去ってもよかったのだが、迷った末に制服の上着を脱ぎ、寒そうにしている彼女の上にそれを掛け立ち去った。
図書館では司書の女性がいた。あそこなら必ず彼女が何かを掛けてくれるだろうが、あの庭園ではそうもいかない。それを覚えていたから、上着をかけずにはいられなかった。
***
ハイスネスは目の前に現れた亜麻色の髪のノルガン伯爵令嬢を見てそんなことを思い出した。
「あの、返すのが遅くなってしまい申し訳ありませんでした」
そう言って、あの時掛けた上着を返される。戻って来ないものと思っていたので意外だった。むしろ、捨てられててもおかしくないだろう、ぐらいには。
制服の上着を受け取り、行こうとしたところで引き留められる。
「あ、あの、甘いものがお嫌いでなければこれも」
彼女はそう言って、俯きがちに紙袋を差し出してくる。反射的に受け取ると、彼女はホッとしたようだった。
受け取ったものからは、甘い焼き菓子の香りがする。
「では」
頭を下げて去ろうとしたノルガン伯爵令嬢に、ハイスネスは焦って引き止める。今止めなくてはと、脳内で誰かが囁いた気がした。
「ノルガン嬢!」
彼女はハイスネスの呼びかけにゆっくりと立ち止まる。
「なんでしょうか?」
不思議そうに首を傾げる。
「黙っている代わりに、手伝って欲しいことがあるんだ」
内心引き留めた自分に焦っていたが、それどころではない。なんとかそれらしいことを言ってみると
彼女は不思議そうにしながらもこくりと頷く。
「私で良ければお手伝いさせてください」
控えめに微笑み了承する令嬢。
中途半端な約束を取り付けた自分に頭が痛くなる。
***
「え、なに?お前頭悪いの?」
とても綺麗なご尊顔の主が真顔で辛辣な言葉をぶん投げてくる。ハイスネスは相談相手を間違えたと思い頭を落とす。
「殿下が将来この国の王なのかと思うと、少し不安になります」
そう言うと本当にフォークをぶん投げてきた。受け止めるこっちの身にもなって欲しい。
ハイスネスと綺麗な顔の持ち主の間にはテーブルがあり、その上には豪華な食事が並べられている。
一応食事会という建前だ。
ハイスネスの目の前にいる綺麗な顔の持ち主は、この国の王太子殿下であり、ヒストと同じくハイスネスの幼馴染みでもあった。
優雅に食事を取りつつも、殿下はナイフをハイスネスに向けて言う。
「そこまで誘ったならもうデートするしかないだろ」
「そんな話してないぞ」
「は?そんな話だっただろ」
納得していないハイスネスに対して、王太子は食事を水で流し込んでから続けて話をする。
「私への相談事を要約するとこうだ。図書館で一目惚れして、我慢できずにデートに誘った。どうしていいかわからないから教えてくれ」
絶対違うと思いつつも言い返せない。最後の言葉だけはあっている。
「でも、彼女は、婚約破棄された令嬢だぞ」
「そんなこと気にしてないだろ」
その通りだった。ただの言い訳だ。
「今回の婚約破棄が相手の家の一方的なものだったのは明らかだろ。たしかに異世界人は保護対象ではあるが、やりすぎだ」
そう言ってため息をつく。
「まぁ、お前には好都合だっただろ?」
「そんな風には思ってない」
それはあまりに彼女に失礼ではないかと思う。思うが……。
「でも、婚約してるかしてないかは我々には重要だろう?」
それはその通りだった。婚約は王に認められて行われるもの。本来勝手に破棄できるようなものではない。
「いいじゃないか。細かいことは気にせず、向こうも婚約者はいない、お前も婚約者はいない。堂々とデートなりなんなりできる身分だ!問題ない!」
「だから」
「でも次の機会が欲しくて、手伝って欲しいなんて中途半端なことを言ったんだろう?」
その通り過ぎて何も返せない。
くくっと笑う目の前の王太子を今なら殴っても許されるんじゃないかなどと不敬なことを思う。
「まぁ、お前がそこまでデートしたくないというなら、普通に学生らしく一緒に勉強でもしたらいいんじゃないか?わからないことでも教えてもらえばと思ったが、お前の方が学年が上か、ついでに十分優秀な成績だったな。うーん」
殿下まで悩み始めてしまい申し訳なくなるが、手伝って欲しいと言った手前それっぽいことを頼みたいが残念ながら思いつかない。
「そういえば、持ってきたその可愛らしい袋はなんなんだ?」
考えるのに飽きたのかハイスネスの持っていた紙袋を指差す。水色の上品な花柄の紙袋とはいえ、たしかにハイスネスが持つには些か違和感がある。そのままここに来たため、今も持っていた。
「あぁ、さっきノルガン嬢からお礼に」
「何が入ってるんだ?」
「たぶん焼き菓子かと」
「へーちょっと頂戴」
甘い物好きが手を伸ばしてきたため、紙袋を遠ざけるとうろんな目で見られる。
「心の狭い男は……」
ぐちゃぐちゃ言い出したため、仕方なく少し分けると満足そうに食べ始める。
食事はどうしたと思いながら見ていると、焼き菓子を口に入れるなりとても目を輝かせた。
「美味いなこれ!どこの菓子なんだ??」
紙袋を見てみるが、大抵書いてあるはずのお店の名前が書いていない。
「とりあえずどこのお店のか聞いといてくれ」
なんとなく嫌な予感がしたが、ハイスネスは了承するしかなかった。
「わかりました。ついでに、殿下を出しにしてもいいですか」
「お、なんか思いついたのか?いいぞいいぞー」
***
とくに約束を取り付けなくとも彼女は必ず授業終わりには図書館にいた。これまでの静かな時間を取り戻すかのように、いつもの席で、以前のように本を読んでいた。
ただ、時折外の景色を眺めてぼんやりしている時間が増えたように見える。
足音に気づくと彼女は視線を上げて、椅子から立ち上がる。
「リンドール様、こんにちは」
それだけで満足してしまいそうな自分がいて困る。大きくため息をつくと目の前の彼女は小首を傾げた。